会員の広場

会員からの投稿

INDEX

 新サイト掲載分

2024年

フライ・ツー・ザ・ムーン・アゲイン   田代 務さん
パトリツィア・ヤネチコヴァ Patricia Janečková に花束を   伊藤英一さん

 

2023年

ミュンヘン・ オペラフェスティバル に行ってきました   森弘道さん
坂口行雄さんの投稿の 連載コーナーへの 移行のお知らせ   坂口行雄さん

 

2022年

山口県の酒 「獺祭」「雁木」裏話   小林 洋さん(町田香子さん)
フォトアニメ ー 花水木(秋の続編 本編 続編)   坂口行雄さん

 

2021年

2021年はTAS完成 50周年記念の年でした   樫村慶一さん
昭和16年 12月8日のこと  20年 8月15日のこと   樫村慶一さん
絵手紙・詩手紙と 朗読のコラボ動画   前尾津也子さん
上福岡研究所の桜   浅見徹さん
宮沢賢治の「やまなし」(朗読動画) をYouTubeに公開   前尾津也子さん
お風呂の中で思うこと   樫村慶一さん
オークションで 衝動買いの楽しみ   樫村慶一さん

 

2020年

「世界の声の交差点で」 をYoutubeで期間限定配信   前尾津也子さん
幻のミャンマー旅行   牛尾哲久さん
日々の報道に対する疑問 ー コロナ感染者数 ー   稲垣和則さん

 

2019年

国立西洋美術館 松方コレクションをめぐる物語  島崎 陽子さん
 田代 務一さんの投稿

 

 

フライ・ツー・ザ・ムーン・アゲイン
〜月への宇宙開発新時代と通信〜

田代 務

先日、「フライ・ミー・ツー・ザ・ムーン」というラブストーリー映画を観て、1960年代の米ソ宇宙開発競争の頃が懐かしくなりました。
アルテミス計画では、日本人宇宙飛行士が月面に降り立つ日も期待されます。
そこで、過去の宇宙開発の歴史とともに月に関する科学や面白いお話をまとめた文書を次の2つのサイトに掲載しました。

https://a1a.jp/     http://a2a.jp/

 

その目次は次のとおりです。

1 1960年代の宇宙開発競争
• アポロ11号
• 米ソによる宇宙開発競争
• 月面撮影に使用されたTVカメラ
• 映画「フライ・ミー・ツウ・ザ・ムーン」
• アポロ11号月着陸のTV中継
• 当時の通信やテレメトリ等の方式
• 70年大阪万博での宇宙関連展示

2 月の歴史と環境
• 月の起源
• 月の昼夜や地球での潮の干満
• 百人一首に詠まれた月
• 月から見た地球
• 月の表と裏の2分性
• 月面環境 (重力や温度)
• レゴリス
• レゴリスの利用

3. 月探査の新時代
• 月探査ミッションの歴史
• 日本のSERENE「かぐや」
• 日本の小型月着陸実証機「SLIM」
• 月面基地の候補地
• 米国アルテミス計画
• アルテミスII号
• アルテミス計画での通信リンク
• アルテミス計画での使用周波数

お暇なおりにご笑覧頂き、間違い等あればご指摘頂ければ幸いです。

 

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5. ビロードの歌声はアクセス禁止の国境を越えて

 ロシアはロシア国内の消費者権利を保護する為として、国際プラハ・ラジオのロシア語放送ウェブサイトへのアクセスを2021年7月15日以降、全面的に禁止する措置をとった(45)、と報じられている(46)。 禁止の理由は、その20年前の2001年に国際プラハ・ラジオが取上げた、ヤン ・ パラフ(Jan Palach)に関する報道内容が、自殺を肯定的に語ることを禁止するロシア国内法に抵触するとの理由によると(47)推測されている。

 2021年のアクセス全面禁止措置の起因となった、対象報道は20年前の2001年のものだが、その報 さかのぼ 道の内容そのものは更に半世紀以上前の1968から1969年にかけての時期に遡るものである。
 当時、ヤン ・ パラフはチェコスロヴァキア・カレル大学の学生で20歳だったが、プラハの中央に あるヴァーツラフ広場にあるヴァーツラフ像の下で、1969年1月19日に焼身自殺した青年である。 その前年、1968年の新春から晩春にかけて、チェコスロヴァキアには、報道、表現、流通の自由が もたらされるかと期待された「プラハの春」と呼ばれる季節があった。しかし、ソ連主導のワル シャワ条約機構軍による侵攻を受けて、期待された夢が敢え無く潰えてしまった。その後のチェコスロヴァキアでは、自由が抑圧されているにも拘わらず、あきらめムードが蔓延、チェコスロヴァ キアの人々だけでなく、世界の反応も消極的になってしまっていた。ヤン ・ パラフはそんな状況に 抗議して、焼身自殺を決行したのだった。

 ヤン ・ パラフの歿後20年を過ぎた1989年2月、ヤン ・ パラフのメモリアルに花束を捧げようとした劇作家のヴァーツラフ・ハヴェルが逮捕され、9カ月間の禁固刑に処せられた。これが、チェコ スロヴァキアでの革命の切っ掛けの一つとなり、共産党による一党独裁が終焉する糸口となった。 この革命が、比較的平和裡に推移し、ビロードの表面が白鳥の羽毛のように柔らかく優しい感触で あるように、共産主義から脱却する革命がスムーズに成就したことから「ビロード革命」、あるい は平穏に革命が実現したことから「穏やかな革命」とも呼ばれるようになったのである。そこで、 ヴァーツラフ・ハヴェルはチェコスロヴァキア大統領に就任した。
 なお、チェコスロヴァキアで41年間続いた一党独裁に終止符を打った、1989年11月17日から28日 にかけての革命を、チェコ語では Sametová revoluce(ビロード革命 / The Velvet Revolution / La révolution de Velours)と呼んでいるが、スロヴァキア語では Nežná revolúcia(穏やかな革命 / The Gentle Revolution / La révolution douce)と呼ばれている。
 更に、続いて、1992年末にはチェコとスロヴァキアの二国に別れる分離独立により、1993年1月1 日、チェコ共和国とスロヴァキア共和国が誕生した。この時、ハヴェルがチェコ共和国初代大統領 となり、ミハル・コヴァチがスロヴァキア共和国大統領に選出されている。
 この一連の分離独立について、英語やフランス語ではビロード(velvet;ヴェルヴェット / divorce velours;ヴルール)との比喩を援用してビロード離婚との表現を用いる向きもある。しかし、現 地ではチェコおよびスロヴァキアの両国とも、単にチェコスロヴァキア解散あるいは分離と呼んで いる。両国とも、分離独立に伴う痛みを味わっており、そのメリット / デメリットについての評価 は今も賛否相半ばと言われており、ましてや離婚に喩えられるのは好まれていないようだ。2004年に両国がヨーロッパ連合に加盟し、分離の痛みは軽減したとも言われているが(48)

 様々な紆余曲折があったにせよ、ユーゴスラビアのような悲劇が分離独立に伴って多々見られる 中で、チェコとスロヴァキアの温和な関係は高く評価されるべきである。それこそ、ビロード (ヴェルヴェット)のように柔らかくふんわりとした静穏な分離が実現し、その後もヴェルヴェッ トのような関係を保っており、そんなゆったりした穏やかな関係を世界中が範としてくれたらと願 わざるを得ない。

 ただ、そのような穏やかな革命や国家関係の礎に、もう半世紀も前の話になるが、当時、未だ20 歳だったヤン ・ パラフの焼身自殺による抗議、犠牲があったことは事実である。 その半世紀前の、しかし忘れられてはならないと思われる事実が、20年前の2001年に於ける国際 プラハ・ラジオの報道内容に含まれた。それが、自殺を肯定的に語ることを禁止するロシア国内法 に抵触するとされ、2021年7月15日以降、国際プラハ・ラジオのロシア語放送ウェブサイトへのア クセスを全面的に禁止するとの措置に繋がったのであろう。

 しかし、「オペラ歌手のスターが消えた(49)」と報じた国際プラハ・ラジオのロシア語放送の例に見るよ うに、国際プラハ・ラジオ側の報道姿勢は健在である。
 また、パトリツィア・ヤネチコヴァが残したウェブ上の歌声は、ロシアでも根強く愛されている ようである。ロシア語によるファンのコメント投稿も多く、またそこで表明されている彼女の死を悼む思い(50)には深いものがある。

 シャンソン歌手のシルヴィ・ヴァルタンS y l v i e  V a r t a n が、故国ブルガリアのマリツァ川を偲ぶと同時に、自由を求めパリへの亡命を家族帯同で先導してくれた父君への感謝を込めて歌った曲に「 La Maritza ラ  マ リ ザ ァ(想い出のマリッツァ;ジャン・ルナールJ e a n  R e n a r d 作曲)」がある。この曲に、チェコの作詞家パヴェル・ ザックP a v e l Ž á k の歌詞を付けた「Co mi dáš(51)(何を私に下さるの)」を、パトリツィアが歌っている。彼女の 歌声に寄せられた、ロシア語でのコメントや、パトリツィアへの愛惜哀悼からは、中欧から東欧に かけて通底する文化的な香りが感じられる。
 もっとも、ロシア語で書き込みされているからとか、ロシアに割り当てられている国別コード= トップ・レベル・ドメイン名(ccTLD)が使われているにせよ、必ずしもロシア国内からの発受 信とは断定出来ないが。しかし、ロシア語を話し書く人々のパトリツィア・ヤネチコヴァを愛する 層は広く厚いのである。

 スロヴァキア人の両親の下にドイツで生まれ、スロヴァキア人の恋人と結婚したパトリツィア・ ヤネチコヴァが、チェコのオストラヴァで活躍、チェコ放送傘下の国際プラハ・ラジオの追悼音楽 番組で哀悼の意が世界に伝えられるという、まさにビロードのような環境に包まれた、パトリツィ ア・ヤネチコヴァの歌声が国境の壁を超克していることが実感される。

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 6. パトリツィアの闘病に花束を

 コロナ禍からの黎明がようやく輝きだした2021年末から2022年にかけて、コンサート、オペラ、 ミュージカルと予定も目白押しで、パトリツィア・ヤネチコヴァの素晴らしい活躍と一層の飛躍が 期待されていた。

 しかし、「2022年1月31日の月曜日、快晴の朝、太陽の光を反射して、氷結した木々や道路がきらめき壮麗だった。電話では検査結果を伝えられないので、直ぐ来るようにと医師から告げられ、病院 に出掛けた。その帰り、救急車から出ると、既に空は雲に覆われていました(52)」と、パトリツィア・ ヤネチコヴァは、後に雑誌の対談で語っている。

 2022年2月9日、インスタグラム(53)およびフェイスブック(54)で、更に、その2週間後にはユーチューブ (55)を介して、1月末に乳癌との診断を受けた為、厳しい闘病生活に入らなければならないと公表した。 舞台を離れ、コンサート等の予定もキャンセルしたことを伝えると同時に、チェコの芸術家支援基 金を通じての援助を依頼した。そして、病魔との戦いに打ち勝って、歌う世界に何時か凱旋するこ とを誓ったのだった。

