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 島崎陽子の

美術散歩
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索引

  2024年

  2023年

  2022年

  2021年

  2020年

  2024年

号数(掲載月)    タイトル       
第33号(7月)    茶の日本への伝来
第32号(5月)    モネ 連作の情景
第31号(3月)    ルイ15世とデュ・バリー夫人とマリー・アントワネット
第30号(1月)    パリ ポンピドゥーセンター  キュビスム展―美の革命 ピカソ、ブラックからドローネー、シャガールへ

 

  2023年

号数(掲載月)    タイトル       
第29号(11月)    LIGHT 光 テート美術館展 ターナー、印象派から現代へ
第28号(9月)      生誕100年 山下 清 展 百年目の大回想
第27号(7月)      マティス展 Henri Matisse : The Path to Color
第26号(5月)      クララとシューマンとブラームス
第25号(3月)      パリ・オペラ座とドガ
第24号(1月)      英国キュー王立植物園 おいしいボタニカル・アート   食を彩る植物のものがたり

 

  2022年

号数(掲載月)    タイトル       
第23号(11月)    ハロウィンとアイルランドの至宝『ケルズの書』
第22号(9月)      絵は楽しく美しく愛らしいものでなくてはならない ピエール=オーギュスト・ルノワール
第21号(7月)      林檎の木 ゴールズワージー著
第20号(5月)      葛飾応為 北斎の三女
第19号(3月)      ドレスデン国立古典絵画館所蔵 《フェルメールと17世紀オランダ絵画展》
第18号(1月)      《谷崎潤一郎をめぐる人々と着物》 事実も小説も奇なり

 

2021年

号数(掲載月)    タイトル       
第17号(11月)      川瀬巴水 旅と郷愁の風景 旅情詩人と呼ばれた画家
第16号(9月)      風景画のはじまり コローから印象派へ
第15号(8月)      フリック・コレクションと フェルメールと 野口英世と
第14号(6月)      ゴッホは何者で あったのか
第13号(4月)      『ヴェニスに死す』 とギリシア神話 
第12号(3月)   
テート美術館所蔵 《コンスタブル展》
第11号(1月)      女性の優雅生活を描く画家生活を描く画家 グレゴリー・フランク・ハリスとマンスフィールド『園遊会』

 

  2020年

号数(掲載月)    タイトル       
第10号(12月)    夏目漱石と女性像  
第9号(11月)    ウィリアム・ターナー 
第8号(9月)   
ロンドン・ナショナル ・ギャラリー展
第7号(8月)   
ざくろの聖母子と 神秘の磔刑
第6号(7月)    カステッロの受胎告知
第5号(6月)    プリマヴェーラ/春
第4号(5月)    シシィ(皇后エリザベート)
第3号(4月)      真珠の耳飾りの少女 
第2号(3月)   
オランジュリー美術館 コレクション
第1号(2月)      コートールド美術館展

第33回

 

 

茶の 日本への伝来

 

 

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 2024年4月18日〜6月16日に開催されていた、東京都中央区日本橋室町の三井記念美術館《茶の湯の美学―利休・織部・遠州の茶道具―》へ足を運んだ。桃山時代から江戸時代初期、千利休・古田織部・小堀遠州の茶道具や掛け軸が展示されていて、利休の「わび・さびの美」、織部の「破格の美」、遠州の「綺麗さび」に主点を置いた構成であった。3人各人が探求した美意識が表現され、茶の湯の深淵な歴史の奥深さと日本の美を感じてきた。

 三井記念美術館の展示品を鑑賞しながら、茶の日本への伝来についてご案内してみたい。

 最初に陸羽(733-804年)という人物について紹介させていただきたい。陸羽は中国の唐代の文筆家。後世の我々が茶の恩恵を被るようになったのは、760年頃の陸羽「茶経」による茶の栽培と製造の記述のお陰による。陸羽によって初めて茶の伝導が始まった。仏教、道教、儒教の3つの思想が総合へと向かいつつある時、汎神論的象徴主義が広まっていった中、陸羽は茶のもてなしのうちに、万物を支配する調和と秩序を見出そうとした。「茶経」は茶の聖典とよばれ、そこで茶の決まりごとを定式化している。陸羽は中国では茶商人の守り神として崇拝され、常に最上の品質の茶葉を求めていた。そして茶が中国の陶磁器に及ぼした影響は計り知れなかった。

 

 

 

 さて、茶の知識が日本にもたらされたのは、聖徳太子治世の593年頃で、中国の文化、芸術、仏教とともに持ち込まれたものと思われる。日本の僧たちの多くは、中国で仏教の勉学にいそしんでいる間に、茶木栽培のことを知るようになった。茶の種子を携えて日本に帰り、それが日本の栽培茶の由来となる。

 天平時代、聖武天皇が100人の僧に「挽き茶」を振る舞った。奈良時代の僧行基は47の寺を建立、それらの寺の庭に茶を植えることで彼の一生の仕事を飾った。これが記録に残る日本で最初の茶の栽培である。
 794年、桓武天皇は平安京に皇居を建てた。そこで彼は中国の建築を取り入れ、茶園を囲った。茶園の管理のため公的な職が典薬寮局の中に作られ、茶木が医薬のための木だとみなされた。

 805年、最澄が中国から帰国、持ち帰った茶の種子を比叡山のふもと坂本村に植えた。今日の池上の茶園がここである。
 806年、空海が中国から帰国。宮殿と寺院の発達に特徴づけられる中国の進歩に感銘を受け、日本でも茶が中国と同じかそれ以上の地位を占めるようになりたいと願った。彼もまた大量の茶の種子を持ち帰り、茶の製造過程の知識も導入。
 815年、嵯峨天皇が梵釈寺に行幸、そこで僧が茶でもてなした。天皇はいたく喜び、朝廷近辺で茶の栽培を命じ、皇室で用いるために茶葉を年貢として求めた。

 平安京では社交的な飲み物として人気が高まっていた。もっぱら高位にある人々の間で薬として用いられていた。その後の戦国時代の200年間、茶は忘れられていた。
 1191年、栄西が中国から新しい種子を持ち帰り、福岡城近くの背振山の山腹に植えた。日本への茶木の再導入。神聖な療法の源として茶をとらえており、茶に関する日本での最初の書物「喫茶養生記」を記す。少数の僧と貴族から一般の人々にまで広がり始めた。将軍源実朝は大食から重病におちいり、栄西は彼の寺で育てた茶を自分の手でいれた病人に与えた。すると、将軍は一命を取り留めたのである。

 茶の魅力は、藤四郎によってもたらされた茶器によってさらに高められた。宗から釉薬を輸入、上流階級の流行となる。1738年、永谷宗七郎による煎茶製法の発明を機に、日本全国で栽培されるようになった。

(参考図書:W.H.ユーカース著『ロマンス・オブ・ティー』)

 

(2024.7.1)

 

 

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著者へのメッセージ

 こちらこそ、いつもありがとうございます!

とてもうれしいメッセージいただきました。
ありがとうございます。とても励みになります。

茶/紅茶は、これからも学んでいきたい分野であり、日常生活でも様々な紅茶を楽しんでいます。
今後もいろんな展覧会に足を運んで、いろんなことをご紹介していただけたらいいかなと思っております。
引き続きどうぞよろしくお願いいたします。

7/13 島崎 陽子

島崎さんいつも見ていますよ!

こんにちは。

7月号の島崎さんの「茶の日本への伝来」見ました。いいですね。勉強になりました。
私はコーヒーより日本茶の方が好きです。
これからも素晴らしい美術散歩をお願いします。

毎日暑いのでお体ご自愛下さい。

7/9 坂口 行雄 


第32回

 

 

モネ  連作の情景

 

2024年 2月10日  - 5月6日  大阪中之島美術館
2023年10月20日  - 1月28日  東京・上野の森美術館


 (本稿掲載の睡蓮の作品画面をクリック(タップ)すると大きく表示されます。 )

クロード=モネ 1840-1926
印象派を代表するフランスの画家

 昨年、上野の森美術館で観たモネの展覧会が大阪で開催中、連日の賑わいを見せている。モネの作品のみ60点以上の大集合、壮観であった。モネの息吹を感じ、郊外の自然の中からこぼれ落ちる繊細でやわからい光に包まれ、台頭し始めてきた美しい近代市民生活の豊かな未来を垣間見てきた。

 今回は、モネの「睡蓮」に焦点をあて、「睡蓮」に関連するエピソードを紹介していきたい。
 1883年にモネは、亡くなるまで過ごすこととなる、パリから西へ80キロほどに位置するジヴェルニーに移り住んだ。1901年、土地を購入して池の拡張工事を行い、大きくなった池にモネが好んだ日本の浮世絵で使われる太鼓橋の下、睡蓮を植えていった。池の周囲には柳や竹、藤など日本美術から影響をうけた植物も植えていく。
 1880年代、モネ40代になるとモネは連作という手法を確立していき、より自由で自分らしい独自の描き方を編み出していった。同じ題材をモチーフに、早朝から日没までの移ろいゆく時間、天候や時間による光の微妙な変化を抽出し、キャンパスに映し出していった。光の効果を探求し、光を追い求める画家として名声をとどろかせていったのである。
モネは生涯に渡り、連作の手法を含めて200点以上の睡蓮の作品を描いている。

 モネと元首相クレマンソーとの交友はよく知られていて、クレマンソー自身も日本美術のコレクターであった。クレマンソーは、印象派が評価されていなかった初期の頃から印象派を支持し、モネとの友情は生涯にわたって続いた。モネは、1918 年に第一次世界大戦の勝利を祝福するため睡蓮連作の大作を国家に寄贈することをクレマンソーに約束し、クレマンソーは、睡蓮を展示するための個室を用意しようと、オランジュリー美術館を整備することにした。
 晩年のモネは白内障を患い失明の危機に陥って睡蓮の制作を諦めかけたときがあったが、その時にもクレマンソーはモネを励まし続け、1926年12月、クレマンソーは死が迫ったモネのもとに駆け付け、モネはクレマンソーの腕の中で息を引き取ったと言われている。モネの死後の 1927 年、睡蓮を収めたオランジュリー美術館が開館した。

 オランジュリー美術館にモネの睡蓮の連作が展示されたころ、この絵を観るために訪れる来訪者はほとんどいなかったという。一般公開から約2週間後、「昨日、オランジュリー美術館を訪れたが、誰一人としていなかった」とクレマンソーは記している。フォーヴィズム、キュビズムなどの新しい流派が生まれ、モネは時代遅れになってしまっていた。その後1950年代の再評価を通して評価を確立していったが、その評価も時代の波にもまれて変転してきた。
 そして今、世界各国からモネの睡蓮の大作を観るためにオランジュリー美術館を訪れる人は絶えることがない。

 オランジュリー美術館
睡蓮の間

(2024.5.1)

 

 

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著者へのメッセージ

第31

  

 

 

ルイ15世と デュ・バリー夫人と マリー・アントワネット

 

(本稿掲載画像の画面をクリック(タップ)すると大きく表示されます。 )

 

ジャンヌ・デュ・バリーのポスター

 

 先日観た映画『ジャンヌ・デュ・バリー 国王最期の愛人』が面白かった。デュ・バリーとはルイ15世の最後の愛人であった人である。映画に関していえば、佐藤賢一氏がいうルイ15世「ちょっと枯れた昔の色男感が不可欠になってくる」をジョニー・デップが見事に演じていて当時のルイ15世像を十二分に醸していた。マリー・アントワネットに至っては「過去最高のそっくりさんだろう」と佐藤氏は大絶賛している。ルイ15世とは「歴代の王のなかでも随一と讃えられた美貌の貴公子。64年の命尽きるまで、数えきれないくらいの愛人を持ち続け、その女たちに愛され続けたことで『最愛王(ル・ビアン・ネメ)』と呼ばれた男」である。(パンフレット 佐藤氏解説より)

 今回は当時の絵画を鑑賞しながら、ルイ15世の治世の一部を垣間見ていきたい。

ルイ15世

 

デュ・バリー夫人

 ルイ15世といえば、およそ20年にわたって彼に君臨していたポンパドゥール夫人がよく知られている。その夫人が病没してから5年経ち、デュ・バリー夫人が登場してきたのである。私生児でお針子、そして娼婦であったと噂される女性が寵姫の座につくことを聞かされた宮廷人の混乱ぶりは察して余りある。ポンパドゥール夫人を失って後、相変わらず次々と愛人をつくっていたルイ15世もすでに58歳、一方のデュ・バリー夫人は25歳という若さであった。ルイ15世は多くの愛妾をたくわえたことで後世に名を残した。そのためにフランス革命の遠因をつくったという歴史家もいるほどである。実態は国王自身の政治的無能と無気力の方であったといわれているが、そういわれるほどの波乱振りだったようである。
 寵姫というのは愛人とは違い、国王自身によって王妃や王太子等の王族および全宮廷に正式に紹介され、その存在を公けに認められた側室のような女性のことである。そして一旦寵姫に宣せられれば、王妃に準ずる扱いを受け、宮廷で権勢をほしいままにすることができた。
 マリー・アントワネット(以下M・A)がお輿入れをしてきた時は、まだ15歳という若さであった。ルイ15世の隣にはいつもデュ・バリー夫人。M・Aとデュ・バリー夫人との対立は歴史に一ページを残すほどの一大イベントとなっていった。M・Aはデュ・バリー夫人の出自の悪さや過去の経歴を蔑視し、無視することに徹底した。デュ・バリー夫人からM・Aに声をかけることは許されず、取り巻く叔母や女性たちからつぎこまれて、宮廷内はM・A派とデュ・バリー夫人派に分かれていきバトルが続いていた。M・Aがいつデュ・バリー夫人に話しかけるかの話題で持ちきりであったと伝えられている。

 シュテファン・ツワイク『マリー・アントワネット』関楠生訳で読んだ次の場面、歴史的重要場面であったことをこの映画は物語っていた。

M・Aの肖像

M・A 少女の頃の肖像

 

 「M・Aが宮廷にきたときには、デュバリ夫人なる人の存在もその特別な地位のことも知らなかった。風紀の厳正なマリア・テレジアの宮廷では、側妾という概念はまったく知られていなかったのである。彼女は最初の晩餐会のとき、他の貴婦人たちのなかに一人、豪華な装飾品を身につけ、晴れやかなよそおいをこらした、豊満な胸の婦人が好奇の目をこちらへ向けているのを見、その婦人が「伯爵夫人」と呼ばれるのを聞いただけだった。これがデュバリ夫人である。・・・ M・Aは数週間後にはもう、『ばかで横柄な女』と、母親にあてた手紙に書いている。彼女は、親切な叔母たちが彼女のしまりのない唇につぎこんだ意地悪い陰険な意見を、何の考えもなく大声でそっくりそのまま繰返した。それで、退屈のためいつでもこういうセンセーションを待望している宮廷にとって急にすばらしいなぐさみの種ができたわけである。というのは、M・Aが、ここの王宮で孔雀のようにいばりくさっているあつかましい闖入者を徹底的に黙殺してやろうと思いこんだから、いや、むしろ、叔母たちにそう吹き込まれたからである。

 1772年元旦に、この勇ましくもこっけいな女の戦争はついに終結した。デュバリ夫人が凱歌をあげ、M・Aは屈服したのである。・・・前代未聞の、運命を左右する力を持った言葉を口にした。彼女はデュバリに向かってこう言ったのである。

 『今日はヴェルサイユはたいへんな人ですね』
  Es sind heute viele Leute in Versailles.