 インスタグラムおよびフェイスブックでの公表に衝撃を受けた人々から、お見舞いや激励の言葉 が寄せられた。チェコ語やスロヴァキア語によるものは勿論だが、ドイツ語、ポーランド語、英 語、日本語、韓国語、中国語、スペイン語、イタリア語、ロシア語、ポルトガル語、フランス語、 等々、世界各国語によるメッセージが投稿された。フェイスブックでの700を超えるコメントは、長文も多く、懇切丁寧な治療方法や望ましい食事なども綴られている。
 もっとも、「総てのメッセージが優しいものでは無く、それが人間の本質の一面なのでしょう(56)」 と、ミラン ・ バトール記者との4回目のインタヴューで、厳しくも重い現実を述懐している。

 しかし、そのような暗いニュースが流れた2ヶ月後には、一転して明るいメッセージが届けられ た。化学療法結果は良好で、担当の腫瘍医と相談した結果、慎重を要するもののミュージカルに出演することは可能とのことであった(57)。オストラヴァのモラヴィア・スレスコ(シレジア)国立劇場でのミュージカル「Harpagon je lakomec?(58)(アルパゴンは強欲か ?;モリエール「守銭奴」のオリ ジナル・ミュージカル版)」で4月6日舞台に復帰し、4月12日には「ウエスト・サイド物語」のマリア役(59)で出演している。

 その後も、癌の治療は順調で、8月10日からの外科手術は厳しいものの成功しているとの経過が 果敢にアップされ、回復基調にあることが報告されていた。
 2022年12月15日には、ベドルジハ・スメタナのオペラ・ブッファ「売られた花嫁(Prodaná nevěsta / La Fiancée vendue)」のエスメラルダ役で舞台に出ている。しかし、12月22日のインタヴューでは、「本来の力を出せない(60)」との苦悩も漏らしている。
 闘病を続ける彼女を支援し、激励する為のコンサートが2023年1月7日、オストラヴァ福音教会で開催されている(61)。半年後の6月18日には25歳の誕生日を迎え、更に彼女が「人生で最も美しかった日(62) 」と書き込んだ6月24日には結婚と、朗報が続いた。 

 しかし、夏には肝機能の不全が重症化し(63)、薬石投与を含む利用可能な治療が望めなくなり、パトリツィア・ヤネチコヴァを救うことが出来なかったと報じられた (64) 。2023年10月1日夕刻のことである。その前々日、9月29日に結婚式の模様(65)ユーチューブにアップし、30万回を超える視聴と、1千 通を超えるコメント欄での祝辞が寄せられる最中であった。

 病魔という敵に勇気を奮って挑戦し、頑張って、立派に闘ったパトリツィア・ヤネチコヴァに花 束を贈りたい。

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 7. 天使の翼とメディアの光

「天使のような才媛は、その翼を完全に拡げるには時間が足りなかった(66) 。しかし、彼女は最善を 尽くした。」
 オストラヴァの日刊文化サイトである「オストラヴァン」でミラン ・ バトール記者は、パトリ ツィア・ヤネチコヴァが逝去した翌日の記事に、そのような見出しを付けた。

 しかし、パトリツィア・ヤネチコヴァを8歳の頃から指導し、更にはヤナーチェク音楽院、オストラヴァ大学を通じて、公私双方で彼女に寄り添って来て、彼女の心に極めて近い存在であるエヴァ・ドリズゴヴァ教授からは、「パトリツィアは子供のころから翼を拡げ、人生で他の人より多くのことを成し遂げました。それで、今は天にいるのです (67) 」とのメッセージがあったことを同時に 紹介している。
 更に、パトリツィア・ヤネチコヴァは、余りにも拙速にこの世から離れてしまったものの、信じ られない程の努力家で、強い責任感に裏付けされた、多岐に亘る能力を見せながら、輝ける、消されることのない極印を残したのだと記した(68)

 生徒としてのパトリツィア・ヤネチコヴァと、彼女を指導し「パトリツィアは子供のころから翼を拡げ…」とのメッセージを寄せたエヴァ・ドリズゴヴァ教授との、息の合った二重唱 デ ュ オ を視聴して みると(69) 、良い関係の雰囲気に二人が包まれている様相が実感される。

 そんな二重唱の例として、先ず、「そよ風によせて(Sull’aria...che soave zeffiretto)」にアクセス してみよう(アクセス先;https://youtu.be/d4s5VHlAwDw
 モーツァルトのオペラ「フィガロの結婚(Le Nozze di Figaro)」の第3幕で、放蕩の過ぎる伯爵 を懲らしめる為に、結婚を間近に控えたスザンナと伯爵夫人が二人で手紙をドラフトする場面で歌われる「手紙の二重唱」とも呼ばれる小曲 canzonetta である。
 伯爵夫人ロジーナ役を先生のエヴァ・ドリズゴヴァが、スザンナ役を生徒パトリツィア・ヤネチ コヴァが務めているが、如何にも二人が共同作戦を練っている様子が上手く演出されている。 なお、この二重唱のバックで共演しているのはオロモウツのモラヴィア・フィルハーモニー管弦 と 楽団であるが、指揮者は先に3項で紹介した小荘厳ミサ曲の指揮をったパオロ・ガット(Paolo Gatto)で、エヴァ・ドリズゴヴァ先生の伴侶である(70)
 2013年8月17日、モラヴィアのヤルメリッツ城 (71) での音楽祭最終日の模様が録画されたもので、パトリツィアが15歳になったばかりの頃となる。演奏後、パオロ・ガットにうながされ、聴衆の拍手に応 える二重唱の2人の笑顔が素晴らしい。

 二重唱の二番目の例として、23歳になったパトリツィア・ヤネチコヴァがエヴァ・ドリズゴヴァ 先生と出演したリサイタルでの模様にアクセスしてみたい(アクセス先;https://youtu.be/- kgXyWa_SDo)。
 この録画は(72)、コロナ禍で苦闘する教育関係者支援の為に、チェコ・テレビの支援の下、オルロ ヴァのシレジア福音教会に於いて、2021年4月24日に非公開で行われた。出演者は二重唱の2人にピ アニストとアナウンサーの計4人に留められている。録画の長さは1時間9分54秒であるが、例とし ての曲は、録画の最後の部分となる1時間3分42秒以降の小曲を視聴してみよう。

 レオ・ドリーブ(Léo Delibes)作曲のオペラ「ラクメ(Lakmé)」第1幕からの一曲(73) で、1883年4 月14日にパリのオペラ ・ コミック座で初演されたものである。イギリス統治下のインドで、バラモン教僧侶の娘ラクメが侍女マリカと共に、ジャスミンの花咲く寺院 D ô m e へ出掛け、青い蓮の花を一緒に 摘みましょうと歌う「花の二重唱(duo des fleurs)」である。可憐な娘ラクメとイギリス軍将校 ジェラルド、二人の未来を待ち受ける悲恋を予知させる曲となっている。
  娘ラクメを演じるパトリツィア・ヤネチコヴァと、侍女マリカ役のエヴァ・ドリズゴヴァ先生と の掛け合いが、静寂な中で穏やかな雰囲気を醸し出している。
 二人が、同時に、しかし異なる歌詞を掛け合わせる部分が絶妙な調和を保っており、フランス語 みんな での文意が鮮明に伝えられて来る。二人が違ったことを語っているのだけれど、しかし一緒。皆が 違って、皆が良い、との二重唱版となっている。
 一方、コロナ禍が続く中で、様々な制約があったことが再確認される記録ともなっている。2021 年初春は未だ、コロナ感染予防の為、非公開を余儀なくされていた時期でもあり、静寂な環境の利 点もあるものの、拍手や観客の反応が得られない寂しさがある。また、教会の中の暖房設備の制約 からか、厚手の外套を着込んでの長時間演奏の厳しさも伝わって来る。パトリツィアたちが抱えて いた苦難が偲ばれる。

 前例の2013年に歌われた「手紙の二重唱(そよ風によせて)」では15歳だったパトリツィアが、 後者の例の「花の二重唱(duo des fleurs)」を歌った2021年には23歳となり、その間の技倆の進展 に著しいものが覗えると同時に、エヴァ・ドリズゴヴァ先生の良き指導も推察される。
 パトリツィア・ヤネチコヴァとエヴァ・ドリズゴヴァ先生が一緒に歌う二重唱の例を追って見る と、良き伝統を次世代に継承しようとする微笑ましい関係が麗しい。
 エヴァ・ドリズゴヴァ先生は、「パトリツィアの声を変えることや、歪めることが無いように、「力を入れないで、漸進的に成長できるようなレパートリーを選ぶようにしている(74)」と、2014年に 語っていた。「力を入れない」、「無理をしない」との、先生の的確な判断やアドヴァイスが報われ つつあり、喜びや期待には大きいものがあったのは確かであろう。

 とは言え、ミラン ・ バトール記者の「信じられない程の努力家で、強い責任感に裏付けされた …」との記述からも推察されるパトリツィアの長所が、逆に2022年の術後スケジュールを厳しいも はこ のに留めてしまった可能性は否めない。公演予定をキャンセルしたとのメッセージどおりには運ば なかった事情が垣間見える。もっとも、2022年4月の「ウエスト・サイド物語」のマリア役での出 演は、当の本人の希望に沿ったものでもあったようで、その際の写真が彼女の逝去を報じるニュー ス等で多く使われていた。
 結果として、師よりも次世代を担う若者が早世してしまうような痛ましいケースもあり得ると の悲劇が実感させられてしまう。
 同時に、若い世代から学ぶこともまた多く、パトリツィア・ヤネチコヴァが、翼と十分に拡げら れたのかどうかはさておき、「パトリツィアは子供のころから翼を拡げ…」との先生の述懐も共感 させられる思いがする。

 パトリツィア・ヤネチコヴァとエヴァ・ドリズゴヴァ先生との世代の境界を越えたコミュニケー ションが織りなす、ほのぼのとした空気感は、『戦争と平和』でアンドレイ公が見上げるモラヴィ アの紺碧の空のように、あくまでも高く、清らかで、寛大な感じをもたらしてくれる。

 1805年12月2日朝からの「アウステルリッツの戦い」を含め、第一次と第二次に及ぶ世界大戦を挟み、更には20世紀末の冷戦終結時までを振り返って見ると、国境の壁、人種や国籍による境界、 言語や信仰信条への干渉、等々で苦難の歴史を辿ったのが、バイエルン、ボヘミア、モラヴィア、 シレジア、スロヴァキアにかけての地域である。

 しかし、1998年6月18日にドイツのバイエルン州ミュンヒベルクでスロヴァキアの両親の間に生 まれたパトリツィアが、チェコのオストラヴァで育ち、学び、歌いながら、2023年10月1日夕刻、 天に召されるまで、嘗ての地域的な対立が影を落とした形跡は皆無である。
 20世紀の終わりから21世紀の現在にかけて、バイエルン、ボヘミア、モラヴィア、シレジア、ス ロヴァキアにかけての地域に穏やかな、寛容度の高い、清澄な空気が流れていることが感じられ る。

 しかし、不寛容の風潮が地球を取り巻くように蔓延し、国家間の対立や悲惨な戦争が、音楽を始めとした芸術の分野にまでインパクトをもたらしている昨今の世界情勢である (75) 。パトリツィアが活 躍し、翼を拡げつつあった地域の優しく、穏やかで、ふくよかさに包まれた寛容度の高い在り方を 模範として考え直して見る必要があると思われる。

 また、パトリツィアが早世したこともあり、DVD やテレビ放送等による高品質メディアの記録 が殆どないことは残念である。しかし、逆に方式や地域性の制約を受けないメディアによる世界へ の拡がりが、インスタグラム、フェイスブック、ユーチューブ等の双方向メディアで確保され、そ の光の恩恵を世界の人々が享受出来ることは幸せであると思われる。特に、パトリツィアの投稿し た録画やメッセージを巡って飛び交う多様な言語からは、そのコミュニケーションを支援する自動 翻訳機能の精度が高まり、言語の壁が克服されつつあることが実感される。

 ただし、そのようにコミュニケーションが容易な時代であればこそ、パトリツィアを苦しめた、 「総てのメッセージが優しいものでは無く、それが人間の本質の一面なのでしょう」と述懐させた ような、悪意ある虚偽メッセージに関しては、そのようなメッセージの流通交換を決して許さない システムの構築が迫られている。

 歌姫パトリツィアの成功への羽ばたきが止むことなく、翼が更に拡がり、迎え入れられた天での 飛翔に支障が無いことを、そして彼女の歌声が世界中で更に愛され続けることを祈りたい。

なお、脚注に付したウェブ等の参照日時は、特に記載の無い限り、2023年 10月1日から2024年1月22日23:00JST にかけてのものである。 また、チェコ語、スロヴァキア語、ロシア語、スペイン語、ポルトガル語 から、フランス語、英語、ドイツ語への自動翻訳および照合にあたっては、 主として Google translate に依拠した。特に、注釈中に引用紹介したチェ コ語サイトのフランス語文は Google translate の「チェコ語→フランス語 自動翻訳」機能を利用、記録した結果である。 

 

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参考文献
参考サイト

(1)

“Una triste noticia afectó el ámbito de música clásica checa. A los 25 años de edad falleció la diva Patricia Burda Janečková.”

Fallece la diva Patricia Burda Janečková a los 25 años de edad 08/10/2023

https://espanol.radio.cz/fallece-la-diva-patricia-burda-janeckova-a-los-25-anos-de-edad-8796249

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(2)

“« J’adorais chanter et peu m’importait de savoir si j’allais remporter le concours ou pas. J’étais encore une enfant. Après ma victoire, c’est devenu plus compliqué pour moi, je n’étais pas habituée aux caméras, aux interviews… J’étais timide et ne savais pas comment parler aux adultes », s’était souvenue Patricia Janečková dans un entretien.”

Musique : hommage à la jeune soprano Patricia Burda Janečková 08/10/2023

https://francais.radio.cz/musique-hommage-a-la-jeune-soprano-patricia-burda-janeckova-8796386

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(3)

2010年12月10日09:00ET(Eastern Time)放送の CNN は、12歳の、パトリツィア・ヤネチコヴァが チェコおよびスロヴァキアのタレントマニアで、最終投票120万票の内、53% を獲得して優勝したことを 報じたと記録されている。

“All right, now, an amazing performance in Slovakia. Take a look. Oh my goodness. Her voice is amazing and she is just 12. Patricia Janeckova is the winner of the Czech/Slovak Talents Mania television show. Some 1.2 million viewers took part in the final vote; 53 percent favored her and you can bet the music world is taking notice. My goodness.” CNN NEWSROOM Aired December 10, 2010 - 09:00 ET.

http://edition.cnn.com/TRANSCRIPTS/1012/10/cnr.01.html

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(4)

“Ihre Karriere begann sehr früh, sie endete aber viel zu früh. Die Opernsängerin Patricia Burda Janečková ist am vergangenen Sonntag im Alter von nur 25 Jahren an Krebs gestorben”

Tod mit 25 Jahren: Opern- und Musicalsängerin Patricia Burda Janečková 08.10.2023

https://deutsch.radio.cz/tod-mit-25-jahren-opern-und-musicalsaengerin-patricia-burda-janeckova-8796311

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(5)

“Погасла звезда оперной певицы Патриции Бурда Янечковой”

https://ruski.radio.cz/pogasla-zvezda-opernoy-pevicy-patricii-burda-yanechkovoy-8796312

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(6)

“Rising opera star Patricia Burda Janečková succumbs to cancer at 25. Soprano Patricia Burda Janečková was one of the bright lights of the opera world. Her young life and promising career were tragically cut short by cancer to which she succumbed at the age of 25. She died on October 1, 2023.”

https://english.radio.cz/rising-opera-star-patricia-burda-janeckova-succumbs-cancer-25-8796299

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(7)

In memory of Patricia Janečková 23. 10. 2023

cf. G. F. Handel - Acis and Galatea( HWV 49) https://youtu.be/8zNxWvQXJpY

Baroque Theatre in Valtice - Festival Concentus Moraviae( 2017)

https://www.collegiummarianum.cz/en/in-memory-of-patricia-janeckova/

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(8)

“Le Festival de Lednice consacre le concert de vendredi à la mémoire de la chanteuse Janečková 10/03/2023”

https://cesky.radio.cz/lednicky-festival-venuje-patecni-koncert-pamatce-pevkyne-janeckove-8796113

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(9)

“La chanteuse Patricia Janečková est décédée à l’âge de 25 ans et la meilleure façon de se souvenir d’elle est à travers ses enregistrements.”

Zpívá Patricia Janečková( Patricia Janečková chante)

https://d-dur.rozhlas.cz/zpiva-patricia-janeckova-9097361

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(10)

https://www.klasikaplus.cz/cro-d-dur-dva-prenosy-z-kralovehradeckeho-hudebniho-fora-a-nahravky- patricie-janeckove/

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(11)

Musique : hommage à la jeune soprano Patricia Burda Janečková 08/10/2023

https://francais.radio.cz/musique-hommage-a-la-jeune-soprano-patricia-burda-janeckova-8796386

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(12)

 Patrícia Janečková First Audition,12, Amazing Pure Tone So Beautiful!! | “TIME TO SAY GOODBYE” 

https://youtu.be/OfNul7LZCdc

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(13)

 Patricia Janečková ; “Les oiseaux dans la charmille”( Jacques Offenbach ; Les contes d’Hoffmann) 20,002,730回視聴 2016/05/15アップロード Jacques Offenbach : “Les oiseaux dans la charmille”( Les contes d’Hoffmann / The Tales of Hoffmann) Patricia Janečková, soprano - “New Years Concert in Vienna Style“ Janáček Philharmonic Ostrava, Chief conductor: Heiko Mathias Förster, January 7, 2016, Ostrava, Czech Republic.

https://youtu.be/mVUpKIFHqZk

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(14)

Patricia Janečková ; Antonín Dvořák, Rusalka - “ Měsíčku na nebi hlubokém”

https://youtu.be/8WrXtnCX_9g

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(15)

Patricia Janečková: J S Bach - Charles Gounod, Ave Maria.

https://youtu.be/GiNyV6AK7kM

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(16)

Patricia Janečková: Giacomo Puccini, O Mio Babbino Caro, Gianni Schicchi

https://youtu.be/Q5L3W_uzygU

cf. https://espanol.radio.cz/fallece-la-diva-patricia-burda-janeckova-a-los-25-anos-de-edad-8796249

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(17)

Tod mit 25 Jahren: Opern- und Musicalsängerin Patricia Burda Janečková

https://deutsch.radio.cz/tod-mit-25-jahren-opern-und-musicalsaengerin-patricia-burda-janeckova-8796311

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(18)

Погасла звезда оперной певицы Патриции Бурда Янечковой 08.10.2023

https://ruski.radio.cz/pogasla-zvezda-opernoy-pevicy-patricii-burda-yanechkovoy-8796312

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(19)

Rising opera star Patricia Burda Janečková succumbs to cancer at 25 10/08/2023

https://english.radio.cz/rising-opera-star-patricia-burda-janeckova-succumbs-cancer-25-8796299

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(20)

Czech Philharmonic Choir Brno

https://www.youtube.com/@czechphilharmonicchoirbrno626

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(21)

Českého filharmonického sboru Brno ; Gioacchino Rossini: Petite messe solennelle, 指揮;パオロ・ガッ ト(Paolo Gatto). 

https://youtu.be/CqrzmdevQSI

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(22)

Thierry Beauvert et Peter Knaup, Rossini : Les Péchés de gourmandise, Plume, Paris, 1997, 214 pp.

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(23)

Mario Nicolao ; La Maschera di Rossini, RCS Rizzoli Libri S.p.A., Milano, 1990.(マリオ ・ ニコラーオ、 小畑恒夫訳;ロッシーニ 仮面の男、音楽之友社、1992年、p.265)

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(24)

このブルノのチェコ・フィルハーモニー合唱団の演奏会では、Patricia Janečková がソプラノ、Monika Jägerová, がアルト、Aleksander Kruczek がテノール、David Szendiuch がバスを担当している。指揮は Paolo Gatto(パオロ・ガット;最終項の7項で改めて紹介する)。合唱は勿論、ブルノのチェコ・フィル ハーモニー合唱団である。 

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(25)

Patricia Janečková, G. Rossini, Petite Messe Solenelle, Crucifixus.

https://cs.wikipedia.org/wiki/Patricia_Jane%C4%8Dkov%C3%A1

https://cs.wikipedia.org/wiki/Soubor:Patricia_Jane%C4%8Dkov%C3%A1_-_G._Rossini_-_Petite_Messe_ Solenelle_-_Crucifixus.webm

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(26)

https://sk.wikipedia.org/wiki/Patricia_Jane%C4%8Dkov%C3%A1

https://sk.wikipedia.org/wiki/S%C3%BAbor:Patricia_Jane%C4%8Dkov%C3%A1_-_G._Rossini_-_Petite_ Messe_Solenelle_-_Crucifixus.webm

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(27)

https://en.wikipedia.org/wiki/Patricia_Jane%C4%8Dkov%C3%A1

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(28)

聖書 新共同訳;使徒言行録 2-36、日本聖書協会、1989、p.(新)216.

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(29)

スタンダール、山辺雅彦訳;ロッシーニ伝、1992、みすず書房、p.4.( Stendhal ; Vie de Rossini suivie d’un Dilettante, Cercle du Bibliophile, Genève, 1968.) cf. マリオ ・ ニコラーオ、小畑恒夫訳;ロッシーニ 仮面の男、音楽之友社、1992(Mario Nicolao ; La maschera di Rossini, Rizzoli Libri, 1990, Milano, 240pp.)

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(30)

トマス・アクィナスによるラテン語原文では、O salutaris Hostia / Quæ cœli pandis ostium / Bella premunt hostilia / Da robur, fer auxilium( Amen)と歌われ、フランス語では、Ô réconfortante Hostie / qui nous ouvres les portes du ciel / les armées ennemies nous poursuivent / donne-nous la force, porte-nous secours と訳されたりしている。これを、不肖は、「天の門を我らの為に開いて、励まして下 さる聖体に感謝します。追ってくる敵と闘う力をお与え、お救い下さい」と意訳してみた。

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(31)

 cf. Lucia Popp, Brigitte Fassbaender, Nicolai Gedda, Dimitri Kavakos, Choir of King’s College- Cambridge, Stephen Cleobury( direction), EMI, 1992.

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(32)

 尚、1968年4月13日の「ばらの騎士」でヴェルデンベルク侯爵の夫人(Die Feldmarschallin / 元帥夫人) の役を演じたのは、クリスタ・ルトゥヴィッヒ(Christa Ludwig)だった。

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(33)

 “Je n’ai pas de modèle musical particulier, mais j’aime beaucoup la star de l’opéra slovaque Lucia Popp, qui n’est malheureusement plus parmi nous”

https://operaplus.cz/ucitel-a-zak-aneb-eva-drizgova-a-patricia-janeckova-v-jaromericich-nad-rokytnou/

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(34)

“Son expression musicale globale est d’une beauté à bien des égards. Son chant véhicule une sensation de bien-être et de bonheur, il est léger, simple et à la fois sensible et doux. C’est un baume pour l’âme.” ibid.