 この七語、正確に数えて七語を、M・Aはやっとの思いで口に出したのであるが、これは宮廷では大事件であって、一州を獲得するより重要でもあれば、とうから必要になっていたすべての改革にもまして人心を聳動するものなのだった――王太子妃がついに、ついに、愛妾に話しかけられた! ・・・この陳腐な七語には、もっと深い意味があった。この七語によって大きな政治的犯罪が確定し、ポーランド分割に対するフランスの暗黙の諒解がかちとられたのである。」

 M・Aは敗れた。
 この後、首飾り事件が起こる。この世にかつて類を見ない、もともとデュバリ夫人のために作られた傑出したすばらしいダイヤモンドの首飾りである。 
 久々にシュテファン・ツワイクの『マリー・アントワネット』を開いてみたら、ルソーの『社会契約論』やフリーメイスンや「セビリヤの理髪師」やらも出てきていて、今夜はこのまま本書を通読していきそうな勢い。私のフランス革命手引き書。とにかく面白い。

(2024.3.2)

 

 

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第30

  

 

 

パリ ポンピドゥーセンター  キュビスム展 ― 美の革命 
ピカソ、ブラックからドローネー、シャガールへ
上野  国立西洋美術館  2023.10.3 - 2024.1.28

 

(本稿掲載の作品の画面をクリック(タップ)すると大きく表示されます。 )

 

キュビズム展ポスター

 キュビスム、これまで私にはどうも馴染むことのできない一派であったが、今回当展覧会で多くの作品に触れることによって立体感の面白さとグラデーションする多彩な色彩の変化に魅力を感じ始めてきた。展覧会に足を運んだ後の12/9、TV「新美の巨人たち」《ピカソの芸術革命 キュビスム》の番組を見て、キュビスムが生まれた背景とキュビスムが現代の日常生活の身近なところにも影響を与えていることを知り、突如、これまで敬遠気味だったキュビスムが身近に感じられてきた。とてもわかりやすい番組だったので、その内容をここで紹介したい。

《ピカソの芸術革命 キュビスム》

 見たままをそのまま描くのではなく、新たな表現方法はないか、その模索がもたらしたのがキュビスムであり、それは世界の絵画を根底から覆した。
 15世紀のイタリアで花開いたルネサンス、ラファエロのアテネの学堂、それはそこに存在しているかのようにリアルに見たままを優美に描く、これが古典的な絵画のスタイルである。ところがパリで反乱が勃発し、美術界は大きく揺らいでいった、写真の登場があったのである。見たままを描いていても写真にかなわない。印象派、ポスト印象派の登場、そしてピカソは絵画の常識をやぶろうともがき始めていた。

りんごとオレンジ

 

ピカソ「ギター奏者」

 ピカソはポール・セザンヌの「りんごとオレンジ」に取りつかれ衝撃を受けた。上のオレンジは横から、下のりんごは上から描かれていて、実際に配置するのは不可能な構図であった。セザンヌはあらゆる方向から見てそれぞれを見た角度で描いていたのである。それまではひとつの視点からだけ描かれていた。いろんな視点からみた絵を描いたセザンヌこそ、これこそ新たな表現方法だ、これだ!とピカソは奮闘した。ピカソ「アヴィニオンの娘たち」における女性たち、半分は正面から半分は横から描かれていて多視点で捉えていることが見て取れる。鼻から口まで測ることができることをしたい、それを描きたいとピカソは思った。
 ピカソのジョルジュ・ブラックとの出会いは運命的であった。ブラックはパリで画家を目指していて画家たちが集まるアパート洗濯船へ通うようになり、そこで「アヴィニオンの娘たち」を見て衝撃を受ける。石油を呑んで火を噴いているようだったとブラックは言う。ピカソが仲間を得た瞬間であった。

 その後ピカソの絵は、元の題材が判別できないほどに変化していく。従来の写真のようではない描き方、その探求として描いた結果であった。徐々にとんでもない境地へと向かっていく。何を描いたかわからないほどになるのである。これがキュビスムの本質、何を描いても同じような抽象画になってしまった。そしてそこから台紙の上に組み立てていく手法が生まれ、新聞紙を切り抜いて貼ったようなコラージュが始まった。これがデザインの基本的な考え方へと発展していき、描く対象の本質的なもの、その表現のためなら何でも使うようになっていったのである。

アヴィニオンの娘たち

 建築家ル・コルビュジエもキュビスムから大きな影響を受けたのをご存知だろうか。違う角度から見る、多視点からものをみる、キュビスムを取り入れて変化を楽しむ建築。それは国立西洋美術館常設展の作品の配置にも取り入れられていて、キュビスムは意外にも身近なところで触れることができるのである。
 アフリカ作品は物の根源的なものを表現している。モディリアーニの彫刻、面長な顔とアーモンド形の目はアフリカの仮面をモチーフとしている。これらの作品は、人間の想像を解き放ち、表現を変えていき、キュビスム化していき、現代の家電製品やインテリアにも大きな影響を与えている。ただ単にそこにあるものを描くのではないという発想が自然とキュビスムの形になっていった。キュビスムとその思考は現在もクリエイティブの中に内包されていて、日常生活の作品のなかでお目にかかることができるのである。

 もともと人間はキュビスムの世界で眺めている。芸術に正解はない。20世紀初頭、ピカソとブラックが生み出したキュビスムは、単なる技法を超え、ひとつの理念となって世界に拡散していった。

(2024.1.2)

 

 

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第29

  

 

 

LIGHT 光  テート美術館展 
Works  from the Tate Collection 
ターナー、 印象派から現代へ

 

東京展  2023/7/12 - 10/2  大阪展 10/26 - 1/14

 

(本稿掲載の作品の画面をクリック(タップ)すると大きく表示されます。 )

ターナー自画像

 9月上旬、東京の本展覧会へ行ってきた。入り口で出迎えてくれたのはターナー数点の作品群。これまでの私のターナー観は決して肯定的ではなかった。不鮮明な輪郭、ぼやーっとつかみどころがなく主題が分からない…。あれこれ調べていたら、我が意を得たりという文章に出あった。奔放な色彩と筆使いで描かれた、対象のはっきりしない絵は批評家たちから痛烈な批判を浴びていたそうである。伝統と過去の規範から逸脱しているターナーの作品を前にして「石鹸の泡と水漆喰」「卵とほうれん草」「ロブスターサラダ」と揶揄する表現が浴びせられたというのである。
 しかしながら、そんな批判のなかでもターナーは光と色彩をめぐる独自の作風を模索していった。あまりに革新的で斬新なスタイルは反感を買った時もあったが、ターナーはパトロンに恵まれ、創作活動を続けていくことができたのである。

ヴェネチア

 そして敬遠されがちとなっていったターナーの作品を絶賛し、ターナーの名声を世界的に広めたのは、ヴィクトリア朝時代の最大の美術評論家となっていたジョン・ラスキンであった。ラスキンにとって「ターナーは自然の全体系を写し取った唯ひとりの人間であり、この世に存在した唯ひとりの完璧な風景画家」であった。「彼の芸術は、自然の表層を正確に描写するだけでなく、見る者の精神をより深い思索へと導くからこそ重要である」と主張したのである。

ノラム城日の出

 ターナーは60才の頃から次第に写実的な描写を超えて、大気や水、光、炎といった自然のエッセンスを抽出し、ときに渦を巻くような自在なフォルムを用いて、その激しい動きや変化をとらえるようになった。人々は驚き、困惑したが、ターナーはこう語ったという。
「私は理解してもらうために描いたわけではない。ただ、このような情景が実際にはどんなものなのか示したかったのだ」

 国立新美術館の本展覧会における私にとっての珠玉の作品は、《光と色彩 ゲーテの色彩論 ―― 大洪水の翌朝 ――「創世記」を書くモーセ》である。
 ターナーはゲーテの『色彩論』から影響を受けた。東京美術『もっと知りたいターナー』を読んでいたら、その解説があったので一部を紹介してみたい。

光と色(ゲーテの理論)大洪水後の朝 モーセが創世記を書く

「洪水のあとに昇った太陽の輝きが画面を満たし、中空に座して『創世記』を書くモーセが新しい世界の始まりを告げている。人の顔のようなものは、ターナーがこの絵に付した詩にある「大地から立ち昇る湿った泡」に対応し、新たに生まれる生命を表していると考えられている。しかし彼は続けて『…希望の前触れは、夏の蠅のごとく儚く、湧き上がり、漂い、はじけて、死ぬ』と書いている。そこには生と死は永遠に循環するという、ターナーの思想が込められていると推測されている」

 そして、今般参考文献として読んでいたこの『もっと知りたいターナー』ではターナー作品を「崇高」という言葉で評していた。
「崇高…巨大なものや激しいもの、あるいは無限や暗黒や沈黙など、何か途方もないものが我々の心の内に呼び覚ます、強烈な畏敬の感覚を積極的に肯定していく美意識である」
「ターナーの絵画に繰り返し描かれた、険峻な山並みや壮麗なゴシック建築、嵐や吹雪、雪崩や洪水といった大自然の脅威などは、まさしく風景を介して崇高美を表したものであった」
「崇高」という表現がターナーの作品を最も端的に表現しているのではないかと思う。

 今回の展覧会を機に、すっかりターナーファンになってしまった自身に驚きもしたが、年齢とともに捉え方や感性も変化していくのかもしれない。崇高なターナーの絵を前にして、ターナーが見た現実の情景から精神の昇華と深い思索へ誘われているのを認めずにはいられない。
 日本人二人のターナー論を最後に記しておきたい。 夏目漱石「かのTurnerの晩年の作を見よ、彼が画きし海は燦爛として絵具箱を覆したる海の如し」 和田英作「コムポジションやデッサン等の事を考へるいとまもない実に驚くべき色彩に富んだ画家」

(2023.11.4)

 

 

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著者へのメッセージ

 

程度の低さに自虐、悲観

 島崎さんは、素敵な評論眼をお持ちなんですね、羨ましい趣味と感心。私も美術館にはいきます。特に絵は好きです、しかしただ見るだけで、どこがいいのか悪いのか分かりません。へー と関心するだけです。今根津の竹久夢二美術館で特別展をやっています、それを見に行きます。品格が全く違います。こちらは、まさに庶民の中の代表格です、更には、大正ロマンの代表であり、一時代(もう3時代前です)昔の象徴です。でも日本の絵もいいですよ、特に私みたいな懐かし物好きな人間にはね。これからも精々、楽しんでご鑑賞ください。 ***

12/15 樫村 慶一

 


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第28

  

 

 

生誕100年  山下 清 展  百年目の大回想

 

東京都新宿  SOMPO美術館 

2023年6月24日-9月10日

 

(本稿掲載の作品の画面をクリック(タップ)すると大きく表示されます。 )

 

長岡の花火

 

 山下清(1922-1971〔大正11-昭和46〕年)は放浪の天才画家として知られており、懐かしい日本の原風景や名所を貼絵で表し、多くの人々の心を捉えました。生誕100年を記念する本展では、代表的な貼絵の作品に加えて、子供時代の鉛筆画や後年の油彩、陶磁器、ペン画などを展示し、山下清の生涯と画業をご紹介します。日本各地を自由気ままに旅する生活を好んだ清は、驚異的な記憶力をもち、スケッチやメモを取らずとも、旅先で見た風景を細部まで正確に思い出すことができました。ときおり旅から戻ると、高い集中力を発揮して、手で細かくちぎった紙片を緻密に貼り合わせることで、超絶技巧的とも言える貼絵を制作しました。そこに見られる丁寧な細部描写と豊かな色調という魅力は、油彩やペン画、水彩画など他の作品にもよく表れています。このような多彩な作品約190点、そして旅に持参したリュックや浴衣、所蔵していた画集などの関連資料を間近に鑑賞することで、49歳で逝去するまで個性的な創作活動を続けた山下清の世界をご堪能いただければ幸いです」(SOMPO美術館HPより)



グラバー邸

ロンドンのタワーブリッジ

 圧倒されました。山下清の集中力と繊細さと凄み。貼絵とペン画と油絵。 貼絵に関しては、細かく手でちぎった細片の紙切れをひとつひとつ貼っていくのです。気の遠くなるような作業を丹念に丁寧に進めていくしか方法がありません。離れては見て近付いては見て色彩加減や全体像を捉えながらの作業だったのでしょうか。

  山下清作品を代表する名作「長岡の花火」についてのエピソードをご紹介しましょう。昭和24年の夏、清は日本一の花火を見るために長岡へ行きます。清は花火が大好きでした。花火を打ち上げる場所に行った清を見た花火師は危険なので、あちらへ行きなさいと追い払います。その翌年、脳裏に刻まれた記憶だけであの有名な「長岡の花火」を完成させました。その作品を雑誌で見た花火師は、あの青年が山下清だったのかと驚嘆し、交流が始まります。その花火師とは、長岡の花火を創り続けた伝説の人、嘉瀬誠次さん。

 嘉瀬さんは戦争を体験しシベリアに抑留されました。重労働を強制される過酷な状況のもと戦友たちがハバロフスクで次々と死んでいきました。無事帰還した嘉瀬さん、亡くなった戦友たちに俺の花火を見せたいと、嘉瀬さんは鎮魂の気持ちを込めて“白菊”という花火を創り上げていきます。「俺、ハバロフスクへ花火上げに行った、戦友に花火を手向けたいと思ってね。白菊を上げに行ったんだ。精魂込めて作った白菊を戦友のために打ち上げることができて本当によかった」。このとき、嘉瀬さんが目にしたのが、何万人もの戦死者の碑。「ロシア人も日本人と同じように大勢の人が亡くなっているんだな」と気付いたのです。「個人的な恨みや憎しみは無くなりました。戦争は何の得にもならないね。戦争っていうのは、本当にばかばかしいもんだ」 嘉瀬さんの作る花火はゆっくりしんなりと開くのが特徴です。ハバロフスクの漆黒の空に大きく咲いた一輪の白菊、その花火に寄せた嘉瀬さんの気持ちが戦友たちに届いたことでしょう、亡くなったロシア人たちにも。

 嘉瀬さんは清の「長岡の花火」を家宝として大切にしていきました。 夜空を彩る円状の花火、信濃川の川面に映る花火、見上げる大勢の観衆。彼らの黄色やピンクの色がアクセントとなって花火と呼応している様子は見事なバランスを作り上げています。 清はつぶやきます「みんなが爆弾なんかつくらないできれいな花火ばかりをつくっていたらきっと戦争なんか起きなかったんだな」 祖父の代から百二十年、代々花火師の家業を継いだ嘉瀬さんと清、二人には同じ思いと願いが通い合っていたのです。現在は嘉瀬さんのご子息が継承し、二人の魂を未来につないでいっています。 

(2023.9.2)

2023年の「白菊」の打ち上げ

 

 

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著者へのメッセージ

樫村 慶一 様 コメントありがとうございます。

樫村 慶一 様

コメントありがとうございました。

式場隆三郎病院の存在を初めて知りました。

仰る通り、下書きもせず、記憶を頼りに作品を仕上げていったわけですから、もう、言葉がありません。精神異常者に認定するのは大間違いですね。いわゆる天才なわけです。

天才はいつの世も、変人です。

立派な膨大な数の作品が残っていますので、山下清さん、あちらで悠々と過ごしていてほしいものです。

日本が世界に誇るべき、素晴らしい作品群です。

島崎 陽子

9/24 島崎 陽子 

飛行機  山下清のこと

 昔、市川から松戸まで歩いたことがある。途中に式場龍三郎病院がある。精神病院であり、山下清が入院というか、定宿のようにしていた所ときいた。しかし、あれだけリッパな絵を、記憶を蘇らせながら書いたり、文章も書いたり、どこが精神異常なんだ、ただ、一寸した変人じゃないかと思っていた。そして今、認知症が色々言われているけど、それと比較すると、やっぱり山下清は、とてもじゃないが精神病患者なんかじゃないと思うのだが。彼が聞いたら、喜ぶかがっかりするか・***

9/22 樫村 慶一

富士さん コメントありがとうございます。

富士さん

ありがとうございます。

私には漠然としたイメージのみの山下清でしたが、一緒に行った連れ合いは映画も観ていて、山下清の生涯をよく知っていました。

素晴らしい作品群でした。気圧されそうでした(笑)。

山下清を発掘した式場隆三郎氏も時折登場されていて、どこかでお会いした(文字上で)方と思ったら、ゴッホを日本に紹介された方だったんですね。

美術館ショップで本を2冊購入し、京王プラザホテル樹林(今はJULIN)へ行って余韻を楽しみました。

山下清の書かれた本も面白いですよ。

寿岳章子氏は山下清の日記に心を動かされその魅力に取りつかれました。


(「日本ぶらりぶらり」解説より)

語彙集も乏しく、幼く、文章は繰り返しが多い。感情表現に至っては極めて乏しく、故に情緒豊かということはまるでない。但し、その乏しさで、そしてきわめて具体的な表現で、驚くべきすぐれた記憶力を駆使して事柄を書きつづってゆく時、世の常の文章とはまるで違う楽しさが生じるのである。附加価値のようなものがまるでないところに偉大な附加価値が生じるのであろう(寿岳章子)。

★拡大表示は楳本さまへ! → すべて拡大表示に変更しました。(楳本)

 

9/05   島崎 陽子

美術散歩(第28回)への感想

今回 生誕100年を迎えられた山下 清を取り上げて頂き、ありがとうございました。
私はずっと以前から山下 清の大ファンのひとりです。
今回の投稿文で、花火師 嘉瀬誠次氏にまつわる逸話を紹介して頂いたのがとても良かったと思います。
まとまりのある気の利いた文章に仕上がっていると思いました。
島崎さんの投稿文の中では四つの作品が紹介されていますが、全ての作品について拡大表示が出来るようになっていたら尚更良かったと思います・・・蛇足かも知れませんが。

9/05  富士 暹

 


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第27

  

 

 

マティス展  Henri Matisse :  The Path to Color 

 

2023年4月27日(木) ~8月20日(日)  上野 東京都美術館 

 

 

 

現在開催中のマティス展

 世界最大規模のマティス・コレクションを所蔵するパリのポンピドゥー・センターからやってきた本マティス展は、日本では約20年ぶりの大規模な回顧展、155点の傑作が勢ぞろいです。絵画のみならず、彫刻、素描、版画、切り紙絵、南仏ヴァンスのロザリオ礼拝堂に関する資料まで、生涯まるごとのマティスをお楽しみいただけます。

 展覧会最後のしめくくり、ヴァンスの礼拝堂についてご紹介いたしましょう。 礼拝堂内の静かな牧師の声やミサの歌声に導かれて足を踏み入れた部屋にはヴァンスの礼拝堂が大スクリーンに映し出されていました。それは小さな礼拝堂でした。所在なげにされることのない居心地のいい、コージーにさせてくれる小規模な造り、とても現代的でライトテイスト、マティスはこの礼拝堂の建築から内装、堂内で司祭がまとう上祭服を含めて、全てを総合的な空間装飾として創り上げました。建築家のル・コンビュジェは、この礼拝堂について「すべてが喜び、清澄、若々しさ」と述べ、「勇気を掻き立てられた」とマティスに賛辞の手紙を送っています。
 マティスは南仏の光を愛してやみませんでした。人生に注がれる光、清々しく、明るく、強く、輝く色、力のみなぎった線描、自身が絵と完全に一体化する瞬間を待っている、その空間に身をゆだねながら、不思議なエネルギーに吸い寄せられていく時間を求めて、一瞬の美のひらめき、一目惚れの瞬間を大切にしていました。天上から降り注ぐ光に包まれるような、そんな現代的なステンドグラスと壁画を描き、南仏の風土に調和する礼拝堂を創り上げていったのです。
 時間の経過による光の動きとともにステンドグラスの色が重なり合い、黄、青、紫、桃色とファンタジーでやわらかい色合いへ変遷していきます。何時間でも身をゆだねて自分をさらけ出したくなる空間、自身を取り戻し浄化された心、さあ、礼拝堂の扉を開けて日常の生活の営みへ戻りましょう。

 「目もくらむような西日の射す中、私はこの場所へとたどりつきました。小さな礼拝堂の扉を開けたとき、真っ白い無垢な光に全身を包まれたことを、いまでもはっきりと覚えています。なんと表現したらいいのでしょう。それはまさしく、天上の光。やわらかく、祝福に満ちた光でした。
 正面の祭壇の背景に広がる、先生(マティス)が愛してやまなかったニースの海と空の青。その中に萌え出ずる植物たち。その脇に堂々と立つ聖ドミニコ。輪郭だけの卵型の顔は、諭し、慰め、受け入れている。聖母子も、キリストの受難の場面も、すべてが明るく、すなおで、一途なのです。まるで、先生そのもののように。
 堂内のステンドグラスには、おおらかに空を舞う鳥の翼のごとき健やかな植物の青、緑、黄色。それが、『生命の木』と名づけられたのを知ったのは、もっとあとになったからのことですけれど」(原田マハ著『ジヴェルニーの食卓』より)

 

 リディア・デレクトルスカヤというロシア人女性について付記しておきましょう。
 マティスとは「画家とモデル」という関係とはほど遠いにあった女性、自分の人生をマティスに捧げた女性です。1910年生まれ、貴族のインテリ一家に生まれたがまもなく孤児に、20才で結婚してパリへ。パリではソルボンヌ大学に入学した才女、良家に生まれた教育のある女性でした。その後離婚、1932年所持金も持たずにニースへ。マティスとの運命的な出逢い。
 マティスにとっても、リディアとの出逢いは多くのことを決定づける要因となりました。「ダンス」の新しい大作に挑んでいたときに助手を求め、応募してきたのがリディアでした。恋愛感情へ発展、家庭の二重生活は続き、正式な夫婦の危機が深刻化、1939年、アメリ夫人はマティスを捨て離婚届にサイン、夫婦関係は破綻し、夫婦は人生の最期まで別々に暮らすことになったのです。
 マティスの才能、マティスの作品がリディアの人生において人生本来の意味を持つようになってきました。リディアは22年にわたってマティスを全面的に支えたのです。秘書のように事務作業を行い、家事をこなし、マティスが体が不自由になって動けなくなり始めてからは(マティスは喘息、関節炎、年老いてからは癌を患う)インスピレーションを与え、慰さめ、蒐集家や役人らにマティスを宣伝する活動を行っていったのです。戦時中、ヴァンスに避難した際にも、食料品を調達したり身の回りの世話をしていました。
 リディアのイメージは、マティスの多くの作品に残されています。専門家によると、その数は90点以上に上っているとのことです。
 マティス亡き後、リディアは合わせて300点以上の作品をエルミタージュとプーシキン美術館に寄贈しました。今、ロシアにあるマティスのコレクションが世界でも最高のものとされているのは、リディアのおかげなのです。
 本展覧会ではリディアをモデルとした数点の作品にお目にかかることができます。

(2023/7/2)

 

☞ 7月の趣味の広場/美術のページ 今月の1枚のコーナーに マティスが初めて成功した作品として知られる「読書をする女性」をピックアップしました。掲載は終了しましたが、こちらをクリックしてご覧になれますので、ご鑑賞ください。 

 

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第26

  

 

 

クララと シューマンと ブラームス

 

 

 ドイツ・ロマン派を代表する作曲家ロベルト・アレクサンダー・シューマン(1810-1856)と妻クララ、そして14才年上のクララを生涯慕って独身を貫いたヨハネス・ブラームス(1833-1897)について紹介いたします。

(上) 100ドイツマルク紙幣に描かれたクララ・シューマンの肖像

(中) 100ドイツマルク紙幣に描かれたピアノの絵

(下) ライプツィッヒ・ゲバントハウスにデビューした際に使ったピアノの写真

 

クララ・シューマン作曲
3つのロマンスOp.21(1853)
(右のピアノアイコンをクリックすると新しいウィンドウでYouTubeが開きます。)

 クララは欧州通貨ユーロ導入前のドイツではお札の肖像にもなっていたことをご存知でしょうか。100ドイツマルク札に使われていたのです。100マルクはドイツマルクの中でも流通量の多い紙幣、100ドル米紙幣と並んで世界で最も流通していた紙幣のひとつでした。裏面の中央にはクララが1828年10月にライプツィッヒ・ゲバントハウスにデビューした際に使ったピアノの絵が添えられ、右下には音叉が5本描かれています。なおこのピアノにはペタルが4本描かれていて、絵を描いた人の単なるミスだといわれているが修正されることはありませんでした。ピアノのペダルは2本または3本です。

 クララは天才少女とうたわれ9才でデビューしました。12才でヨーロッパ中を演奏旅行、18才の時にはオーストリア皇帝より宮廷音楽家の称号を受けます。シューマンと結婚後はいかにしてピアノの練習時間を確保するかの闘いでした、8回もの出産をしているのです。 シューマンには若い頃から情緒不安定な傾向がみられ自己破壊的な衝動があり、常に死の影に脅かされていました。15才の時姉自殺、自分もいつか発狂するのではという恐怖に怯えつつけていました。また他人に危害を加えることを何よりも恐れていたのです。それを知りながらクララはシューマンと結婚しました。クララはシューマンが常に精神的に危うい均衡の上に立っていることと、そして自分の結婚生活が決して平坦なものにはならないだろうと知りながら彼と一緒になったのです。一生シューマンを支え励まし続きたクララは、やはり並みの女性ではなかったといえるでしょう。結婚前のシューベルト「もし君がそばにいたら、自分と一緒に君を殺してしまったかもしれない」こんな洒落にならない衝動まで告白しています。結婚後二人の演奏旅行の間は、妻ばかりが脚光を浴びることに不満をいだいたシューマンの激しい気分の浮き沈みにクララは振り回され続けていました。

 シューマンの成し遂げた業績のひとつは、ヨハネス・ブラームスを世に知らしめたことでした。ブラームスを「今に時代の最高の表現を理想的に述べる使命を持った人」と若き天才作曲家の出現を高らかに褒め称えたのです。19世紀後半、圧倒的な魅力を放って西洋音楽界を席巻したワーグナーとその一派に、たった一人で対抗していた感すらある最後の砦ブラームスを、熱烈な賛辞と共に世に送り出すことだったというのは、象徴的な出来事として歴史に刻まれています。

ロベルト・シューマン

 ブラームスとシューマン夫妻との出会いについて述べておきましょう。 ブラームスはハンブルクに生まれ、13才から家計を助けるために酒場などでピアノを弾いていました。一度シューマンに自作品を送りますが、シューマンは当時精神的に参っていて封を切られることもなく返送してしまいます。その後ヴァイオリニストのヨアヒムにシューマンを訪ねるよう勧められ、ライン河沿いの徒歩旅行中シューマン家を訪ねことになりました。この時ブラームスは、持参したピアノ・ソナタ第1番を演奏し、その音楽に感銘を受けたシューマンはクララと共に深い感動をブラームスに伝えたのです。シューマンは、自身が創設した、今なお続く音楽雑誌『音楽新報』で、ブラームスを「新しい道」として紹介し、この出会いがブラームスのその後の全人生を決定することとなりました。

ヨハネス・ブラームス

 

ブラームス作曲
ピアノソナタ第1番ハ長調Op.1(1852-53)
(右のピアノアイコンをクリックすると新しいウィンドウでYouTubeが開きます。)

 ブラームス自身はシューベルトとの出会いを次のように語っています。 「シューベルトが私を世に紹介してくれた。私自身の性格は恋の成就を阻むことになる。自分自身が結婚生活に向いていないことは私は自覚している。私は内気で奥手で、女性に対して大胆に振る舞ったり、愛の言葉をささやいたりすることが大の苦手だ。不器用で、結婚生活と作曲を両立させる自信もない。家庭を持つことが、芸術の蘊奥を究める妨げになることはないだろうかという恐れ。Frei aber Einsam 自由だが孤独。愛にはいろんな形があってよいと私は思っているし、結実しないからといって、そんな愛は無駄だと言い切ることなど、誰にもできないはずだ。〈詩人の恋〉がそもそもそういう作品だ。私は決して結実しない私の愛を、創作活動へと昇華させよう。クララに対する私の愛は、私なりの〈詩人の恋〉なのだ」(深水黎一郎著『詩人の恋』より) ブラームスは生涯独身を貫きました。クララ亡き後、クララの娘ユーリエにひそかな愛情をいだいていたものと思われています。