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(35)

 “Il y en avait un, mais j’en avais marre. C’était l’air de la Reine de la Nuit de La Flûte Enchantée, où la note la plus haute est F3. Et c’est vraiment assez élevé. J’ai même commencé à le chanter. Cela a fonctionné, mais c’est toujours difficile pour moi.” Alena Uhlířová ; Patricia Janečková + Martin Janeček,, : Cizojazyčné texty se učím foneticky jako básničky, 27. 11. 2011.

https://www.topzine.cz/patricia-janeckova-cizojazycne-texty-se-ucim-foneticky-jako-basnicky

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(36)  (“ Son père Martin Janeček) Nous ne devrions pas créer de peurs ni de respect. Tout doit être pris comme un défi.” ibid.

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(37)

Léon Tolstoï ; La Guerre et la Paix, Livre Premier, Chapitre XIX, No 66 de La Bibliothèque de la Pléiade, Gallimard, 1978, pp.369-373.

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(38)

スタンダール、大岡昇平訳;パルムの僧院、新潮文庫、新潮社、1951、p(. 上)246. (“ Mais tout a été pour le mieux. ...) si j’eusse été curé à Brescia, ma destinée était d’être mis en prison sur une colline de la Moravie, au Spielberg.” Stendhal ; La Chartreuse de Parme, No 13 de La Bibl

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(39)

 iothèque de la Pléiade( Stendhal ; Romains II), Gallimard, 1977, p.173.「d de lac de Côme au Spielberg.” ibid. p.176.

cf. 伊藤英一;情報社会と忘却権─忘れることを忘れたネット上の記憶─ in『 法学研究』第84巻第6号、 慶應義塾大学法学研究会編、平成23年6月、pp.161-208.

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(40) https://www.facebook.com/SpilberkFestival/

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(41)

 下掲の録画は、ブルノでの演奏ではないが、2016年1月7日オストラヴァ新春コンサートでの記録を参考 までにメモしておきたい。

cf. Patricia Janečková ; Meine Lippen”( Franz Lehár - Giuditta)

https://youtu.be/pzF3ubtimGE

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(42)

 “Dans l’air de Giuditta tiré de l’opérette du même nom de Franz Lehár, la soliste dont on se souvient a encore mieux démontré son potentiel vocal.”

http://www.musicfriendlycity.cz/feature-articles/reviews/dance-and-romance-at-the-opening-of-the- spilberk-festival

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(43)

 “Brno’s Music Scene Doesn’t Go on Holiday – Špilberk International Music Festival Coming in August”

https://brnodaily.com/2019/07/04/culture/brnos-music-scene-doesnt-go-on-holiday-spilberk- international-music-festival-coming-in-augus/

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(44)

 “2020/04/17 The time we are experiencing is unique and specific in many ways. That requires an original and uncoventional approach for artists who want to keep in touch with their audience. That’s why I pulled out my picnic version of the grand piano and accompanied myself to Rossini’s song La Danza.” Patricia Janečková ; La Danza”( Rossini)

https://youtu.be/Xy4bFpaGnII

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(45)

 Clément Vérité; State-owned Czech Radio Blacklisted in Russia, Newsendip. July 20, 2021.

https://www.newsendip.com/public-czech-radio-prague-international-blacklisted-in-russia-2021/’

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(46)

 “Russia blocks Radio Prague International’s website on its territory、 07/17/2021”

https://english.radio.cz/russia-blocks-radio-prague-internationals-website-its-territory-8723337

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(47)

 “The Russian agency says the article violates Russian laws by speaking about suicide in positive terms.”

https://english.radio.cz/russian-service-radio-prague-international-blocked-russia-over-20-year- old-8723440

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(48)

 Laura Andrieu ; Vingt-cinq ans après le « divorce de velours », Tchèques et Slovaques conservent des relations exemplaires, le 28/10/2018.

https://www.lefigaro.fr/international/2018/10/28/01003-20181028ARTFIG00023-vingt-cinq-ans-apres-le-divorce-de-velours-tcheques-et-slovaques-conservent-des-relations-exemplaires.php

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(49)

 “Погасла звезда оперной певицы Патриции Бурда Янечковой”

https://ruski.radio.cz/pogasla-zvezda-opernoy-pevicy-patricii-burda-yanechkovoy-8796312

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(50)

 “Царствие небесное рабе Божьей Патрисии. Как же тебя жаль, почему тебя не защитили не сберегли? Для меня ты останешься в памяти навечно самым милым ребёнком насвете, с родными глазами и улыбками.. Помилуй Господи и спаси твою душечку.”

https://www.youtube.com/watch?v=u9UR8KZARfg

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(51)

Patricia Janečková ; Co mi dáš( La Maritza). 

https://youtu.be/gaFLpYiS17M

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(52)

 “C’était l’année dernière, le 31 janvier, un lundi. Et c’était magnifique. Le soleil brillait, les routes et les arbres étaient gelés, donc tout brillait au soleil. Le médecin m’a appelé pour me dire que je devais venir le plus tôt possible pour avoir les résultats, car elle ne pouvait pas me les communiquer au téléphone. (...) Je me souviens que lorsque je suis sorti de l’ambulance, il faisait déjà nuageux.” L’épreuve fatale du prodige. Mon monde s’est arrêté, dit Patricia Janečková( Osudová zkouška zázračného dítěte. Můj svět se zastavil, říká Patricia Janečková)

https://www.idnes.cz/zpravy/revue/spolecnost/patricia-janeckova-rakovina-nador-nemoc-zpevacka- talentmania.A230313_140527_lidicky_rodi

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(53) https://www.instagram.com/p/CZwhrrnsxR1/

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(54) https://www.facebook.com/patriciajaneckova

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(55)

Patricia Janečková - For all my fans. 

https://youtu.be/9c55bCbCogI

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(56)

 “Cependant, la vérité est que tous les messages n’étaient pas gentils. Cela fait probablement partie de la nature humaine.”

https://www.ostravan.cz/81552/zemrela-patricia-janeckova-1998-2023-andelsky-talent-ktery-nestacil- plne-rozvinout-sva-kridla/

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(57) https://www.facebook.com/patriciajaneckova/posts/pfbid0368mhA5r5aZGiLiEAaAX9hSLfZYPBpaX AFB6UAoG9xeVKnQzaThkVPqLf8t59Npm2l

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(58) https://www.i-divadlo.cz/divadlo/narodni-divadlo-moravskoslezske/harpagon-je-lakomec https://www.ndm.cz/cz/opereta-muzikal/inscenace/5806-harpagon-je-lakomec/

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(59) https://www.facebook.com/patriciajaneckova/posts/pfbid02XSZDXAPEJDavevoyKNupTzzweiBPrtE NcKQd5zfH74ZrsAyy1ndbqSUAdWtd7vNSl

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(60)

 Patricia Janečková už opět rozdává radost zpěvem. Je náročné nabrat původní sílu a kondici, říká 29.12.2022 ostravan.cz - Milan Bátor

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(61)  https://www.ostravan.cz/77212/patricia-janeckova-uz-opet-rozdava-radost-zpevem-je-narocne-nabrat- puvodni-silu-a-kondici-rika/

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(62)

 “One month ago it was the most beautiful day of my life”, on 24th July. 2023.

https://www.instagram.com/p/CvFJNOgMVT5/

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(63)  “après un traitement réussi contre l’apparition initiale du cancer, au cours de l’été 2023, la maladie est réapparue sous une forme beaucoup plus agressive, affectant cette fois le foie, et même tous les traitements disponibles n’ont plus aidé” ibid.

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(64)

 “La maladie est revenue avec beaucoup plus d’intensité pendant les vacances d’été et a attaqué son foie. Tous les traitements disponibles n’ont pas aidé et Patricia est décédée le soir du 1er octobre à l’âge de vingt-cinq ans.”

https://www.ostravan.cz/81552/zemrela-patricia-janeckova-1998-2023-andelsky-talent-ktery-nestacil- plne-rozvinout-sva-kridla/

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(65)

 Wedding Part One. 

https://youtu.be/c5dKlEqrwnk

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(66)

 “Zemřela Patricia Janečková( 1998-2023): Andělský talent, který nestačil plně rozvinout svá křídlan (C’était un talent angélique qui ne suffisait pas à développer pleinement ses ailes, mais elle a fait de son mieux pour son choix.)”

https://www.ostravan.cz/81552/zemrela-patricia-janeckova-1998-2023-andelsky-talent-ktery-nestacil- plne-rozvinout-sva-kridla/

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(67)

 “Mais elle a développé ses ailes lorsqu’elle était enfant et a accompli plus que beaucoup d’autres dans sa vie. Et maintenant elle au ciel.” op. cit.

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(68)  “Patricia Burda Janečková a quitté ce monde prématurément à l’âge de vingt-cinq ans et a laissé derrière elle une marque brillante et indélébile. On se souviendra toujours de son art comme d’un éclair éblouissant de talent génial et d’un témoignage d’une jeune artiste incroyablement travailleuse, responsable et polyvalente.” ibid.

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(69)

 Patricia Janečková & Eva Dřízgová-Jirušová ; Canzonetta sull’ aria( W. A. Mozart)

https://youtu.be/d4s5VHlAwDw Pěvecký récital 24. 4. 2021 - E. Dřízgová-Jirušová, P. Janečková et A. Farana. Slovo: M. Kociánová. https://youtu.be/-kgXyWa_SDo

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(70) https://www.ostravan.cz/17618/patricia-janeckova-dobyla-rim-a-rika-chci-aby-me-zpev-provazel-celym- zivotem/

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(71)

チェコ語地名では Jaroměřice nad Rokytnou。

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(72)

Pěvecký recitál 24. 4. 2021 - E. Dřízgová-Jirušová, P. Janečková a A. Farana. Slovo: M. Kociánová.

https://youtu.be/-kgXyWa_SDo

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(73)

ちなみに、オッフェンバックの「ホフマン物語」は、ラクメ(Lakmé)」初演の2年程前の1881年2月10 日に、同じ劇場であるパリのオペラ ・ コミック座で初演されている。

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(74)

“J’essaie toujours de choisir un répertoire qui lui permette d’évoluer progressivement et sans force, sans l’obliger à changer ou déformer sa voix. Les compositions oratoires et les œuvres à thèmes spirituels que nous avons sélectionnées, qui conviennent parfaitement à Patricia, répondent exactement à ces critères et, à mon avis, l’aident également dans sa croissance et sa maturation artistique”

https://www.denik.cz/hudba/patricia-janeckova-maly-rimsky-zazrak-20141114-5n8o.html

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(75)

cf. ex. Le chef Tugan Sokhiev démissionne du Bolchoï et de l’Orchestre du Capitole, publié le lundi 7 mars 2022 à 10h32.

https://www.radiofrance.fr/francemusique/le-chef-tugan-sokhiev-demissionne-du-bolchoi-et-de-l- orchestre-du-capitole-5904362

cf. ex. Le chef d’orchestre russe Tugan Sokhiev démissionne de tous ses postes à Moscou et à Toulouse - Le directeur musical du Théâtre du Bolchoï et de l’Orchestre national du Capitole se dit contraint de démissionner, victime de la « culture d’annulation », publié le 7 mars 2022 à 09h14.

https://www.lemonde.fr/culture/article/2022/03/07/le-chef-d-orchestre-russe-tugan-sokhiev-demissionne- de-tous-ses-postes-a-moscou-et-a-toulouse_6116429_3246.html