 壮絶な生涯を遂げたシューマン、それを支え続けたクララ、夫妻を傍らで眺め続けたブラームスの関係はドラマティックであり、長編小説の体を成しています。 最後にシューマンへの最大級の賛辞を贈り、終演としましょう。

〈詩人の恋〉「ドイツリートの最大傑作のひとつとみなされている。一音の無駄もない完璧な作り、足すべき音も引くべき音もない」 「シューマンは古今東西の作曲家の中で最も文学的才能のあった人物の一人であり、卓越した批評性と文学性を併せ持っていた」 「シューマンが若い頃から何度も自殺の瀬戸際に立ちながら実行しなかった理由として、自分は芸術作品を創造するために生まれてきたのだという強烈な自負心を持っていたことが挙げられているが、シューマンの人生はこの自負心を支えに、迫り来る精神の衰微と危機の中、恐るべき勤勉さと不断の努力によって高みに至ろうとする精神の軌跡であり、その生き様が我らシューマニアーナを惹きつけてやまないのだ。そうやって不断の芸術創造によって自らを〈救済〉し続けたから、若い頃から死の影に取りつかれながらも46才まで、曲がりなりにも生を全うすることができたのだ」(深水黎一郎著『詩人の恋』より) 

(2023.5.7 ブラームスの190回目の誕生日に) 
 

シューマン作曲 詩人の恋 Op.48

フィッシャー=ディスカウ
ホロヴィッツ (pf)

horowitz

 

 

  

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著者へのメッセージ

爽やかな清々しい出会い

富士さん

2人のハンサムマンと上品な女性クララ、素敵な場面です。 英語も聞き取りやすく分かり易いですね。 全映像を見てみたくなりました。 そしてさらにシューマンとブラームスを聴きたくなってきました。

島崎 陽子

5/12 島崎 陽子 

古~ぃ映画のひとこまをご紹介しましょう

文中でシューマン夫妻とブラームスの出会いのことに触れておられますね。

このことに関連して1947年制作の映画(Song of Love)のひとこまをご紹介します。

こちらをクリックしてください。

うまく開かないようでしたら、楳本さんの助けを借りてください。 PS:投稿文の中で「シューベルト」の名前が2か所出てきますが、もしや「シューマン」のタイプミスでは?

5/12 富士 暹

富士さん おお、私もどうしよう…

富士さん

ぜひぜひ、第1話からお願いいたします。ですが、第何話まであるのかしら…(笑)

いや、何話まであってもいいんですよ、喜んで耳を傾けさせていただきます。

ドビュッシー…フランス音楽へも発展させていきたいですね。

おお、音楽を聴いて本を読んで美術館へ出かけていって、さらに、人生、楽しんでいきたいです。

お薦め本ございましたら、ぜひ、ご紹介ください。

島崎 陽子

5/11   島崎 陽子

クララとブラームス・・・ああどうしよう!

島崎さん・・・ああどうしよう!!!

当時の作曲家はお互いにいろいろな形で影響し合っていましたね。そういう意味で今回のテーマにはたいへん興味深いものを感じます。クララ/ブラームス  vs. リスト、シューベルト、ドビユッシー・・・どんどん発展していって下さい。

クララとブラームスに限って言えば、86歳の私にとって溢れんばかりの思い出があります。お許しを頂ければ第1話(?)から始めますが・・・

5/11   富士 暹

楳本さま ありがとうございます。

楳本さま

エピソード、楽しませていただいています。

しばらくしたら、美術に因んだ音楽家をまた取り上げてみたいです。

島崎 陽子

5/8   島崎 陽子

蛇足ですが・・・

島崎様

メッセージへのご返事、ありがとうございます。

蛇足になって恐縮ですが、折角ですのでついでの付加情報です。

シューマン夫妻とブラームスには関係ないので書きませんでしたが、本日5月7日は、ブラームス以外にチャイコフスキーの誕生日(1840年)でもあります。
それともうひとつ、シューマンの誕生日6月8日を2倍すると、ベートヴェンの誕生日とされている12月16日(1770年)になるのを付加情報として追加しておきます。ベートヴェンの誕生日は定かではありませんが、洗礼日が12月17日と記録が残っていますので、その前日が誕生日とされています。

楳本 

5/7   楳本 龍夫

楳本さま ありがとうございます!

楳本さま

たとえこじ付けであろうと、面白いエピソードに3人の因縁めいた宿命を感じました。

フィッシャー・ディスカウ《詩人の愛》は本当に素晴らしいですね。

雨模様の今朝、この曲から一日が始まりました。

島崎 陽子

5/7   島崎 陽子

シューマン、ブラームス、クララの誕生日の不思議な関係

島崎様

時宜を得た投稿、興味深く拝読しました。そこで、話題作りに面白い話を提供します。

ブラームスの誕生日は5月7日、シューマンの誕生日は6月8日、クララの誕生日は9月13日です。
これらの間には面白い関係がありますが、ご存知でしたか?

ブラームスの誕生日の月日の数値にそれぞれ1を足すと、シューマンの誕生日になります。
つまり、5+1=6、7+1=8 となります。

ブラームスの誕生日の月日の数値とシューマンの誕生日の月日の数値を足して2を引くと、クララの誕生日になります。
すなわち、5+6-2=9、7+8-2=13 となります。

かなり、こじ付けの感じは拭えませんが、面白い関係ですね。

以上、お粗末でした。

楳本

5/6   楳本 龍夫


▲INDEX

 

第25

  

 

 

パリ ・オペラ座 とドガ

 

 

エドガー・ドガ

 

 昨年11月から今年2/5まで開催されていた《パリ・オペラ座−響き合う芸術の殿堂》(東京都 アーティゾン美術館)を鑑賞した。今回はその展覧会からドガに焦点をあてて紹介してみたい。

 エドガー・ドガ(1834-1917)、生涯独身。パリの銀行家の息子として生まれる。恵まれた環境に育ったが父の残した借金と兄が事業に失敗して抱えていた巨額の業務債務返済のため「生きるために描く」ようになっていった。世間知らずの貴公子的性格、気難しくて皮肉屋、扱いにくい画家で衝突が絶えなかったという。晩年はドレフュス事件で有罪を主張したために、ゾラやユダヤ人たちの数少ない友人を失ってしまった。印象派とももめ孤立していき親しかったルノワールも晩年には離れていった。普仏戦争で砲兵隊に志願して入隊、寒さで目をやられたために右目の視力がなくなり『まぶしがり症』といわれる網膜の病気を患ってしまい、外に出ることがままならなかったことも屋内の絵画に集中した理由とされている。

ジャン=バティスト・ エドゥアール・ドゥタイユ

《オペラ座の落成式、1975年1月5日》


 ドガたちが台頭してきた1860年代、ナポレオン三世命によるセーヌ県知事のオスマン男爵の「グラン・ブールバール計画」という都市大改造計画が行われた。凱旋門から放射状に並木が配されたアヴェニューと呼ばれる広い12本のブールヴァール(大通り)を作り、中世以来の複雑な路地を整理し郊外へ開発を広げていった。都市整備により経済を活性化するとともに、迷宮のようなスラムを取り壊し、そこに住む人々を立ち退かせてしまおう、という目的も実はあった。これは産業革命後の経済界の要請にも沿うものであった。パリ改造は近代都市計画・建築活動に大きな影響を与え、近代都市のモデルとして見做され、変革の過渡期であった。その変革は当然芸術へも忍び寄っていたのである。ブルジョワジーが変革の主体となり中流階級の家の居間にも絵が飾られるようになっていった。それまで「美術アカデミー」という古色蒼然とした権威の象徴は力を失いつつあり、その制度の外で自由で新しい表現を模索する個性的な前衛芸術家たちが活躍できる時代になりつつあった。そんな時代の背景のもとにドガは登場してきた。 ドガは外の光の世界へ飛び出していった戸外派とは違い、目の病気からか室内を好み、オペラ座に出入りするようになっていった。オペラ座の定期会員になり、稽古場や楽屋に自由に立ち入りできるようになった。そこで出会った踊り子たちをテーマ、モティーフとした作品を描き始めた。動きの描写が得意でありのままに描いた。踊り子たち、彼女たちは恵まれない家庭環境に育ち家計を支えるために舞台に上がっていたのである。ブルジョワ男性を背後に描いた作品は、裕福な階層の彼らの援助がなければ生きていけない少女たちとの冷酷な関係も物語っている。そして稽古場の椅子でリラックスして談笑する少女たちのドガに見せる緊張のほどけた笑顔と表情は、ドガとの信頼が築かれていたからである。境遇の似た生活を送ってきた者同士、お互いの心に触れものがあったのであろう。

踊り子たち ピンクと緑

 ドガは次の名言を残している。

 Art is not what you see, but what you make others see.

 芸術とは君が何を見るかではなく、君が何を創造できるのか、人々が見ることなのだ。

 最後に原田マハ氏のドガのお話で当絵画展を終えたい。

 「ドガは、街中のカフェや競馬場、ベッドルームや浴室の裸婦などをモチィーフに、19世紀末のパリの空気感をいまに伝える風俗画を多く描いている。その彼の名を不動のものにした題材が、バレエに登場する踊り子たちだ。しかも、舞台の彼女たちが華やかに舞い踊るシーンよりも、バックステージの彼女たちを、ドガは描き続けた。――執拗といってもいいほど、繰り返し、繰り返し。

バレエの授業

 ドガが描いた舞台裏の踊り子たちの様子は、実にさまざまである。教官の指導を受けながら振付の真っ最中、ストレッチをしているところ、つかの間の休息中、舞台でのレッスンなど。そのどれもに共通しているのは、まさに『現在進行形』のシーンを描いているところだ。アトリエで、つんと取り澄ましたポーズのモデルに対峙して、黙々と絵筆を動かす――という、それまでの画家の制作スタイルではない。目の前で繰り広げられている瞬間、瞬間をすばやく切り取り、そのままカンヴァスに閉じ込めた――いってみれば、『瞬間冷凍保存』したような画風が、ドガの最大の特徴なのである。・・・
 ドガが求めていたのは、『瞬間』であった。たったいま、目の前で起こっていること、自分が見ている現実を、いかにみずみずしく、そのままに絵の中に封じ込めるか。かつ、いかにして『瞬間』に『永続性』を与えるか。その点にこそ、ドガの強い関心と執着があったのだ。・・・
 ドガによって、一瞬を永遠にすり替えられた踊り子たちは、その喜びも悲しみも凍結されて、いまなおカンヴァスの中で呼吸し、踊り続けている。」

 

(2023.3.4) 

 

  

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著者へのメッセージ

樫村 慶一様

メッセージありがとうございます。

ドガ、いいですよねえ。踊り子たちの間に入っていって、踊り子たちの信頼を得て、踊り子たちがドガに打ち解けた素の姿をさらけ出しているところが伝わってきますね。ほんと、晩年はどうしたんでしょうね。

4/15 島崎 陽子

 

無題

島崎様
 よく勉強していますね。私も、なんとなくドガの絵って好きです。画家の商売道具の目が悪くなって、老後はどうなったんでしょうかね?

4/08 樫村 慶一

 


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第24

  

 

 

英国 キュー 王立植物園
おいしい ボタニカル ・アート
食を彩る 植物の ものがたり
11/5-2023/1/15  西新宿 SOMPO美術館

 

 「おいしいボタニカル・アート」のキャッチ―なコピー。
 ボタニカル・アートの意味をご存知でしょうか。ボタニカルは植物の、植物学のといった意味ですが、ボタニカル・アートになりますと科学的な研究のために草花を詳細に正確に描いた絵になります。この展覧会はボタニカル・アートによるイギリスの歴史と食文化をたどるものです。

 キュー王立植物園について少々触れておきましょう。ロンドンから南西に位置するキュー(Kew)にある世界で最も有名な植物園です。熱帯植物を集めた庭を作ったことから始まり、今では、世界中で採取された種子植物の標本が700万点、菌類および地衣類の標本125万点を所蔵、新種の発見などにも貢献していて2003年にユネスコ世界遺産に登録されました。日本から送られた桜も植樹されていて立派な日本庭園があるのには驚かされます。四季感が計算しつくされ、枯山水まであるんですよ。そしてキューガーデンの未来へのプロジェクトとしてシードバンクがあります。零下27℃倉庫で種を保存、190ケ国以上からの種42,000種を保護し絶滅に瀕した貴重な植物を未来へつなごうとしているのです。当時のイギリス帝国の権力誇示から始まったキューガーデンではありますが、現在の貢献と未来へ向かっていることに対して拍手喝采です。

 冬晴れのある休日、当展覧会に行ってきました。
 ジャガイモ、玉ねぎ、アスパラガスといった野菜からリンゴ、洋ナシ、プラム等の果物、そしてコーヒー、茶、ハープ、スパイスなど一点一点が詳細に丁寧に描かれていました。葉脈や花のがくなどが緻密に鮮やかに描かれた植物は、200年前から色あせることなく本物の植物がそこに生き生きとしっかりと根を張っているようでした。ローズマリーの木に至っては、私が自宅庭で毎朝水やりをしている植物そのものが額のなかにあり、当時のイギリスと一体化してしまったような時空を浮遊してしまっているような感覚に身を委ねてきました。

 私が最も惹きつけられたもののひとつはチャの木です。紹介映像では、なんと、ロバート・フォーチュンというイギリス人で世界的な大プラント・ハンターが出てきて、私の興奮は頂点に達しました。19世紀半ば、イギリス園芸協会から中国へ派遣され、当時の世界最高品質である中国茶のチャノ木と栽培方法を手に入れるよう国命を受けた人物なのです。フォーチュンはインドで中国茶の栽培を成功させ、茶貿易により世界中の経済のほぼ全ての面に影響を与えました。後世、史上最大の窃盗といわれ、今ならさしずめ産業スパイ活動です。
 このロバート・フォーチュンは1860年、日本を訪れています。「日本人の国民性の著しい特色は、庶民でも生来の花好きであることだ。花を愛する国民性が、人間の文化的レベルの高さを証明する物であるとすれば、日本の庶民は我が国の庶民と比べると、ずっと勝っているとみえる」という言葉を著書『幕末日本探訪記―江戸と北京』に残しています。

 イギリスといえばアフタヌーンティー、当展ではティー・セットやカトラリーなどのテーブル・ウェア、18世紀頃の手書きレシピ、ヴィクトリア朝の主婦のバイブル『ビートン夫人の家政読本』といった資料も展示されています。
 ぜひお出かけになってみてください。優雅でノーブルな19世紀のイギリスがお待ちしております。

 

(2023.1.2) 

 

  

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第23

  

 

 

ハロウィンと アイルランドの至宝 『ケルズの書』

 

 Trick or Treat!
 今年の10/31も大分渋谷の交差点を賑わしたようである。
 ハロウィンの起源をご存知だろうか。学生時代に訪れたアイルランド、それ以来心の片隅に潜んでいたアイルランド、ケルトへの愛。先日読んだ、鶴岡真弓著『ケルト 再生の思想――ハロウィンからの生命循環』によりやっとケルトへ近づけることができたように感じている。その起源は深く、他文化や芸術への影響や波及のすさまじさにも目を見張るものがあった。

 この本のなかで紹介されているもののひとつが、世界で最も美しい本と称されているアイルランドの至宝『ケルズの書』であり、私はその唯一無二の絶体的な美と装飾文字の躍動感に魅了され、皆さんにもぜひご紹介させていただきたい気持ちになった。ダブリン、トリニティ・コレッジの旧図書館内ロング・ルームに展示されている装飾写本である。

 「今日、『ケルズの書』は、美しい聖書、華麗な書物芸術、そしてまた現代の意匠家を驚かせるデザインの宝庫として、世界中から熱いまなざしを受けている。この「アイルランドの至宝」は一国の宝物であることを超え、『ケルズの書』を一目拝みたいという人々が、比喩ではなく、ほんとうに世界中からやってくる」(本書より)

 今からおよそ1200年前、アイルランド北東部のケルト系修道院でこの豪華な「福音書」写本が完成した。子牛の皮枝で作られた、縦33センチ、横24センチの典礼用福音書である。一番重要なページを呈しているのが「キリストの頭文字XPI」である。XPIとはギリシア語でのクリスト(キリスト)の最初の文字をラテン語に直してモノグラムにしたものであり、聖なる文字にして徴である。 「『ケルズの書』の術(アート)は、ひとりケルトの薬籠中にあるものではなく、ユーロ=アジア世界の東の極みである日本列島にも培われた神話やイメージに繋がるだろうということも予感できる。」(本書より)

 

 さて、ハロウィンへ戻ることとし、その起源に触れておくとしたい。
 Trick or Treat!
 子供たちが死者や亡霊に扮して各戸を回り、お菓子をくれなければこれからの一年、お前たちを惑わせて困った状態にしてしまうぞとお菓子をねだるハロウィン。そこには死生観が反映されている。死者が蘇り死者や祖霊たちに家々に戻ってくる。お菓子は死者たちを供養するためのご馳走であり、このご馳走の象徴としてお菓子を焼いた。お菓子はソウル・ケーキ、人類史においてお菓子の起源は供物であった。
 11/1は万聖節といわれる諸聖人の日のイヴに重なっている。そしてこの日はケルトの新年の日でもある。夏の終わり、冬の入り口、冬の季節の入り口が死によって表象されるのである。冬=死=闇から夏=生=光が再生するという深い思惟をケルトの四つの季節祭のサイクルに刻もうとした。 ハロウィンの起源のサウィン、ケルトは四つの季節祭の第一番目の暦日サウィンから始まり、サウィンは10/31の日没から始まる。サウィンをスタートに定めたのは死から立ち上がる生が最も強く豊かな生であるからである。
 Trick or Treatの呼びかけには、死者と生者をつなぐ、深いメッセージが込められているのである。 そしてケルト文化が与えた影響は多方面に渡る。マイケル・ジャクソン「スリラー」のダンスがハロウィンの夜に墓から蘇る死者たちの鬼気迫るダンス(死の舞踏)であったことをこの本で知った。

 トリニティ・コレッジ(ダブリン)

 

(2022.11.3) 

 

  

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著者へのメッセージ

松本房子様 へ

松本房子様

素敵なメッセージありがとうございます。

エンヤ、電話センターにいた頃流行っていました。なつかしいです。

学芸員資格取得! 素晴らしい目標をお聞きいたしました。心からエールをお贈りいたします。

資格取得に向けて学習していく、励んでいく、これからの自分の人生にも一石を投じてくださいました。

現在、私は読書会主宰とフェイスブック読書クラブ管理を行っていて(そしてまたk-unetでこのような場を設けていただいていて)、それはそれで大変充実した日々を過ごしておりまが、何かひとつ、もうひとつ何か「軸」となるものがほしいと感じているところです。

松本さんのメッセージから、来年こそ何か具体的にスタートを切りたいと思い始めたところです。

12/28 島崎 陽子

 

アイルランドの魅力

島崎様

Trick or Treat で始まりアイルランドの至宝『ケルズの書』が続き、締めは、マイケル・ジャクソンのスリラーで終わったあたりはなかなか良かったと思います。印象深く残りました。

また、アイルランドと云えばケルト民謡の影響を受けた歌手のエンヤさんを思い出します。何ともいえない情感がありますよね。

ところで、いつもながら興味深く拝読する中で、私自身、体系的に美術について「学び直し(リスキリング)」をしたいと考えています。目指すところは、学芸員ですが二足の草鞋は無理なので、資格取得に専念したいと思っています。

この美術散歩から受けた影響は大きいと思います。引き続き興味深く拝読したいと考えているところです。

12/10 松本 房子

 


▲INDEX

 

第22

  

 

 

絵は楽しく美しく 愛らしいもので なくてはならない
ピエール =オーギュスト・ ルノワール  
Pierre-Auguste  Renoir (1841 - 1919)

 

 拙宅玄関に掲げられているルノワールの『桟敷席』、毎日眺めていて、そのたびに幸福感に満たされる。

 今回は、人々に夢を与え続けた肖像画の第一人者、ルノワールを紹介してみたい。絵画に興味のない人でも必ず一度は目にしているといっていい人気のある画家である。

 ルノワールは磁器の街リモージュに生まれた。父が仕立て屋をしていたため、流行のファッション等を美しく描くことが得意になっていった。幼少期は天性の美声で音楽の才能にめぐまれグノーの聖歌隊へ入ったこともあった。
 13才の年にパリのセーブル磁器の絵付け職人の下にあずけられたが4年で機械に奪われ、職を失う。21才で国立美術学校に入学、そこでモネやシスレー、バジールといった、のちの印象派の仲間に出会う。

劇場にて(初めてのお出かけ)(1876)

 ルノワールは印象派を代表する大家でありながら唯一の労働者階級出身であった。開けっ広げな会話やきわどいユーモアに満ちたジョークは、終生、彼の特質となるが、幼少期の労働者たちとの交流がそのセンスを育んでいったのであろう。決して順風満帆な人生ではなかったが、いつも温かさにあふれ、品があり、心穏やかになる絵画を多く描いていった。素朴な庶民の日常の絵画にもそれらは見ることができる。

 そして風景画より人々が求めていた肖像画を描くことによって生計がたてられたことは幸運だった。ルノワールは「職人」に徹していて、お客を満足させるように培われたルノワールの職人気質は、芸術家としての成功へと導くこととなった。貧困の現実を誰よりも知っていたルノワールは原動力となっていたハングリー精神に支えられ、顧客満足度を重視しながら筆を取っていった。

 二人の姉妹(テラスにて)(1881)

 フランスの小説家オクターヴ・ミルボーはルノワールの画集の序文で「ルノワールの人生と作品は幸福というものを教えてくれる」と語っており、「幸福の画家」という称号がここから広く浸透したという。
 またルノワールは「人生には不愉快な事柄が多い。だからこれ以上、不愉快なものを作る必要はない」という言葉を残している。自身の貧しかった幼少時代や下積み生活があったからこそ追い求めていた理想美があり、絵画への確固とした信念があったのであろう。

 ここでは『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』の作品を取り上げてみたい。
 19世紀末、パリのモンマルトルの丘の踊り場では地元の庶民が気軽に踊りを楽しんでいた。近くに住んでいたルノワールはキャンパスを持ってそこへ通い、この作品を制作していく。ルノワールの友人たちも多く描かれている。

 ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会(1876)

 「楽しく、美しく、愛らしい」要素が散りばめられている。派手派手しくはない素朴な庶民の幸福感あふれ、花が舞っているようで華やかなひとときを演出している。ぼやけた光の玉で木漏れ日を表現している。ピンクと水色の組み合わせがソフト感を際立てていて数か所に見られる赤がアクセントになっているようだ。そして、黒。印象派では自然の光を描くことにこだわっていたため、黒を使うことを避けていたそうだが、ルノワールは、黒が見る人に及ぼす効果を客観的に理解し「黒は色の女王」と考えていて黒を使っていた。ルノワールの黒は、華やかで鮮やかな色彩をより一層際立たせているのではないだろうか。対比する色が他方を引き立てる、陶器の絵付け職人の経験がここにも生きている。

 ルノワールが描き続けた穏やかで幸福な時間、こんな日々を送っていきたい。

(2022.9.3) 

 

 

ルノワール作品集(YouTube)


 

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第21

  

 

 

林檎の木  The Apple Tree
 ゴールズワージー  (John Galswothy)著
 守屋陽一訳  集英社文庫

 

《林檎の木、歌をうたう少女たち、金色の木の実》

Arthur Hopkins
A young girl carrying violets

 「松の混じった落葉松と椈の細長い林が、はるか彼方まで続いていた。…その場所は、金色のハリエニシダと、五月に近い陽光を浴びてレモンのような香りを漂わせている、羽毛に似た緑の落葉松に取りかこまれ――深い谷間と、遥か彼方まで続く荒野の高台のあたりを、遠くまで見晴らすことができた。…自殺者の墓石の上にはリンボクの小枝と一束のブルーベルがのせてある。」
 「ここでは強い陽光が顔をほてらせ、郭公がサンザシの上で鳴き、ハリエニシダが甘い芳香を放っている――ここでは、小さな羊歯の若葉や、星の形をしたリンボクに取りかこまれ、輝くばかりの白い雲が、丘や幻のような谷間のはるか上を流れ過ぎて行く。」(本文より)

 

 Arthur Hopkins
The Well by the Maytree

 一遍の田園詩。目の前には美しい英国の田園風景が流れるように広がっていく。“自殺者の墓石”が暗示をほのめかしていて、この絵画のような風景のなかで展開されるであろう出来事に期待と不安が入り混じながらページをめくっていった。
 都会の大学生アシャーストと田舎娘メガンとの出会い。出会った瞬間からメガンの眼はいつも彼に注がれていた。アシャーストは奇妙な幸福感を感じながら「これは何かの始まりだった。だが、いったい、これから何が始まるのだろう?」と自身に問いかける。

Arthur Hopkins
A garden in the Cotswolds

 淡紅色の蕾の林檎の木や黄褐色に輝くスコットランドもみの幹や大枝、芽吹いたばかりの若葉が若者たちの情欲を嵐のように急き立てていく。
 激しい歓喜、みなぎる生気、新しい春の感情が芽を出し蕾を開こうとしていた。
 よろこびが飛翔していく。
 泉がほとばしるようなモーツァルトK136ディヴェルティメントが聞こえてきた。
 「二人でロンドンに行こう、君に世間というものを見せてあげる、明日トーキーにいって銀行からお金を出し君に洋服を買ってきてあげる、二人でそっと抜け出しロンドンに行ってすぐ結婚しよう。」

クリムト リンゴの木

 一時の血迷い事とは思えない。歓喜にあふれていたではないか。輝いていたではないか。純真な恋があったではないか。そこには偽りの感情は微塵もなかったと信じたい。
 都会と田舎、階級差、学識と無学という二律背反の言葉では解決しえない男女の素朴で清白な熱情を信じたい。

 

 アシャーストよ、あなたにモーツァルトK540クラヴィーアのためのアダージョロ短調を捧げよう。モーツァルトの魂の言葉が聴こえる曲である。あなたにはメガンの魂が聴こえてくることであろう。


大きくなった木の下で会おう。
わたしは新鮮な苺をもってゆく。
きみは悲しみをもたずにきてくれ。
そのとき、ふりかえって
人生は森のなかの一日のようだったと
言えたら、わたしはうれしい。
(長田弘 『詩ふたつ 花を持って、会いにゆく 人生は森のなかの一日』より)

 

 今回はいつもと違う趣きでお届けいたします。
 私は数年前、この少女画A young girl carrying violetsにひとめぼれしました。この本を読み進めていてよぎってきたのがこの絵画です。すみれの淡い紫と白と淡い緑が音楽のようにかけあっています。
 この本は階級社会がもたらす悲劇の短編小説です。イギリス社会は日本人の想像を超える階級社会、その日常生活に根付いている隔たりは文学の題材になりやすく、多くのイギリス文学作品の要因と構成物になっています。

コールズワージー(1867-1933) ノーベル文学賞受賞者のイギリス人作家
アーサー・ホプキンス(1848-1930) ロンドン生まれの画家

(2022.7.2) 

 

 

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著者へのメッセージ

松本房子様 へ

松本房子様

ありがとうございます。
大好きな絵と一冊の本と、大切にしていきたいものになりました。
ちょっとしたことからの出会いとそこからの想像の世界、自由な思いを楽しんでいます。
慌ただしい日々でありますが、豊潤な一幅の絵に癒されています。
そして充実した日々を送っています。

7/26 島崎 陽子

 

一枚の絵から、音楽、物語へ

島崎 陽子様

松本です。

少女画 A young girl carrying violetsの繊細な柔らかいタッチは心ひかれるものがあります。
それとそっくりではないのですが、タッチがやや似ているものに、「女性の優雅な生活を描く画家グレゴリー・フランク・ハリスの絵」を思い出しました。(第11号)
「園遊会(マンスフィールド)」の小説と音楽(モーツアルト)へと続きますが、こちらは恋愛ものではなく、階級社会を背景に少女が「近所の車夫の死」と出会うことで生と死について考えるというものだったと思います。
いずれにしましても、一枚の絵から物語、音楽あるいは物語から一枚の絵、音楽へと広がりをもたらすという展開は、趣きがあって良いと思います。

7/22 松本 房子

 


▲INDEX

 

第20

  

 

 

葛飾応為  
北斎の三女 (江戸後期 生没年不詳)
   

 

すみだ北斎美術館

 東京都墨田区、両国駅から徒歩10分の「すみだ北斎美術館」をご存知だろうか。葛飾北斎作品の常設館であり定期的に北斎と関連した画家やその作品の展覧会を催している美術館で私も時折訪れている。聳え立つスカイツリーが近くに見え、下町の庶民的な一角に堂々と鎮座していてほっと息のできる場所である。
 そこで知った一人の女性、ごみ屋敷の北斎の横で見事な構えっぷりを披露している女性、無頼で豪胆な性格がこの人形から見て取れるこの女性こそ、実際には北斎の画業を支えていた葛飾応為、北斎の三女である。