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 伊藤 英一(いとう えいいち) 元日本大学法学部新聞学科 教授

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2023年

 森弘道さんの投稿

 

 

ミュンヘン・ オペラフェスティバル に行ってきました

 

森 弘道

 このフェスティバルは1875年に開始された歴史あるイベントで、今年は6月23日から7月31日までミュンヘンのバイエルン州立歌劇場などで開催されました。今年のテーマは「戦争と愛」、私は7月26日から30日まで滞在してオペラ二本を観ました。ミュンヘンは涼しくて気温は日中最高の時でも摂氏22度程度、長袖が欲しい気候でした。帰国したら35度を超えるこの暑さ、すっかり参っています。

フェスティバルのため ジェンダーレスカラーの 虹色で彩られた バイエルン州立歌劇場正面

  一本目の「アイーダ」はウクライナを意識した読み替え演出の新作で、第一幕の舞台は保育園か小学校の体育館で、天井が至る所破けている中で子どもたちが遊んでいます。緊迫した場面になると爆撃で天井の破れ目から大量の砂や灰が落ちてきます。そんな中でエチオピアの侵攻が伝えられ物語は始まります。第二幕はこのオペラの見どころ、凱旋パレードですが、何と行進してきたのは凱旋軍ならぬ戦傷兵の列、車椅子や松葉杖の行進です。私としてはこのような読み替えには抵抗があったのですが、休憩後の第三幕は歌が感動的で、第四幕のお墓に生き埋めになった場面は非常に綺麗で、保育園の子どもたちが天使のように上座後方に立ち、実に感動的でした。私はこれまでこのお墓の生き埋めがあるため、アイーダを観るのが億劫だったのですが、今回のこの最後の場面を観てホッとしました。最初の嫌な演出の後でこの印象的な最終場面、まさに演出のうまさを感じました。後味の良い舞台でした。

指揮:ダニエレ・ルスティオーニ(ミラノ出身の新進気鋭、将来の巨匠との呼声が高い)

アイーダ:エレーナ・スティヒナ(ロシア生まれのソプラノ、2017年から世界的に活躍)

ラダメス:ブライアン・ジャッジ(ニューヨーク生まれのテノール)

「アイーダ」のカーテンコール

  二本目の「トリスタンとイゾルデ」ですが、10年くらい前にパリのオペラ座バスティーユで見たことがあります。長くて退屈で、眠たくなるオペラでした。しかし、ドイツではやはりワグナーです。迫力のある歌いっぷりで、メリハリが効いて心打たれました。10年たって私の耳が肥えたのかもしれませんが。それに、終幕後のカーテンコールで観衆の熱狂ぶりには圧倒されました。皆さんスタンディングオベーションで、しかも足を踏み鳴らして大変な騒ぎでした。やはりドイツはワグナーの国です。オペラならワグナーでイタリアオペラなど眼中にないという人も多いそうです。

 ミュンヘンではウクライナ支援の旗が至る所に見られました。地政学的にもNATOの一員としてもウクライナ侵攻は日本では想像できないくらい深刻なようです。もちろん世界的にも影響は大きく、今回の飛行ルート、日本航空なんですが、往路は太平洋をアラスカに向けて北上し、カナダ北部から北極圏を突っ切ってヨーロッパに入りました。かってのアンカレッジルートに近いものです。しかし着陸無しで15時間もの飛行でした。今回はビジネスクラスだったからよかったものの、エコノミーだったら私の歳では耐えられないところでした。復路はヨーロッパから黒海の上をトルコ沿岸に沿って飛び、カスピ海を横断し、中央アジア諸国、中国の上を飛んで北京上空から日本へ向かう南回りのルートでした。偏西風の追い風で往路より短く13時間程度の飛行でした。つまり、往復合わせて、ロシア周囲をぐるりと回るミニ世界一周の旅でした。私にとっては珍しいルートでしたが、ヨーロッパが本当に遠くなりました。これもロシアのウクライナ侵攻のせいです。

2023.8.11 投稿

 


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投稿の連載コーナーへの移行のお知らせ

 

 

坂口行雄さんから投稿のありましたフォトアニメ「喝采」「For You」および「瀬戸の花嫁」につきましては、今後も継続的に同様なテーマでフォトアニメを投稿していただけるとのことで、連載コーナーに新連載として「坂口行雄の歌謡アニメ」をオープンし、そちら転載しました。

上の画像またはこちらをクリックしてご覧ください。
 
 

 


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2022年

 小林 洋さんの投稿

 

 

山口県の酒 「獺祭」と「雁木」 裏話

 

2022年9月(2)の「まちだより」に寄せられたメッセージの一部を転載したものです。

 

小林洋さんから寄せられた「まちだより」へのメッセージ

 獺祭が封を開けられずに冷蔵庫に鎮座しているとのこと。もったいない。日本酒は時間が経つと少しずつ変化していきます。冷蔵庫に入れてあればその変化は遅くなりますが、それでもやはり変化していき、少しずつ熟成香が出てきます。フレッシュなうちに飲まれることをお勧めします。

 獺祭と雁木は同じ岩国市の蔵元で20年ぐらい前まではお互い小さな酒蔵でした。同じ岩国市内の五橋や黒松の蔵元に押さえつけられていて酒造組合でも意見を聞いてもらえない状況だったそうです。
 獺祭の社長と雁木の社長が岩国駅前の居酒屋でいつか見返してやろうと気炎をあげていたと聞いたことがあります。ところが獺祭はそれからあれよあれよと言う間に大成長し、今や純米大吟醸の生産量では全国一の酒蔵になりました。
 雁木も遅れて成長したのですが、生産量は20対1ぐらいの大きな開きがあります。雁木の社長は獺祭の大成長に大きな刺激を受けながらも、獺祭とは違う独自路線で美味しい酒を造ることを目指しているそうです。その雁木の社長は私の弟です。

町田香子さんの返信

初めまして、小林様
「雁木」さんの詳細や日本酒に関するアドバイスをありがとうございました!「獺祭」さんとの関係も興味深いものがありました。これからゆっくりと日本酒をたしなむ機会があれば、その銘柄の産地やそれにまつわる歴史を人と話しながら、味わいたいなあと思います。まずは、冷蔵庫に鎮座ましましている、山口県の香りのする逸品から、たしなんでいきたいとおもいます。ありがとうございました。またよろしくお願いいたします。

(2022.10.1 掲載)

2022年9月(2)の「まちだより」はこちらをご覧ください。

  


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 坂口行雄一さんの投稿

 

 

フォトアニメ ・・・ 花水木 秋の続編

 

坂口行雄

 4月、6月の花水木に続き、アニメの秋の続編を作成しました。
 下の画像をクリックして覧ください(開いたウィンドウはブラウザで閉じて(✕をクリックなど)ください)。

 

  

2022.11.13 坂口行雄

 本編(4月)  続編(6月)

 

 

 坂口行雄一さんの投稿

 

 

フォトアニメ ・・・ 花水木   本編  続編

 

坂口行雄

 家の近くの花水木が綺麗でしたのでアニメを作成しました。
 下の画像をクリックして覧ください(開いたウィンドウはブラウザで閉じて(✕をクリックなど)ください)。

 

  

2022.4.25 坂口行雄

 

 

 4月の花水木のアニメの続編を作成しました。
 下の画像をクリックして覧ください(開いたウィンドウはブラウザで閉じて(✕をクリックなど)ください)。

 

 

2022.6.1 坂口行雄

 


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坂口行雄さんへのメッセージ

◆二胡の音色で一青窈さんのハナミズキを聞きながら懐かしんで・・・・

坂口 行雄様

一青窈さんのハナミズキも懐かしく、以前住んでいました指扇も懐かしく、小山に勤務していた頃春になると咲き誇っていた花水木も懐かしく、アニメにアレンジされた作品が心に滲みました。

4/27 松本

 


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2021年

 樫村慶一さんの最新投稿

 

 

2021年は TAS完成50周年記念の 年でした

樫村慶一

 今からちょうど50年前、1971年(昭和46年)5月24日は、KDDが世界に日本一を誇った?、大手町ビルのワンフロアーを占拠したTASと言う、富士通の230-60システムの巨大なコンピュータシステムが完成した年である。今年はそれから丁度半世紀、この偉大な産物は、その後どうなったのか、完成時にはすでに国際電報の取り扱量は下降線をたどり始め、巨大で新しい機能機器を満載して導入したにもかかわらず、相応の評価を得られず、いつしか、建設の中心になった9人のサムライ(現存3人)の目から離れ、行き方知れずとなった。

 夢の島の冷たい潮風雨にさらされてか、はたまた第二の人生を歩んだか、それとも天に還ったか。50周年を祝う気持ちがありながら、コロナコロナで祝賀行事を行うことなど、夢のまた夢の計画であった。2021年は、世界的行事のオリンピックでさえ、観客のいない一目を忍んでの催行だったのだから、TAS50周年など誰にも気ずかれない、象が蚊に刺されたほどにも感じない出来事だったろう。

 今はただ、過ぎゆく50年目の背中にむけて、あれ程にも仕事に夢中にさせてくれた日々、今では断景になった吸殻山の灰皿山脈、ラインプリンター用紙を染める2進法の冷徹な数字の絨毯、2米近い磁気テープラック、昔の映画館のフイルム入れのような磁気ディスクなどの感触、極めつけは医者しか着ないと思っていた白衣を着たことなどなど、数々の思い出を、もはや届かぬ声で呼びかけたい。

 50周年を祝ってやれず、本当に残念だった。どこにいるのか我らがTAS君、来年からは歴史の中でひっそりと生き続けて欲しい、と、ただただ思うのみである。

(2021,12,20  TAS設計建設作業員を代表して 樫村慶一 記)

 


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 樫村慶一さんの投稿

 

 

昭和16年  12月8日のこと  20年 8月15日のこと

樫村慶一

 80年前の太平洋戦争開始から今年で80年目になるが、やっぱり何事も終わりが大事である。終わりなくして結果なしだからである。どうしても8月15日の敗戦記念日に思いが飛んでしまう。戦争に負けたのになぜかマスコミは敗戦といわす終戦という、負けは負けではないか、変な負け惜しみはしない方がよいと思う。今年は敗戦後76年目だが、始まってからでは80年目になる。新聞などは精神論でしか記録を語らないし、話す人も通一偏の記憶しか喋らない。それはそうだ、話す人は一応戦前人間ではあるが、子供だった人達で、疎開などで都会にはいなかったので、空襲などを具体的には体験していないはずである。やっぱりはっきりした記憶を持っている人は、敗戦時15歳位の私以上の年寄ではないと具体的な話は知らないだろう。私は、この日のことはしっかり覚えている。この日だけとも言える、いや、この日一日ではなく、天皇の玉音放送を聞いて家に帰るまでの、凡そ3時間くらいのことだけである。

 昭和20年(1945年)8月15日の正午、私は15歳で旧制中学の3年で学徒動員で、軍隊の靴を作る工場で、いつものように豚だかなんだか分からない動物の皮を貼り付ける作業をしていた。監督が今日は12時から重大放送があるから皆、ラジオの前に集まるようにと触れてきた。12時になった。15、6歳は子供と大人の中間だ、あどけない幼稚な奴もいるし、薄らと髭らしきものが生えだしてきたやつもいる、でも、国のため、と言う共通の目標に一致団結して行動していた。

 その顔ずらが、古いニスの禿げた箱型のラジオの前にオデコをくっつけ合った。12時、ラジオが、ガーガーガーとなりだした。雑音が強く、声が低く、しかも言葉が難しい、ところどころに”チン”とか、”国民の”とか”国体”とかが聞こえる、全体の意味が分からないまま終わってしまった。監督が、突然大きな声で、戦争は負けたぞ! と怒鳴り出した。えーー?!子供たちは、しばらく意味のわからぬ表情で、キョトンとしていたと思う、私もその中の一人だった。そして、誰かがもう終わりだ、とか言ったように覚えているが、機械の音がいつの間にか静かになっていた。小さな工場が沢山集まっているこの地域も、外に出ると、どこもかしこも、がやがやする、いつものお昼の時間と全く違う雰囲気だった。その後どうしたのか覚えていないが、夕方近くには、千葉駅にいた。
 その頃の千葉駅は、東京(両国)方面からきて内房、外房方面行の列車は前後が逆になるため、最後尾が先頭になり、機関車が付け変わる。さっきまで最後尾だった列車に近い車両の入口に半分ぶら下がった。どっかから集まった人々で、列車はすし詰だ、時刻表通りなのかどうかわからないが、とにかく、SL独特のリズムで動き出した。その時である、突然、頭の上で物凄い大きな飛行機のエンジン音が聞こえてきた。思わず上を見上げると、ゼロ戦だろうか、銀色の戦闘機が1機、我々がぶら下がっている客車の上、数十メートルまで降下してきて上昇、また降下、上昇と繰り返し、そしてビラをまいた。デッキの一人がそれをつかみ、回りに読んでくれた。「われわれ木更津海軍航空隊は絶対に降伏しない・・・・」っていうようなことが書いてあったようだ。そして戦闘機は去った。その後のニュースでは、あちこちの空軍部隊で降伏を潔しとせず、米軍に特攻攻撃をするというようなことが言われてていたが、実際に突っ込んだかどうかは知らない。

 そんなこの日、正午の天皇の放送から僅か3、4時間のことだけが頭に染みついている。そして、その日の夜を含め以後の生活も殆ど覚えていない、靴工場へも行っていない、どこで何をしていたんだろう。夢遊病者のような生活だったのかもしれない。私の8月15であった。

 76年前のこの日に比べ、80年前の12月8日は、小学校6年生で、朝校庭に全校生徒が集められ校長から、戦争開始の訓話があった。しかし、その時間までに家で1度ならず、「大本営陸海軍部発表、帝国陸海軍は本8日未明、西太平洋において米英両国と戦闘状態に入れり」の意気軒昂たる開戦発表は聞いていたので、別に改めて気持ちが引き締まったことはなかった。それでも子供達なりに、周りの友達と、ヤッタナー、スゲーナーなんて飛び上がったりしたものである。

 古い日本を変えた第二のご一新の二つの記念日の感想の違いを一つだけ挙げると、それは、戦争開始の発表報道が「意気軒昂で、とてもよく聞こえた」のに反し、敗戦放送は、「ザーザーと雑音の中で消え入るようなか細い声だったので、よく聞こえなかった」。 放送状態までが、国の気持ちを表していたように思う。

(2021.12.10 記)

 

 

 

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 前尾津也子さんの最新投稿

 

 

絵手紙・詩手紙と朗読のコラボ動画

前尾津也子

おかげ様で、前回の宮沢賢治の「やまなし」は再生回数が1000回を越えました。

この度、絵手紙・詩手紙と朗読のコラボ動画をYouTubeにアップしました。是非ご覧ください。

 

youtube1

これは絵手紙・詩手紙と朗読のコラボ動画です。
【絵手紙】浅田美知子さん、【詩と詩手紙】鈴木信夫さん(現在、著作権は鈴木富美江さん)および日貿出版社の使用許諾を得て公開しております。

 

 続いて、パート2をアップいたしました。こちらもご覧ください。

youtube2

(2021年9月) 

 


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 2021年 浅見徹さんの最新投稿

 

 

上福岡研究所の桜
(昔のビデオ集)

浅見 徹

昔、上福岡の研究所に勤めていた時のビデオが見つかりました。
見事な桜(地上30㎝のところまで枝が伸びていました)を見ることができます。
1998年4月がこの桜を観ることができた最後の年でした。枝を折っている人がいるのはそのためです。この後に建てた伊藤ヨーカ堂も更地になったとのこと、月日の経つのは早いものです。 

 

1997年3月17日撮影
 

 

1998年 3月14日撮影
 

 

1998年 3月23日撮影
 

 

1998年 3月31日撮影
 

 

1998年 4月 3日撮影
 

 

 


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 2021年 前尾津也子さんの投稿

 

 

宮沢賢治の「やまなし」(朗読動画)をYouTubeに公開

前尾津也子

 

 

趣味で十数年続けている朗読ですが、コロナ禍でイベントも開催できず、ボランティアで続けていた絵本の読み聞かせもできないまま1年が過ぎました。リアルで何もできないならと動画制作にチャレンジ。慣れないVideoPadという動画ソフトと格闘しながら、宮沢賢治作「やまなし」の動画を制作してみました。「やまなし」は小学校の教科書にも登場する作品で、カニから見た水の中の世界を描いています。

 魚が頭の上を通り過ぎる場面

 

 二匹のカニが泡を吐く場面


 やまなしが流れていく場面

カニの頭の上を大きな魚が通り過ぎたり、二匹のカニの子供らが泡を吐いたり、ぽかぽかとやまなしが流れて行ったりします。そんな場面を、イラストを動かしながら、朗読と音楽と映像を合わせるのに悪戦苦闘しながら作りました。音楽はすべてオリジナル。イラストや動画は無料のフリー素材を活用しています。

ぜひ、宮沢賢治の「青い幻燈の世界」をお楽しみください。

YouTube

yamanasi


私は現在、仕事の傍ら、品川区が実施する「わ!しながわ地域応援プロジェクト」にボランティアで参加しています。リアルな活動が制限される中、オンラインでより多くの方に動画作品を楽しんでいただければと考えております。情報の拡散にご協力いただけますと幸いです。

新型コロナウイルスはまだまだ収まりそうにありません。ストレスの多い日々ですが、どうか皆様、お元気でお過ごしください。

(2021年5月)

 


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2021年4月 樫村慶一さんの投稿

 

 

お風呂の中で思うこと

樫村 慶一

 私は肺が弱く気管支も弱い。慢性閉塞性肺疾患、すなはちCOPDである。50年間タバコを吸ってきたらだと言われたが、もうやめℒて20年近くなるけど、昔の罪は一生消えないのだろうか。肺房が少なくなっているから肺活量が少ない、そのため飛行機に乗るのが怖く、もう15年以上乗っていない。肺の中の気圧は.0.8気圧で、大気の気圧は普通1気圧(ヘクトパスカル、しょっちゅう変動している)なので、黙っていても空気は気圧の低い肺に入ってくる。だけど、飛行機の中の気圧は.0.8で肺の中と同じだ、だから内も外も同じ気圧なので空気は流れない、それでも普通の肺活量があれば平気なんだろうが、少ない人は、苦しくなることがある。そのとき自分だけ酸素マスクつけるなんて、はずかしくて恰好悪い。恥ずかしいだけならいいけど、大袈裟になって、どっかに緊急着陸なんてことになったらえらい騒ぎになる。だから乗らないのだ。かっては、もう結構というほど乗ったから、今更そんなに乗りたいとも思わない、もともとそんなに好きな乗り物ではないし・・・・・

 さて、そろそろ本題に入るとしよう。書きたいことは、これからである。

 ・・・だから気管支を強くするためのことをしておかないと、もう少し歳をとった時(今でも十分年寄だけど)喉の筋肉が弱っていると、食べ物を飲み込むとき気管支に入ってしまう”誤嚥”という厄介な現象を起こすようになる。つまり、喉を通過した空気は気管支線へ、食べ物は食道線へと線路が分岐するポイントの役割を果たす弁が、きちんと動くように喉の筋肉を日頃から鍛えておくために、いくつかやっているが、その一つに大声を出す練習がある。それは何かというと、風呂にはいって湯気で湿った喉を、思い切り収縮拡張させようと大声で歌を歌うことである。マンションの風呂場は殺されそうな悲鳴を上げても外へは漏れないので思い切り大声で歌える。でも3,4曲歌うと飽きる。歌詞の本を歌うところを開いて大型クリップで止めて、ビニール袋に入れて防水し、手で捧げるようにして歌うのだ。歌う曲はいわずとしれた懐メロである。今は2020年代、テレビで懐メロといわれるのは、1970年代(昭和45年)頃の歌を言っている、それもむべなるかな、大阪万博が昭和45年で、もう50年も経ってしまったんだから十分懐メロの資格はあるだろう。でも私の懐メロは1925、6年頃(大正14,5年)から1957年(昭和32年)の”有楽町で逢いましょう”までなのだ。その約30年間に歌われた歌が、穏やかな昭和の時代の懐かしさを思い起こさせる、えも言われぬ幸福感をもたらす無上の催眠剤である。

 そんな歌詞を歌っていて、昔の東京で子供の私には知らなかったことに思いついた。愛、恋、別れ、涙、旅、月、夜空などは、昔の流行歌、歌謡曲(演歌、艶歌とはいわない)の歌詞には欠かせない言葉だけど、その舞台になる東京の盛り場は、銀座、浅草、新宿の3か所と、たまに神田であって、渋谷、池袋は絶対に出てこないなと思ったこと。おそらくまだ田んぼか畑の田舎だったのだろうと思う。そして、勇ましい軍歌、軍国歌謡の中の男性は、父、夫、兄、弟だけで、恋人や好きな人、愛する人などは男性にはいなかった。夫は元はそうだった人もいただろうに、国力増強の一翼を担う種馬になったことで、男性リストに入れてもらえたのだと思う。

 タバコを長年吸って、COPDになって、喉の筋肉を強くするために、風呂で懐メロを大声で歌う。そして、モボ・モガが闊歩した遥けき昭和を懐かしみ、昔の盛り場は銀座、浅草、新宿だけだったことを知り、軟弱な風潮と言われた恋愛は否定され、彼氏は男と認めてもらえず戦時下では不遇をかこっていたが、戦争に負けて民主主義になって、恋愛が自由を獲得して、彼氏が一人前に認知され、彼女は貞操観念を知らぬ新種の雌人間に生まれ変わった。
こんなことが、風呂の中で数曲の懐メロを歌う間に、頭の中を駆け巡る。喉の筋肉強化だけでなく頭の血管も血流が活発になるという副次効果が得られる。
・・・ああ いい湯だな・・・ ごぼごぼ

(2021.4.1 91歳の誕生日の夜)

 



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2021年1月 樫村慶一さんの投稿

 

 

 

オークションで 衝動買いの楽しみ

 (77年ぶりに懐かしいカメラを手にした喜び)

樫村慶一

 私の父は1943年(昭和18年)、まだ戦争が内地には激しい衝撃をもたらさない前に逝ってしまった。77年前、私が13歳の時である。新宿の伊勢丹の並びにオリンピックと言うレストランがあり、その横の露地を入ったところで小さな写真屋をやっていた。今の紀伊国屋書店がある辺りになる。”現像焼付け引伸ばし”のことをDPEと言い、DP屋と言ったものだ。勿論カメラの修理や販売もする。その親父の夢を、昨年末に死んでから初めて見た。77年ぶりである。

 脳細胞が頭の大掃除でもして一番奥にかくれていた記憶を間違って呼び起こしてしまったのだろうか。親父の夢はどうでもいいのだが、そのことに関連して、昔のカメラのことを思い出した。客が修理依頼に持ってきたものとか、売り物とか、とにかく戦前の蛇腹式レンズシャッターのカメラを弄り回して親父に怒鳴れた。神話のような思いでである。子供ながらにも欲しいと思っていた。