 ここで初めて出会ってから、時々TVの北斎番組で見かけるようになり、気になる存在になってきていた。2~3か月前、北斎のいくつかの絵が実は応為の絵だったと知る衝撃的な事実を知る番組をTVで見ることになる。

 

 今回は、応為の代表作を2点紹介しておきたい。
『夜桜美人図』(愛知県メナード美術館) 
 日本の美術史上において「光と影」を初めて絵のメインテーマにした画期的な作品といわれている。

 夜空の下、白い石灯籠の明かりで女性が短冊をしたためている。着物の裾を足元の雪見灯籠のほのかな明かりが照らしていて、光の使い分けが魅惑的な情緒感をたっぷり醸している。
 「応為はこの絵の中で何を描こうとしていたのか。応為は今までの浮世絵にはなかったものを描こうとしていた。それは『夜』だ。…夜を描いた浮世絵は少なからずある。しかし、それらのほとんど全てが彩度を落としただけのものだ。画面が少し暗くなるか、空を真っ黒にベタ塗りした程度であって、昼間を描いた絵となんら変わりはない。…光源の存在だ。三種類の光源が存在する。一つ目が画面中央。筆を走らせる女性の顔を手元、そして桜を照らす石灯籠、これがメインライトだ。二つ目が画面の右下から女性と石灯籠を照らすサブライトの雪見灯籠。そして三つ目の光源が空に瞬く星々だ」(檀乃歩也著『北斎になりすました女』より)。
 シーボルトらオランダ人との交流があったとされる北斎を通して、西洋画法の影響を受けたともいわれている。

 そしてもう1点、『吉原格子先之図』(東京都渋谷区 太田記念美術館)
 応為がにわかに注目を集めて、世間を魅了するきっかけになったのがこの絵である。脚光をあびるのは平成になってからのこと。
 格子を巧みに活用して交錯する光と影、その格子に隠される顔々。中央の不自然なまでの真っ黒なシルエットののっぺらぼうの花魁が主人公のように強烈な不気味な印象をもたらす。
 『北斎と応為』の著者、カナダ人小説家キャサリン・ゴヴィエはこの作品について次のように語る。

 「男社会に生きる女の哀しみを感じた。格子の向こう側に商品のように陳列されている。自分の意思で自由に外に出ることもできず、金で売り買いされる女たち。彼女たちには顔がない。感情を押し殺して木偶のように生きることがただ一つの救い。この境遇は残酷すぎる。明らかに彼女たちの気持ちがわかる、もしくは共感できる人間が描いた絵だ。男に買われる女たちの人間性の喪失を明暗で表現することで、より深く心根を描こうとしているのだ。格子の向こう側の遊女を見つめる応為。二人を隔てている格子の他に自分と彼女たちに何の違いがあるのか。北斎という光の傘から抜け出すことのできない自分も遊女たちとなんら違わない」
キャサリン・ゴヴィエについて簡単に触れておきたい。
 ワシントンD.Cにあるフリーア美術館で北斎の展覧会に出かけた時に見た二つの絵、北斎自画像と虎図に、ゴヴィエは決定的な違いを感じた。自画像が殴り書きのようなタッチで荒々しく仕上げられているのに対し、虎図は繊細、同じ人物が描いた絵には思えなかった。そしてある疑念が脳裏をよぎった、もしかしたら、北斎は一人ではなく複数名だったのではないか…? ここから北斎研究が始まり、北斎の傍らで、その死の瞬間まで付き添った一人の女画家、応為に行き当たった。

 応為は、北斎晩年の作品制作を補佐していたと伝えられているが、冒頭でも述べた通り、最近になって北斎作品とされていた何点かの絵が、実は応為作であったということが判明し始めてきている。
 それは「指先の描写」「ほつれ髪」に見られると専門家はいう。この点は、いつか、別の機会に取り上げてみたい。北斎と応為の長い旅が始まった。

 今月はこの展覧会を予定しています。
 太田記念美術館 東京都渋谷区 原宿駅徒歩5分『北斎とライバル』

(2022.5.1) 

 

 

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著者へのメッセージ

松本房子様 へ

松本様

ありがとうございます。

私も、いいね押してみました! 粋な計らいと遊び心、楳本様に感謝ですね。楽しくなります。
行きたい美術館、目白押しです。この充実した生活よ! 読書会も楽しんでいます。
松本様もいつか…期待しちゃってます。

3/9 島崎 陽子

 

謎めいた三女 ”葛飾 応為”

島崎 陽子様

松本です。

今回、「いいねボタン」を押しましたら通常は「ありがとうございます。」のメッセージが主流の中「神奈川沖浪裏」が出てきました。その粋な計らいに脱帽です。読み進む前にうなってしまいました。その計らいと相まって、本文も中身の濃いものでした。興味深く拝読いたしました。

次回作も期待いたします。

5/3 松本 房子

 


▲INDEX

第19

  

 

 

ドレスデン 国立古典絵画館所蔵
《フェルメールと 17世紀オランダ絵画展》
   

2022.2.10-4.3 東京上野 東京都美術館
 

ドレスデン国立古典絵画館

 《窓辺で手紙を読む女》(1657-59)、今回のハイライト作品である。
 1979年のX線調査で画中画が塗りつぶされていることが判明、フェルメールが当初描いた姿ではないことが分かった。そして2017年、フェルメール自身が消したと考えられていたそれまでの説が覆り、何者かにより消されたというさらなる新事実が判明、これらの変遷を経て本来の姿に生まれ変わってのお披露目である。所蔵館であるドレスデン国立古典絵画館でのお披露目につぐ日本公開、所蔵館以外では世界初となる。

 フェルメールの絵には「物語」がある。鑑賞者の想像に委ねられているだろうから、各人が思い思いの物語を紡ぎ出し、自身の物語を楽しめばそれでいいであろう。
今般のハイライト作品、新作品となって掲げられていた絵には複雑な気持ちがこみ上げてきた。全く別の絵がそこにあったのである。従来の絵であれば、中央で戸惑いや迷いを忍ばせながら、しっかりと両手で握りしめた手紙に視線を落としている少女に全集中がいき、どんな手紙なのかしら、お誘いかしら、はたまた別れの手紙かしらと、少女に寄り添うような気持ちで、少女の気持ちを汲み取ろうという気持ちで部屋を覗き込んでいた。背後の壁の空間とそこに当たって反射している光が鑑賞者へ少女への集中を誘ってくれていた。
 新生《窓辺で手紙を読む女》の上部には大きなキューピッドがいた。壁の半分は占領しているようである。手には弓を持ち足元には2つの仮面、ひとつは右足で踏みつけている。この仮面は偽りの愛であると知人が語っていた。別の知人は「キューピッドはローマ神話の恋の神。ということは異教の下なら許される情事の表現かも」と放言を許していただきたいと断りながら、想像の世界をたくましく広げてくれた。
 手前の布の重厚な作りのテーブルクロス、従来作ではシンプルな壁が引き立てていたが、画中画により、このバランスが崩れてしまったように感じる。
 少女の横顔はより厳しく感じられた。
 圧迫感も感じた。戸惑った。


修復前


修復後

 

 しかしながら、フェルメールに敬意を表するのが筋であろう。大規模で緻密な修復を経て“本当の姿”が現れたのである。これから自分自身内の時間の流れとともに本来のフェルメール作品《窓辺で手紙を読む女》に恋い慕う気持ちが沸いてくることであろう。

修復の様子

 83㎝×64.5㎝のこの絵は、その存在感が際立っていた。
 専門家たちは次のように語る。
 「構図のなかに愛の神がいることは本作の意味を大きく変え、偽装や偽善を乗り越える誠実な愛の証しとしてとらえることもできるようになった」
 「フェルメールはこの絵のなかで、人間の存在についての根本的な疑問を投げかけている。背景のキューピッドの修復によって、デルフトの画家の実際の意図がわかる。この絵は、表向きの愛の文脈を超え、真実の愛の本質についての根本的な主張をしているのだ」

 フェルメール(1632-1675)の人となりについて少々記しておきたい。
 フェルメールの人物像と生涯には謎が多い。どうやら、文献によると、フェルメールは裕福ではなく定職につかずいくつかの仕事を渡り歩いていたようである。
 フェルメールはデルフトという小都市で生まれ、そこで生涯を閉じた。デルフトは1665年の人口ピーク時であっても人口25000人程度の規模であり、同時期アムステルダムの約22万人と比べればその地方都市の小規模さが分かる。それでも17世紀にはいるころにはビールの醸造業と織物業を主要産業として、オランダの「黄金時代」の一翼を担っていた。フェルメールが生まれたのはこの黄金期から時代の終焉を告げる足音が聞こえてくるような時代だったヨーロッパの「中心」の位置からは転げ落ちていたころである。そうした時代背景のなかで画家の生活は楽ではなかったようだ。当時、画家と絵画は供給過剰であり専業の画家として生計を立てることには、大きな困難が伴ったはずである。
 フェルメールの生きた時代にはこのような社会的な背景があった。父親から引き継いだ画商としての仕事を担いながら15人の子供(うち4人は夭逝)を育て、幾度も知人に借金をした記録が残っている。
 そして有名なフェルメール・ブルーの原料となるラピスラブリなど高価だった絵具を多用している。裕福な義母の保護下にあって、さほど生活に窮することなく作品に力を注げる状況にあったのではないかという推測もされている。
 1675年43才で没したとき、妻は破産を申し出、最後まで自宅に置いていた数点の絵をパン屋に借りた金の代わりに譲渡した。やはり晩年はかなり困窮していたのであろう。
 このような状況下でいかに絵を描いていったのか、あらゆる仕事をこなし、家や子供の面倒を見ながら、その合間に描いていたように思われる。21才で親方画家となってから22年間の画業で40点あまりといいうのはあまりにも寡作である。年間50作以上描く画家がいた時代である。
 フェルメールは2回に渡って聖ルカ組合(画家やアーティストのための組合)の理事に選出されており、それは滅多にない栄誉だったらしい。同業の画家たちからも高い評価を得ていたのであろう。
トレイシー・シュバリエ著『真珠の耳飾りの少女』に描かれていた旦那様のフェルメールは穏やかで紳士然としていた。

(参考図書『フェルメール最後の真実』秦真一・成田睦子 文春文庫)

(2022.3.4) 

 

 

フェルメール  全作品
(「窓辺で手紙を読む女」は 修復前のものを掲載)

  

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著者へのメッセージ

松本様 とても素敵なメッセージをありがとうございます。

松本さん

こんにちわ いつもいつもありがとうございます。大変励みになります。

2週間後に仲間内Zoomでフェルメールについて1時間話さなければならなくなってしまい、本気で勉強中です。

とても奥の深い画家ですので、学べば学ぶほど興味が増大してきます。近辺のオランダ画家にも素晴らしい人たちがいて、好奇心は募る一方です。

ところで、読書会4月は『走れウサギ』です。大江健三郎に多大な影響を与えた名作ではあるのですが、盛り上がりがイマイチなのには少々ガッカリ感があります。村上春樹さんが訳して大々的に知られないと日本での知名度は上がらないのでしょうか。ジョン・アップダイク、ウサギシリーズは面白い!という方と、あれはねえ~と敬遠する方と、はっきりと二分されそうな本のようです。私にはどんな本も新発見ばかりで楽しんでいます。

3/9 島崎 陽子

 

「ストーリー性を展開させる新「窓辺で手紙を読む女」

  サブ:「フェルメールの作品は小説より奇なり」

松本です。新「窓辺で手紙を読む女」興味深く拝読しました。本人ではなく、何者かによって画中画が塗りつぶされていたと、2017年に判明したとのこと。これは、1979年のX線調査ではわからなかったことが調査技術の進歩により、塗りつぶした絵具が年代的にフェルメールの死後に作られたものだったと云うことでしょうか。いずれにしてもストーリー性のあるフェルメールの作品らしいと思いました。
そこで、アーカイブサイトに収められている第3回寄稿の”「真珠の耳飾りの少女」トレイシー・シュバリア著を読んで”を読み返してみました。「青いターバンを巻いた少女」「真珠の耳飾りの少女」などのモデルとされている女中のフリート、フェルメールの妻のカタリーナ、カタリーナの母、それぞれがフェルメールの作品に様々な影響を与え、ストーリー性のある絵画にしているのだなと改めて思いました。前回の谷崎潤一郎を扱った第18回のタイトルと少し違って今回は「フェルメールの作品は小説より奇なり」だと感じました。
また、この度、運営委員を受けて頂いたこと、ありがとうございました。「美術散歩」は間隔が空いたとしても、引き続き拝読したいと愛読者として希望しますのでよろしくお願いいたします。
松本

3/6 松本 房子

 


▲INDEX

第18

  

 

 

《谷崎潤一郎を めぐる人々と着物》
事実も小説も 奇なり

2021.10.2-1.23 東京都 弥生美術館
 

 お正月明けの1/8、文京区の住宅街にある弥生美術館を訪れた。住宅街のなかでひっそりと佇んでいる小規模美術館、訪問者が気構えなくふらりと立ち寄れる門構えである。1984年6月、弁護士・鹿野琢見によって創設された私立美術館、初代館長は竹久不二彦(竹久夢二の次男)が務めていた。
 『細雪』を読んでいる最中であり、今展覧会はぜひとも訪れてみたいと数か月前から準備をしていた。以前、日本語の美しさでは三島由紀夫と谷崎潤一郎(1886-1965)と語る人がいて、それ以来、谷崎にはどこかで必ず出会わなければならないと思っていた。そこで読み始めた『細雪』と今回の展覧会訪問である。
 美術館入り口の案内板冒頭「谷崎は、もう少し長生きしたら、ノーベル文学賞を受賞した」にそうだったのかと驚き、文豪の肩書を持つ谷崎に敬意を表し仰ぎ見たい気分になった。
 ところが、館内を進むにつれて、うわさに聞いていた(笑)谷崎の女性遍歴は波乱万丈に満ち、驚きを通り越して驚愕してしまった。社会の枠におさまりきれず、周りの好奇の目をものともせず感情の赴くまま自由奔放に愛を求めて生きていったのであろう、そしてその結晶が文学の魅力と化し、ノーベル賞に値するまでに昇華させていったのであろう。数々の写真や書簡がうわさ話ではなく事実を雄弁に語っていた。

 最初の妻千代は良妻賢母タイプだったので谷崎は落胆したという。ここから私自身の男性の妻へ求めるステレオタイプ化されていた理想像が崩れ始めた。文学作品の源泉になったであろう女性遍歴をここに簡単にまとめてみようと思ったが、どこから整理したらいいかわからず根を上げる結果となった。「小田原事件」と9年後の「妻譲渡事件」には絶句する。