 その頃のカメラがまざまさと蘇ってきた。ライカ、コンタックス、ローライ、エキサクタ、ホクトレンデル、ロボット、バルダックス、コダック・レチナ、国産の六桜社(小西六兵衛創業の小西六、今のコニカ)のパール、ミノルタなどなど、思い出すときりがない、どれも手に取って弄ったりした。特に蛇腹カメラの感触が手に蘇った。そして、今はこれらの懐メロならぬ、懐かしカメラはどうなっているのか気になった。10年位前までは、新宿東口の武蔵野館近辺に2,3軒の中古カメラ屋があり、ウインドウに色々並んでいた。それを思い出して早速ネットで検索すると、カメラ屋自体がほとんどない、最寄りの池袋にあるのを知り出かけた。次々に他の店を教えてくれ結局4軒当たってみたが、ライカ型の鏡胴式はあるが蛇腹カメラはどこにもない。やっぱり、もう化石になってしまったかと思ったとき、最後の店の年配店員が、カメラの名前で直接ネットを検索してごらんなさいとアドバイスしてくれた。そしてヤフオクというサイトに繋がった。これが次の喜びと感激につながった。

上左から: スーパーセミパールⅠ型、 同Ⅱ型、 セミイコンタ、 パーレット、
下左から: セミパール、 ベビーパール、 ベビーイコンタ

 それまで、ヤフオクという名前を知らなかった。ヤフーオークションの略ということを娘から教えられた。試しに”セミパール”と入力してみた。あるはあるは、蛇腹カメラが次からつぎへと出てくるではないか。昔も台数はとにかく、カメラの種類としては蛇腹はそんなに銘柄が多かったわけではない。決定的な欠点は、革製の蛇腹が使いこなすと切れて光が漏れることである。世界のカメラ界の王者だったドイツでも、ライカ、コンタックスを始め鏡胴式が多い。蛇腹式は、なんと言ってもカール・ツァイスのイコンタ・シリーズだ。イコンタ、セミイコンタ、イコンタ・ベビーイコンタの3兄弟、で、イコンタとセミにはそれぞれスーパーと言う距離計とレンズ焦点が連動したのがある。これをそっくり真似したのが六桜社のパールで、同じように3兄弟にスーパーまである。へーと驚きに満たされた私の心は逸った(はやった)。ルールもよくわからないままに、懐古心に心が乗っ取られたように、次々と入札を続け、年末の1週間で、何と7台も落札した。(写真参照)。

 落札してからの気がかりはフイルムがあるかどうかである。イコンタ、パールは画面サイズが横6cm縦9cmで120型(昔のブロニー判)フイルムを使う。セミイコンタ、セミパールは縦が半分の4.5cmであって、同じフイルムを使う。ベビーは名前の通りとても小さくて可愛い。画面サイズは横4cm縦3cmと一回り小さく、フイルムも127型(旧ベスト判)を使用する。120型は5本で約4500円と高いけど市場には十分にあるが、ベスト判はなかなか手に入りにくいしもっと高い。次はいよいよ試写である。

 写真を写す場合の基本は、距離、レンズの明るさを調整する絞り、シャッター速度の3条件が被写体にうまく合わないと良い写真は穫れない。今のディジタルカメラはこれらの仕事をみな自動でやってくれる。だからデジカメしか知らない人は、昔のカメラは使えない。写真とは中が真っ暗な箱の1面に針で孔をあけ、反対側にクモリガラスを置くと、目の前に見えるものが上下反対になってみえる。これが写真の原理だ。つまり、穴が小さければ小さいほど、焦点がぴったり合ってピンボケにならない、だけど、入ってくる光の量が少ないからガラスに映る画像が暗い、それと、近い物にはピントが良く合わない。こういった条件を合わせるために、指先で上記の3条件を被写体に合わせてカメラを調節するわけである。昔はこの作業が当たり前だったけど、今ではこの作業がないので、バカチョンと言われる所以で、この調節作業が写真を撮る楽しみの半分であったけど、今ではそれがなくなってしまったんじゃないかと思う。されど、昔だって1枚1枚、撮るたびに上記3条件を正確に合わせるわけではなかった。そうじゃないと一瞬の物は撮れないから。

 そこで、ある数字に合わせておけば、大体うまく撮れる基準みたいなものがある。それに常時合わせておけば、とっさの場合にも一応見られる写真(ピンボケとか露出の過不足が極端にならない)が撮れるものである。だから、ロバート・キャパが有名な「倒れる兵士」なんて被写体をものにできるのだ。兵士が倒れるのを、ちょっと待って、今距離合わせているから、なんていったって通じない。私の経験では、距離は10メートル位に固定し、昼光だったらレンズ絞りをF6.3(フイルム感光速度をISO200~400の場合)、シャッター速度を125分の1にセットしておけば、兵士が倒れる瞬間が撮れると思う。この勘は昔弄った経験によるもので、一番の問題はフイルム感度とシャッター速度のマッチングがうまくできるかどうかである。80年近い昔の経験が今でも通じるかどうかが、高価なフイルム1本無駄にする覚悟で試写した結果にかかっている。

 試写の結果はまずまずであった。距離、シャッター速度、絞りいずれも、昔の勘でセットしたがほぼ思った通りの出来栄えである。暗い場所でも露出速度が若干足りないものがあったけど、全体で75点くらいはつけられる。まずは目出たし目出たしの結果になった。次は可愛いベビーイコンタちゃんを使ってベスト判(今は127型という)の試写である。手振れが一番注意する点だ。

 もうすぐ91歳、男の健常年齢は70歳といわれる、平均寿命79歳までの9年間は介護されてベッドで寝ている期間だとある週刊誌に書いてあった。もうとっくにその危険水域は抜けたけど、コロナのような悪魔が出没するこの太陽系の惑星上では、いつ何が起きるか全く見通せない。今日1日、明日1日、好きなことやをって過ごすのが利口な生き方だと思う。下手に白寿だとか紀寿だとかを狙うには、今の地球は危険が多すぎる。暮れから年越しになった77年ぶりの天国からの贈り物に、今再びの籠の鳥生活の恰好の慰めになっている。皆さんも今年が良い年になりますように。

おわり

(2021.1.15記)



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2020年 

2020年 前尾津也子さんの投稿

 

 

「世界の声の交差点で」 (旧KDD東京国際電話局) をYoutubeで 期間限定配信

 

前尾津也子

「世界の声の交差点で」という本をご存知でしょうか。「KDDオペレータの素顔とその半世紀」とサブタイトルがついたこの本は、昭和62年に旧KDD東京国際電話局で発行されました。当時の三好安夫電話局長、桑山昌次副局長の後押しもあり、電話局の課長をされていた大谷恭子さんのもとに、何人かの編集メンバーが集まり作成しました。私も編集メンバーの一人として、資料室の古い資料を調べたり、先輩から話を聞いたりして、一生懸命オペレータの歴史をまとめました。


今年は戦後75年という節目の年でもあり、国際電話オペレータから見た第二次世界大戦を歴史の一部としても、広くご紹介したいと思いました。

東京―マニラ間に初の国際電話が始まる。    
昭和25年当時のオペレータ

(「世界の声の交差点で」より)

 

私は趣味で朗読を続けておりますが、今年はコロナの影響で、「朗読アラカルト」というイベントがオンライン開催になりました。より多くの方に聴いていただけるこの機会に、「世界の声の交差点で」を朗読したいと思い、KDDIからも快諾いただきました。

朗読した動画は、12月12日(土)~12月26日(土)までの2週間限定で、Youtubeで公開されます。

舞台で撮影した方も多い中、私はZOOMを使って自宅で撮影したので、画質も音質も悪く情けないのですが、オペレータの体験を通じて、国境を越えた人と人のつながりや戦争について考えるきっかけになればと願っております。また、懐かしい国際電話の時代を思い出し、話題にしていただけると嬉しいです。拙い朗読ですが、ぜひご覧ください。

 

でご覧になる場合は、こちらをクリック>
前尾は29分位から登場します。



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2020年 牛尾哲久さんの投稿

 


幻の
ミャンマー旅行

牛尾哲久

 

 

 

 2020年3月27日、私の78歳の誕生日、私は娘と孫娘を連れてミャンマーのヤンゴン空港に降り立った。空港にはミャンマー人の女性Kさんがにこやかに迎えてくれた。
 翌日、ヤンゴン市内の金ピカの仏塔シェダゴンパゴダ等市内観光を楽しみました。次の日、飛行機でバガンという古都に移動。バガンには3300以上もあるという仏塔が広大な平原に散らばる。2019年に世界遺産に登録されたばかりで欧米からの観光客が急増中とのこと。私たちは夜明けとともに熱気球に乗って空から幻想的でエキゾチックな風景を眺めながら感動に浸った。翌日ヤンゴンに戻り市内観光、ショッピングのあとKさんの家族と会食、懇談。最終日にはヤンゴン郊外のKさんの祖父Nさんが眠る墓を訪れ墓前にNさんの遺影を供え在りし日のNさんを偲んだ。そしてミャンマーを後にした。・・・筈であった。
 Kさんからのお誘いもあり3か月前から周到に計画しフライト、ホテル等すべて準備万端のところに降って沸いたようにコロナ騒ぎが発生しミャンマー旅行は夢と消えました。

 そもそも今回のミャンマー旅行のきっかけは1967年のNさんとの出会いにあります。私が当時の国際電信電話会社(現KDDI)に入社したばかりの頃ビルマ(現ミャンマー)からNさんという技術研修生が訪れました。大手町の現場にいた私にその研修生を茨城の宇宙通信実験所の見学に案内するようにとの出張命令が下されたのがNさんとの縁の始まりです。その宇宙通信実験所は1963年のケネディ大統領暗殺のニュースを史上初の衛星テレビ中継で日本に伝えたことで知られています。
 その後Nさんとはクリスマスカードを交わす程度の交流を続けていましたが、いつしか音信も途絶えNさんのことはすっかり忘れていました。

 2017年夏のことです。見慣れない英文の手紙が届きました。要約すると「私はNの孫娘Kです。東京に住んでいます。今春、東京医科歯科大学博士コースを卒業しました。あなたは祖父Nの良き友人なのでぜひお会いしたい。祖父は1993年に他界」とのこと。彼女の夫も同大を同時に卒業、妹も日本のIT企業に勤めているとのこと。相次ぐ台風を避けてようやく9月に家内と娘と一緒に港区のレストランで落合い会食・懇談しました。
 初対面なのにすぐに打ち解けました。ミャンマーの人たちの人懐っこさ、優しさ、義理堅さ、縁を大切にする心は仏教によるものなのでしょうか。再会を期して別れました。Kさん夫妻は12月に美しいクリスマスカードを送ってくれてほどなくミャンマーへ帰国しました。

 2020年3月の「ミャンマー旅行」はコロナのお陰で幻になりましたがKさんとの再会はどうしても諦めきれませんでした。
 そこで一計を案じました。「オンラインミーテイング」です。今の時代パソコンさえあればZoomというアプリで簡単に「会える」のです。問題は先方のインターネット環境とパソコン習熟度がどうなのかということです。Kさんにメールで問い合わせてみたら意外にも即座に「OK」との返事が来て驚きました。時差を考慮して出会う日時を調整し5月の「ステイホーム」のさなか海を越えてオンラインでKさんのご家族と出会い、親しくお話しをすることができました。
 インターネットは素晴らしい!
 コロナのお陰でオンライン化が急速に進展しています。「ピンチはチャンス」「災い転じて福となす」でいい世の中になればと思うこの頃です。

国際文化会館にて(左側、手前から二人目がKさん)

 

宇宙通信実験所出張時、
パラボラアンテナを背景に

 Nさん

 

 

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2020年 稲垣和則さんの投稿

 

 

日々の報道に対する疑問
ー コロナ感染者数 ー

稲垣 和則 

 

 地球レベルで感染拡大を続けている新型コロナウィルスですが、政府が報じる日本国内の感染状況は、主な諸外国に比べて感染数、死亡数ともに圧倒的に少なく、上手く抑え込んでいるように数字上は見えます。この理由として、日本人は清潔好きで、手洗い、マスクの着用など、マナーをきっちりと守るなど、衛生面の習慣が身についていることにあると考えていました。

 ところが、最近、政府が報じる感染者数、そのものに対し大きな疑問が湧いてきました。同じように思っている方が、皆さんの中にも少なからずおられるのではないでしょうか? 