小田原事件  妻・千代を佐藤春夫に譲るという前言を翻したため、佐藤と絶交する。

妻譲渡事件  小田原事件で絶縁状態になった谷崎と佐藤だが、のちに和解。谷崎は千代と離婚して20才年下の丁未子(とみこ)さんと再婚、佐藤はとうとう千代と結婚することとした。3人の連名で出した声明文「私たち3人は相談してこのような結果になりました。谷崎と佐藤はこれからも仲良くやっていきますので、みなさんよろしく」と新聞トップを飾った。

 谷崎は悪女めいた女性に魅力を感じていたそうである。
 歌舞伎や草双紙に登場する、恋しい男のためなら、ゆすりやたかりも働くという伝法肌の女性、江戸っ子だった谷崎にとっては、馴染み深い存在だったのではないかと、解説本にある。当時、ファム・ファタルの男を破滅に導くタイプの女性像が日本でも人気を集めていて、 文学青年だった谷崎がおおいなる影響を受けたようだ。
 さて、もう一つの主人公、着物。谷崎作品のモデルになった女性に焦点をあて、彼女たちが着用した着物や装飾品が豪華に並んでいた。『細雪』の四姉妹、鶴子、幸子、雪子、妙子、それぞれの性格を捕らえ着物のデザインと色に反映されていて、四姉妹がそこにいる感覚で鑑賞することができた。着物姿の四姉妹が街中を歩くと行き交う人たちが振り向いたそうである。艶やかで粋な姿は当時の最先端のファッションであったのであろう。
 大正ロマンと着物、甘美で抒情的である。『細雪』の後半の展開は如何に。

(20221.1.10)

 

 

  

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著者へのメッセージ

松本房子様 へ

松本様 今年もよろしくお願いいたします。

松本様

今年もよろしくお願いいたします。Zoomオンライン読書会、いかがかしらん。

島崎 陽子

 

【葛飾図書館友の会 読書クラブ】

■第2回Zoomオンライン読書会

2/19(土)15時~17時  無料

谷崎潤一郎 『細雪』 

■第9回 2/11(金・祝) 15時~17時

谷崎潤一郎 『細雪』

場所:東京都 葛飾区立中央図書館(常磐線金町駅徒歩1分)

会議室1 参加費:無料

1/11 島崎 陽子

「事実も小説も奇なり」に全くもって賛同します

島崎様

新春に相応しく着物の写真掲載が良いですね。

また、最後の「細雪の後半の展開は如何に。」の終わり方は講談風で良かったです。

昨年に引き続き楽しみにしています。

松本 

1/11 松本 房子


▲INDEX

第17

  

 

 

川瀬巴水  旅と郷愁の風景
旅情詩人と 呼ばれた画家

2021.10.2-12.26 SOMPO美術館
 

 川瀬巴水(かわせはすい)(1883-1957)、大正から昭和にかけて活躍した版画家。スティーブ・ジョブズを魅了したことでも知られています。ジョブズは子供の頃に巴水に出会い、美的センスや創作活動に影響を及ぼしたと述べています。

 1883年、東京都芝生まれ。10代から画家を目指し、鏑木清方 岡田三郎助に出会い、版画店の渡辺庄三郎に新版画の風景画を委ねられて版画作成に傾注していくようになり、30代後半に版画家としての地位を確立しました。その後はアメリカ展覧会に出品、朝鮮へ旅行、国内での個展を重ねていきながら人気版画家として知られるようになっていきました。

 「朝、夕、夜、水、雲などを取材した静的な世界を私は愛する」(巴水) 赤いお寺に白い雪、和傘の和服女性、月夜の光、川にたゆたう夕日の光、漆黒の壁と雪の白、やさしい日の光を浴びる富士山。 生まれた土地の増上寺の版画を数点描いています。増上寺に降り注ぐ雪、ぼた雪の時もあれば吹雪の時もあり、その表現の違いを見比べて楽しみました。また雨や竹にみられる勢いのある直線の表現も淡い力強さを感じさせ、他作品とは違う画風に触れることもできます。

 青のバリエーションの豊富さを感じたのは巴水が初めてのような気がします。夜の濃紺の深淵さ、灰色かがった侘しさの青、昼から夜になろうとする時間の微妙な色合い。そして雨で濡れた地面にゆれながら移る街灯のほのかな光、白い雪に染まる風景、それぞれに巴水の思いを感じ、情趣を味わい、しばらく余韻が消えません。

 浮世絵版画とは違い、風景を描写したようなメルヘンチックな現実感がありました。農作業をしている地元の人、川辺で遊ぶ子供たちがなんともいえないほのぼの感を漂わせていて、巴水のやさしさを垣間見るようでした。

 200点以上の作品です。1点1点に心奪われます。顔を近付ては見入り、離れては全容を味わいました。たっぷりと時間と余裕をもってお出かけください。巴水と一緒に全国の旅をお楽しみください。

(2021.11.14)

 

  

 川瀬巴水徹底鑑賞  (671作品) ーYouTube (1時間7分)

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著者へのメッセージ

松本房子様 へ

松本様

いつもありがとうございます。

川瀬巴水との出会いはとても大きかったです。
今年はあと2件、絵画展予定しています。コロナ禍が縮小してきて、来年も目白押しですのでとても楽しみなんですよ。

ところで、読書会へご参加されませんか?
次回は谷崎潤一郎『細雪』です。詳細は短信でご確認ください。

いつかお会いできますときを楽しみにしております。

12/09 島崎 陽子

琴線に触れる和の版画家、川瀬巴水の作品

島崎様

浮世絵展に何回か行きましたが、いつも大御所、北斎、写楽などに関心がいっていました。大正・昭和の時期の版画は最後に展示されていましたのでどうしても印象が薄くなっていました。今回、川瀬巴水を取り上げて頂きあの「赤いお寺に白い雪と和傘の和服女性」のものが川瀬巴水だったと認識できました。良かったです。

松本

 

12/04 松本 房子


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第16

  

 

 

風景画のはじまり  コローから印象派へ
ランス美術館 コレクション

2021.6.25-9.12 SOMPO美術館

展示品構成: 19世紀風景画 -バルビゾン派 -版画家の誕生 -ウジェーヌ・ブーダン ー印象派の展開
画家:  コロー   ルノワール   モネ   ピサロ   クールベ   ブーダン   シスレー 

 

 雨の日のとある週末、行ってきました。混雑もなく当日券で入場でき、館内も人影もまばらで落ち着いて観覧でき、満足のいく展覧会となりました。
 フランス絵画や風景画、印象派展覧会となると必ず展示されているといっていいコローです。一見地味と思われる色使いではありますが、淡い濃淡の木や森の葉とくすんだ空の色、境目のあいまいな湖、そしてうっすらと存在しながら存在感のある人物、そこからあふれる詩情感、惹きつけてやまない魅力がありました。今回の展覧会では存分にそのコローの作品を見せてくれました。

 自画像

 今回は本展覧会の中心画家であるコローに焦点をあて、コローと風景画について取り上げてみます。

 ジャン=パティスト・カミーユ・コロー Jean-Baptiste Camille Corot (1796-1875) パリ生まれ

 まず、風景画です。風景画は西洋絵画の歴史のなかでは物語の背景やわき役にすぎないと考えられていたため地位が高くありませんでした。しかし19世紀のフランスではそうした風景画に対する考えに変化が起き、フランス革命と産業革命を経て生まれ変わった社会では、身近な自然を描いた風景画が人気となっていきました。イギリス人画家のジョン・コンスタブルとターナーの作品が大きな影響力を与えたことはいうまでもありません。
 それまで絵画には伝統的な地位の順序が決められていたのです。歴史画、肖像画、風俗画、風景画、静物画の順です。

 イタリアのダンス
(
今展覧会で展示)


 湖畔の木々の下のふたりの姉妹
(今展覧会で展示)

コローはイタリアへ3回旅行してイタリアの風景を多く描き、フランスに戻るとフォンテーヌブローの森などで風景画を手がけました。イタリアで学んだ光の効果はコローの画風に変化をもたらし、のちの印象派に大きな影響を与えるようになるのです。

 コローはパリ市内の裕福な織物商人の子として生まれ、布や色に幼少期から接していた経験はのちの画家としての色彩感覚に多大な影響を与えたようです。シティボーイでありながら風景画に重点を置いて描き、その風景画には野暮ったさや闘争的、挑戦的な感覚はなく、詩情豊か、シンプルな色合いの中に大変洗練された上品さが漂っていて知性も感じられます。一遍の詩が浮かんでくるではありませんか。
 コローの評価はずっとかんばしくなく、サロンに出品してもその多くは落選しました。一般大衆にも人気がなく、作品もほとんどが売れず、不遇な時代を体験しながらゆっくりキャリアを積んで評価を高めていき、晩年に高く認められるようになりました。
 1845年にボードリヤールが「コローこそ、現在の風景画のリーダーだ」と先頭に立って宣言してから徐々に注目が集まり始めたようです。「コローの色は薄く、作品は平凡で下手くそだ」という批判に対して「コローは色彩を重視するカラリストよりも作品全体の調和を重視するハーモニストであり、全体的に常に衒学的でなく、色がシンプルだからこそ魅力的なのである」と反論しました。晩年は謙虚で控えめ、幸せな生活を送りました。「人はプライドを持って威張るべきではない」というのがコローの固い信念でした。

 「自然は芸術を模倣する」と言ったのはオスカー・ワイルドです。どういうことでしょうか。思考経路を反転しないと理解不能の表現にも思われますが、意味深いメッセージ性のある言葉です。芸術を通して自然の美しさに気が付き自然のあるがままの姿とその美を再認識するということでしょうか。

 最後に、最も知られた一点で、コローの代表作となった作品を。

 モントフォンテーヌの想い出

 《モントフォンテーヌの想い出》
 「サロンに出品された際に皇帝ナポレオン3世によって買い上げられ、フォンテーヌブローの城館に置かれました。皇帝失脚後はその財産整理によって国有財産となり、1879年以来ルーヴル美術館に所蔵されています。銀灰色の朝の光の中に、若い女性と子供たちが思い思いに花を摘み、樹に掲げて遊んでいる。伝記作者ロボー「軽々と筆を走らせたその確信的で単純な製作法によって、この自然の素描はこの画家の美しい作画法をよりよく分からせてくれる。これはもう、絵というよりは、あえて言うならば詩そのものなのだ」と語っている。まさに「甘し(うまし/ douce)国フランス」を体現するようなこの絵の理想主義的なイメージは、フランス人の心を掴んだのであろうか、発表後は瞬く間に版画などを通して多くの人に知られるようになった。さらに20世紀に入っても、紙幣の絵柄になるなど、ミレーの『晩鐘』に劣らない国民的な人気のある絵となった。」(高橋明也著『コロー 名画に隠れた謎を解く!』より)

(2021.9.23)

 

  

 コロー作品集 (YouTube から)

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著者へのメッセージ

松本房子様 へ

ありがとうございます。いつもわき役のコローが大きな位置を占めてきました。

次回は日本人版画家です。心を奪われました。

11/14 島崎 陽子

 

地味ですが上品な印象のコロー

島崎様

松本です。コローに焦点をあてての紹介、良かったと思います。加えてスライドショーも作品数が多く堪能いたしました。まるで美術館に行ったつもりになりました。楳本さんにも感謝ですね。

次回も期待しています。

松本

 

11/08 松本 房子

 

楳本さま いつも掲載ありがとうございます。

コロー作品集、楽しみました。

軽快な音楽がとても興味深いです。テンポのいい音楽に乗りながら詩情豊かなコローの絵画を楽しむ冒頭で、一瞬、んっ??と思いましたが、鼓動に響いてくるこの軽快感がとても心地よいのです。

ありがとうございました。

9/24 島崎 陽子


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第15

  

 

 

フリック・ コレクションと フェルメールと 野口英世と

 

 今回はニューヨークにある美術館、フリック・コレクションをご紹介したい。
 お洒落なブティックや店が並ぶマディソン街の先に堂々と佇んでいる新古典様式の白亜の建物の美術館。この美術館は元はフリックという鋼鉄王の大邸宅であったが、フリック死後、娘が邸宅を改装し1935年12月に開館した個人美術館である。美術館としては小規模でありながらも名作揃い、噴水と植物のある中庭が素敵な空間を醸していてそこは館内の憩いの場となっている。フェルメール、ルノアール、レンブラント、ターナー、ゴヤ、エル・グレコ、ベラスケスなどの作品を観ることができる。

 さて、ここで野口英世である。
一冊の本、福岡伸一著『フェルメール 光の王国』を手にしたら、冒頭で野口英世が登場してきたのには意表を突かれた。フェルメールになぜ私の生まれ故郷の野口英世が? 絵画本になぜ黄熱病研究者の野口英世が?
 この本はアメリカから始まり、フリック・コレクションのフェルメールから始まっている。この美術館には3点のフェルメールが所蔵されているのである。そして福岡先生は英世がフェルメールを観ていたのではないかと大胆な仮説を立てる。最初にフェルメールを観た日本人は福島県片田舎生まれの英世か? 興奮する仮説だ。
1935年開館に先立つ7年前、すでに英世は西アフリカの地で研究対象だった黄熱病に感染し非業の死を遂げていた。したがって美術館としてのフリック・コレクションを彼が訪れることは出来なかったが、NYに20数年間滞在していた間にフリック邸宅のコレクションを観る機会があったのではないか、と福岡氏は推測する。
1900年の暮れ、ワシントンD.C.にたどり着いた英世はフィラディルフィアの病理学者・細菌学者、フレクスナー博士のところへ押しかけ雇ってほしいと懇願、そこで研究に邁進し博士の全幅の信頼を得る。ロックフェラー研究所初代所長に選ばれた博士は英世をNYへ帯同し英世は研究所のヒーローとなる。英世はそこで結婚、近くに借りたアパートには日本人画家、堀市郎が住んでいて、堀の手ほどきを受けて油絵を始め、油絵が生涯を通じての趣味となった。研究室では、英世は顕微鏡下に観察された菌などの像を手書きのスケッチで書き留め、光の粒のような正確なスケッチを残していたという。
そしてフリック邸宅はこのアパートの近くだった。フリックはしばしばパーティを催し、NYの名士たちにコレクションを披露していた。新しい絵を購入したときには特にそうだったそうだ。英世はすでに世界的に名が知られていてロックフェラーの庇護下にあったのだから、ここに招待された可能性は非常に高いというわけである。