 日本におけるPCR検査の数は、諸外国に比べて圧倒的な少なさです。日本でPCR検査を受けるには、まずは「相談」、次に「受診」、そして「検査」の手順となるようです。東京では検査までたどり着けるのは相談件数のたったの数%で、大凡97%の方が検査に辿り着けないのが現状と言われています。

 この結果、日本の検査数は、欧米の主な国に対して1/10以下、お隣の韓国(人口、面積ともに日本の半分以下)と比べて数十分の1といった具合です。感染の確認にはPCR検査は不可欠ですから、PCR検査数を抑えると言うのは、例えれば、夜空の星の数を数えるのに、サングラスをかけて数えるようなもので、決して感染の実情を把握することにはなりません。

 こうした疑念を抱き始めた最中、先日、慶應大学病院で行われたPCR検査の報告に目が止まりました。なぜなら、この報告をもとに現在の東京地区での感染状況を推測すると驚くべき結果となるからです。

 まずは、慶應病院の検査報告ですが内容をこちらに引用します。

 

『4月13日から4月19日の期間に行われた術前および入院前PCR検査において、新型コロナウイルス感染症以外の治療を目的とした無症状の患者さんのうち5.97%の陽性者(4人/67人中)が確認されました。これは院外・市中で感染したものと考えられ、地域での感染の状況を反映している可能性があり、感染防止にむけてさらなる策を講じていく必要があると考えております。』

 要するに、地域の67人の無症状の人を対象にPCR検査を実施したところ、そのうちから4人の感染が確認されたと報告しています。 この比率は約6%で衝撃的な値です。しかし、サンプル数が十分ではなく、この6%をそのまま市中感染率と推定するするはできません。たまたま、多くの感染者を拾い上げてしまったということがあり得るからです。

 サンプル数に対して、何人の感染者がピックアップされるかの確率分布は二項分布になります。 そこで、この分布特性を使えば、より信頼高い結論を導くことが可能となります。

まず、サンプル数67に対して、感染者数が4以上になる確率と感染者割合(市中感染率)との関係を求めたのがこのグラフです。

 同グラフから、市中感染率が高くなると、当然ではありますが67のサンプル中に4以上の感染者が含まれる確率は高くなり、感染率5.5%で0.5となることがわかります。しかし、この結果を持って直ちに感染率を5.5%とするには、繰り返しになりますが、サンプル数が十分ではなく信頼ができません。

そこでもう少し安全サイドで評価することにします。例えば感染率1%の場合の縦軸の値は小さすぎて図からは読み取れませんが、約0.005です。 このことは、感染率が1%では、サンプル67の中に、4人以上の感染者が見つかる確率は0.5%で、まずはあり得ないことを意味します。裏返せば、67のサンプル中に4人以上の感染者が現れた場合、市中感染率は99.5%の確かさで1%以上であると結論づけられます。

 控えめの1%でも100人に1人で、現在の東京都の人口は約1,400万人で、この1%は14万人に相当します。この人数は、4月26日現在、PCR検査で東京都で確認された数3,836人の約40倍です。即ち、PCR検査数の極端な絞り込みの結果、東京都全体の感染状況の把握を見失っているのではと危惧されます。 

 それでも日本ではコロナによる死者数が、4月26日現在、358人で他国に比べて圧倒的に少ないと思われるかもしれませんが、陽性でもPCR検査を受けず亡くなっている人が少なからずいるものと推測されます。厚生労働省の統計によれば、肺炎あるいは誤嚥性肺炎で亡くなる方が毎年10万人以上います。1日あたり300人で、この数はコロナでこれまでに亡くなった人数に近いものです。このような日々300人近く亡くなっている肺炎などの患者の方々の中にも、ある程度の割合の人がコロナに感染し、死期を早めた人が含まれているものと思われます。こうした人は、死後PCR検査を受けることもなくコロナ感染者の死亡数にカウントされていないと推測します。

 この無症状の67人中の4人にPCR陽性が慶應病院で確認されたとのニュースは、4月23日にTVのいくつかの報道番組で取り上げられました。連日TVに出ずっぱりで、すっかり顔馴染みになった白鵬大学の岡田晴江氏(同氏には実験データ捏造の疑いも報じられていますが)、この報告を引用し、極めて深刻な感染状態にあるのではと指摘していましたが、具体的な分析には触れませんでした。また、4月26日(日)TBS サンデーモーニングでもジャーナリストの青木理氏も慶應病院の検査結果に触れましたが、結果が示す深刻さがどの程度、視聴者に伝わったかは分かりません。

 この感染率1%、感染人数が発表数の40倍と言うのは極めてショッキングな数字であり、俄かには信じられませんし、信じたくもありません。しかし、ニューヨーク州で実施された最近の抗体検査(感染経験のある無し)の結果では、14%で陽性で、実際は公式発表数の40〜50倍が感染していると報じており、上記の感染率1%、発表数の40倍といった値も現実味を帯びてきます。 

 コロナは、感染者の80%が無症状・軽症(その内 30〜50%が無症状)で、発症直前にもっとも感染力があるようです。私の推測ですが、見えない所で感染がここまで広がっているとすると、「Stay Home!」で新たな感染をそれなりに抑えられたとしても、既に陽性で今のところ無症状な人の中からも時間の経過とともに発症する人が少なからず出てくるものと推測されます。と言うことは、「Stay Home!」はさらなる感染を抑える点では大切ですが、短期的な効果を期待するのは難しく、長期戦を覚悟する必要があるように思います。

 日本は初期対応が遅れたと思います。 限定したPCR検査のデータをもとに、「よく踏ん張っている、持ち堪えている・・」と政府は言い続けていましたが、この間に確実に感染が広まったと思います。中国の習近平氏の来日の話、東京オリンピックも初期対応の遅れに影響したでしょう。諸外国のように、PCR検査を幅広く行い、徹底した感染状況の把握と感染者の隔離をすべだったと思います。日本にはMers, Sars の経験がなかったことが、今回の対応の遅れの原因にもなったようです。

 お隣の韓国では、徹底したPCR検査が功を奏し、最近では新たな感染者数が一桁台の日が続いています。PCR検査に加えて、IT技術を活用した台湾は、新たな感染者がゼロの日が続いており、生活も通常に戻りつつあり、プロ野球も再開される予定とのこと、羨ましい限りです。

 遅まきながら日本もPCR検査を拡大し、感染状況の正確・迅速な把握と陽性者の隔離を実施し、併せて医療体制の整備、強化、拡大を図って欲しいものです。我々も、これまで以上に行動を自粛し、マスクの着用、手洗いなどに努め、感染の防止に務める必要があります。

 政府には、今回のコロナによる被害の拡大、収束の遅れに対し、国民の行動制限や権利制限に限界がある現行法のせいにしたり、国民が「Stay Home!」を十分に厳守しなかったことを理由、言い訳にして欲しくはないものです。

以上

(2020.4.26 投稿)

 

 

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2019年

2019年 島崎陽子さんからの最新投稿

 

 

国立西洋美術館 松方コレクションをめぐる物語
―原田マハ著『美しき愚かものたちのタブロー』―

島崎 陽子


 「日本の若者に本物の西洋画を見せてあげたい」
 「これから大国と渡り合っていくためには、文化・芸術が必要だ」

 「わしには絵はわからん」が口癖の川崎造船所初代社長、松方幸次郎(1866-1950)には大きな野望があった、日本に西洋美術館を設立したいという当時の日本では革新的な強い想いが。西洋画に触れることができるのは印刷されたものだけだった。
 史実に基づくフィクション。
 英国人画家フランク・ブラングィンの船と船乗りの絵に触発されて購入したことをきっかけに、ブラングィンの絵を購入するかわりに彼に美術品蒐集のアドバイスと援助を受け、ロンドン、パリの画廊をめぐりながら「人を見て絵を買う」という松方はモネ、ルノワール、ゴッホ、ロダン等々の作品を精力的に買い付けていく。モネに会いにジヴェルニーにも出かけ、好意的な歓待を受ける。
 社長の肩書きより「美術コレクター」の肩書きが西洋の社会ではものをいい上流階級やビジネス界での潤滑油になっていることを身をもって体得していく。松方コレクションは数千点に上る一大コレクションに成長し、アメリカやロシアの大富豪たちのコレクションに比べても決して遜色ないほどになっていた。
 ところが、しばらくして川崎造船所は経営危機に直面し松方は責任をとって社長を辞任、パリでコレクションの保管を任されていた右腕、日置釭三郎(実在の人物)は、自分はどうなるのかコレクションはどうなるのか、と青天の霹靂のなかで生き延びていくことに精一杯という状況へ様変わりしていった。
 そして、ドイツ軍ナチスの波が押し寄せてくる。
 松方からコレクションを日本へ送ってほしいと命を受ける日置、「我がタブロオの命運は君に預けた。ともに生き延びてくれ給え。ただそれのみを祈る」 
 日置はコレクションの保管のためにパリの西にある小さな村アボンタンに家を買い、フランス人の妻とともにコレクションの保管に精を出す。自宅まで踏み込んできたドイツ軍には二階のコレクションに気付かれることなく気力で押し返す。今の松方コレクションがあるのはこの人物の命をかけた血のにじむ行動と功績をなくして語れない。
 二つの世界大戦で膨大な数の美術品は焼失、散逸、第二次世界大戦戦勝国フランスは母国の絵は敵国には渡さないと一方的に主張しフランスに接収されてしまう。
 1951年のサンフランシスコ条約で吉田茂がフランスに直談判、コレクションの返還が大きく前進するが敗戦国の日本の立場は弱かった。交渉に交渉を重ね1953年吉田内閣はフランスから「寄贈返還」される松方コレクションを受け入れる為に国立西洋美術館の開設準備を始めることとなった。

 上野西洋美術館「常設展」、特別展にのみ眼を奪われすっかり遠のいてしまっていたが、先日久方ぶりに特別展の後に常設展にも足を伸ばした。これまで何気なく観ていた(素通りしていた)松方コレクションに寄せる私の気持ちは熱くなっていた。松方や日置の熱意なくしてはこれらの絵画は日本には存在し得ないのである。
 ルノワール〈アルジェリア風のパリの女たち〉、モネ〈睡蓮、柳の反映〉が燦々と輝く太陽に照らされているように神々しく見えた。

 ゴッホ〈アルルの寝室〉が展示されていないのは残念極まりない。

 

 

 

 

 

(2019.12.2)

 

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