 フェルメール3点「兵士と笑う女」「婦人と召使」「稽古の中断」。
フリックはなぜ早くからフェルメールの価値に気が付いたのか、近くにあるノードラー社という画商の影響が大きかったそうである。目利きがいた。本場ヨーロッパでいったん忘れさられ再評価されつつあったフェルメールをいち早くアメリカの富豪たちに教えたのはノードラーだった。
フリックは鉄鋼業で成功したが、ビジネスマンとしては波乱万丈、冷酷な経営者と批判され不遇の現役時代だった。私生活では二人の子供に先立たれ、先の見えない日々のなか、フェルメールの優しい光と穏やかな表情の人に癒されていたのであろうか。
世界各国で開かれている大規模フェルメール展にフリック・コレクションが参加したことは一度もなく、この3点を観るためには現地へ行くしかないそうだ。
英世死後19年後 妻メリー・ダージスが死亡、メリーはロックフェラー研究所から支払われた英世の恩給の一部をずっと猪苗代の野口家に送金していた。二人はNYの墓地に並んで眠る。
NYと英世とフェルメールと、そして故郷と。心温まるつながりができた。

(2021.8.9)

 

 

 

フェルメール  全作品    

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著者へのメッセージ

松本房子様 へ

意外なところで意外な出会い、楽しいものです。

日本で紹介されている絵画は、やはり商業主義的な思惑が背後にあり(お金になるかどうか云々)、画一化されてきていると感じています。率先して自分からアプローチしていかないと、掘り出し物等に出会うチャンスは薄れていくばかりでしょう。最近知人より、海外地元の絵画本は日本で出版されているのとは違い、構成、色合い等々、非常に魅力にあふれているとの話を聞きました。言語は横に置いといて(笑)、私も受け身ではなく積極的にアプローチしようと思った次第です。 

09/19 島崎 陽子

 

小規模ながらも素晴らしい個人美術館:フリックコレクション

今回は、フリックコレクション⇒フェルメール⇒野口英世⇒島崎さんの故郷繋がりの興味深い縁なるものを感じ、ホッコリしました。有名な美術館ではなく個人の美術館なので、普通にしていると目にする機会はないように思います。紹介していただいたことで知ることができ、よかったと思います。

 

09/05 松本 房子


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第14

  

 

 

ゴッホは 何者であったのか
 ―― ゴッホと 自然と 日本美術
                

 

  ゴッホは何者であったのか。 ビーチャー・ストウやディケンズの良書を読み、アルルではドーデの「タルタラン」の描いた南にすなおに引き付けられたといい、ピエール・ロティ「お菊さん」に感動して自然のうちに生きている単純な日本人たちが僕らに教えるのは、実際、宗教といってもいいではないかといい、フランス・ハルスをゾラの小説のように美しいと語るのである。ここに挙げた作家はほんの一部であり、多くの優れた作家がゴッホのテオにあてた書簡(650通)に出てきてそれらを読んでいたことがわかるし、アルルへ向けてパリを発つ前日にはワーグナーを聴きにいったというのである。

 原田マハ『たゆたえども沈まず』と小林秀雄『ゴッホの手紙』を続けて読んだ。
 小林秀雄を先に読んでいたら、おそらく不明点だらけですんなり入っていくことはできなかったであろうが、原田マハを先に読;んだことで、弟テオとゴッホとの関係、ふたりの人物像とその生活ぶりがよく把握でき、基本的な土台部分はおおよそ吸収でき、気構えして読み始めた『ゴッホの手紙』を心底味わい、リラックスして楽しむことができた。パリ万博のころの活気と躍動感のある当時のパリの様子も原田マハは冒頭で描写してくれていてパリの映像を描くことができ、この辺も大助かりであった。
 小林秀雄『ゴッホの手紙』、モーツァルトト短調シンフォニーを道頓堀で聞いたときのような衝撃を受けた。感動で衝撃を受けると涙を超えるが、今そんな状態にある。

 ゴッホは牧師の子として生まれた。牧師になろうとして失敗し画家の道へ進んでいった。22才の時ロンドンでひどい失恋にあい、寡黙で憂鬱な孤独を好む青年になっていった。弟のテオは兄のゴッホにあこがれ、いつも兄を慕いながら幼少期を一緒に過ごし、いつしか分身のような存在になっていった。そして国際的画商、パリのグービル商会の支配人として活躍するようになる。

 今回は両作家が重要性を置いているゴッホと自然、ゴッホと日本美術とのかかわりに注目してみたい。

自然について。

「ゴッホは専門画家ではない。何の因果か絵筆をにぎらされた貧乏人にすぎなかった。特徴はそこにある。…自然とは貧乏人にこたえる冬の事だ。…彼が忍んだ生活そのものである。…自然の方に出向いて行く余裕なぞなかった彼は、吹きさらしの自分の生活の中に、容赦なく侵入してくる自然について、知らず知らずのうちに、極めて人間的なある観念を育て挙げた。…感覚や観念によってではなく、生活を通してだ、『手仕事』によってである。…自然とは、人体にこたえる冬の事だ。だから働かねばならぬ。」「たくさんの自画像、この不安な執拗な人間性の分析家に一つの終点を見出していた。人間の、性格とは心理ではない、言葉ではない、自然を相手の勤労が形成する形である、という信念。…画家の思想であるとともにモラリストの思想。」「労働は彼の人生の綱領であり、労働による自然との直接関係のなかにしか、彼はいかなる美学も倫理学も認めていない。」(『ゴッホの手紙』より)
 ゴッホはミレーという絶頂をながめながらミレーを模倣して《馬鈴薯を食う人々》を描き上げた。自然を相手に働く農夫、生きるということはこういうことだ、手仕事でだ、と強く主張する。死の直前には麦畠を描きそこに死の影を見たというのは、自然とのかかわりのなかに生きてきたゴッホの全てが凝縮し反映されていたのであろうか。炎のような力強さ、絵具を投げつけたような筆致、激しくうずまく糸杉と空、自然と向き合い、苦悩とともに自然とかたくなに戦ってきた結果の表れなのであろうか。

日本美術について。

 パリの画家達や絵画コレクターのブルジョワジーが求めていた「新しさ」の背景には少なからず日本美術がかかわっていた。
 「パリ、激動と変革の時期を迎えていた。新しい何かを、変革を求める人々の欲求が高まっている。最初に『窓』を開いたのは、日本美術だった。その斬新さ、日本美術の素晴らしさにもっとも敏感に反応したのは革新的な芸術家たち、つまり印象派の画家たちだった。」「モネたちがなぜあんなに従来の絵画の手法からかけ離れた表現を生み出すにいたったのか、その答えが浮世絵にあるのだ。」(『たゆたえども沈まず』より)
 ゴッホは渓斎英泉の《雲竜打掛の花魁》を見て強い衝撃を受けた。これまでに見たことのない新しい、別次元の斬新な芸術がそこにはあった。
 ゴッホがアルルへ行ったのは「日本」を求めてだったということを初めて知った。そこに芸術家仲間を呼び寄せ、芸術村を創り、孤立した強烈な個性の力を超克し助け合いながら高みを目指そうという夢を描いていた。日本のように太陽が輝き、心も晴れ晴れとして、絵を描くことを楽しむことができるであろうと期待に胸を膨らませてパリを発ちアルルへ向かった。
 「アルルからの手紙、日本という言葉がしばしば現れてくる。…色彩のオーケストレーションに心労するゴッホに、日本の版画の色彩の単純率直なハーモニーがいつも聞こえている。日本風の色の単純化、日本人は、反射を考えず、平板な色を次々に並べ、動きと形とを捕える独特の線を出しているのだ。黒と白とはやはり色彩であるということでもう充分なのだ。…日本人たちはそれを色として使っているではないか。」「日本の画に現れた全く新しい色彩効果の秘密、そんなものは彼は一目で看破したが、そこから彼が想い描かざるを得なかった幸福の夢は、彼の苦しい思想上の問題につながっていた。」(『ゴッホの手紙』より)

 印象派、日本、ゴーギャンとの出会いがあろうと、ことごとく一種強迫された切羽詰まった諸条件となり、それらがキャンバスの上に塗り立てられていった。アルルに来てからのゴッホの絵に、黄色が取りついた。アトリエも椅子も、アトリエの窓も黄金のような黄色でなければならなかった。燃え上がるような黄色、いまいましい黄色、どこに行きつくのかわからない黄色。張り詰めた緊張の色の黄色。《麦畠》では「私の理性は半ば崩壊した」とテオに伝えている。 小林秀雄は本の序盤でこう語る。「一体自分を語るのと他人を語るのと、どちらが難しい事であろうか。いずれにしても、人間は、決して追い付けないもう一人の人間を追う様に見える。という事は、パスカルの言う様に『人間は限りなく人間を超える』という事になるのであろうか。」そして「「人間には人間を超えるあるものが在る、という強い鋭い感覚をゴッホの書簡全集から得ることができると、私は思っている。」と最後に語る。
 ゴッホの青と黄色が好きである。

(2021.6.20)

 

 

 

1881〜

1888〜

1890〜

 ゴッホ  全作品    

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メッセージもよろしく


著者へのメッセージ

樫村慶一様

メッセージありがとうございます。

今回の2冊で、ゴッホがとても身近になりました。常に対峙するような気構えと緊張感が沸いてくる画家でしたが、これからは寄り添えそうな気がしています。専門家が書いた本や学術書ではアプローチしにくいのですが、こうして原田マハさんが未踏分野への登頂の取っ掛かりを作ってくださりとてもうれしいです。気軽に近づけるという切っ掛けがいいですよね。

ところで、コロナ禍により以前のような美術館めぐりが出来ず、困ったもんです。これはぜひ行ってみたいと思う展覧会はチケットを事前にオンラインでクレカ払いで購入。オンラインクレカ払いはしたくない私には致命的です…トホホ。まあ、画集や本で絵画を楽しむことも出来ますので、しばらくは我慢です。

引き続きご指導のほどお願いいたします。

 

08/07 島崎 陽子

 

芸術の評の分かりにくさ

よく研究されていますね。ゴッフォは向日葵、と浮世絵の真似をして絵とかしかしりませんけど、ゴッフォの絵は好きです、家の玄関には一年中向日葵がかかっていています。取り替えるのが面倒になりました。(歳を経て 額は季節を 気にもせず  川太郎)。貧乏人でも絵描きになれるんですね。外国人の画家を評するとき、よくわからない(わかりにくい)表現をします。いつどう家庭で育って、どんな先生について、どのような絵が得意だったとか、ではない、本筋から外れた評が多いような気がします。単純な評だとバカにされるからでしょうかしらね。もっとも、これは映画でも本でも評というものは、元来素人には分からないことをもって良しとすべし、という哲学があるんですね。これからも頑張ってください。

08/02 樫村 慶一

 

松本房子様 へ

マハさんはこの後『リボルバー』を著していますね。

『たゆたえども沈まず』でゴッホを書ききれなかったのではないか、と読書会で発言された方がいらっしゃいました。

小林秀雄『ゴッホの手紙』は泣けます。魂の奥底に入ってきます。

美術と小説を一体化させた原田マハさんは新分野を切り開きましたね。

あいまいだった印象派の生い立ちやゴッホのこと、当時のパリの状況等、この本を通して習得することができました。先日のNHK大河ドラマがパリ万博に行ったところを放映していて、うんうん、とうなずきながら見ることができてにんまりでした。

07/22 島崎 陽子

たゆたえども沈まず

島崎 様

今回も興味深く拝読しました。作家の原田マハについては、松方コレクションの号でも紹介されていたように記憶しております。

ラテン語由来である「どんなに風が吹こうと揺れるだけで決して沈没はしない」という16世紀以来用いられているこの言葉は、戦乱や革命などの困難を乗り越えたパリ市民たちの標語になったとのことを知り、ゴッホの生涯とこのタイトルをリンクさせた原田マハの見識の高さを素晴らしいと感じました。

この刺激を受け、少し前まで読んでいましたカズオ・イシグロの「わたしたちが孤児だった頃」をすばやく読了させ、目下「たゆたえども沈まず」を読んでいる途中です。

次回も楽しみにしております。

07/19 松本 房子


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第13

  

 

 

『ヴェニスに死す』 とギリシア神話
     
                

 

 学生時代機上から見下ろしたクレタ島、ギリシア神話が気になり始めた学生のころからいつかあの地へと思いを馳せているうちに〇十年が経過してしまった。クレタ島は地中海に浮かぶギリシア最大の島で、古代ミノア文明が栄えたところである。クノッソス宮殿といえば馴染みがあるだろうか。
 ギリシア神話は西洋音楽や文学、芸術にはどこかにさりげなく挿入されていてよく登場してくる。ゼウスとオリュンポスの神々から始まり壮大な絵巻物語を呈していてすべてを網羅するには私には気の遠くなる話であるが、先般トーマス・マン『ヴェニスに死す』を読書会で取り上げたことでギリシア神話と対峙する機会に遭遇した。この本に真正面から真剣に取り組んでみたとき、目の前に大きく立ちはだかったのがギリシア神話である。ギリシア神話を踏破しないと『ヴェニスに死す』の真髄には入っていくことができないと悶え始めてきてしまったのである。ギュスターヴ・モローの「アフロディテ(添付)」や「ガラティア」に強烈な刺激を受け、モローの描く華やかで幻想の世界に惹かれて画集を開くのが楽みだった頃もあったが、特段さらに突っ込んでみようという気にもならず今日まで来てしまった。
主人公のアッシェンバッハは「自分がいまエリシウムの地につれてこられたように思うことがあった」と語るまでにギリシア神話の世界に誘われていく。エリシウムとはギリシア神話に登場する死後の楽園である。

 今回『ヴェニスに死す』に出て来るギリシア神話のなかでヒュアキントスとナルキッソスについてふれてみたい。
 まず『ヴェニスに死す』のヒュアキントスの場面から。
 「いくたびも、ヴェネチアの背後に太陽が沈むとき、彼は公園のベンチに腰をおろしてタジオを眺めていた。アッシェンバッハは自分が見ているものはヒュアキントスだと思った。そしてヒュアキントスは二柱の神に愛されたために死なねばならなかった。いつも美しいヒュアキントスと一緒に遊ぼうとして、神託を忘れ、弓を忘れ、キタラを忘れてしまった恋敵に対してゼピュロスが抱いた、痛ましい嫉妬の気持をアッシェンバッハは感じた。彼は、円盤が残酷な嫉妬に導かれて、ヒュアキントスの愛らしい頭に当るのを見た。彼は、――彼も蒼ざめならが、折れた身体を受けとめた。そして、ヒュアキントスの甘美な血から咲いた花には、彼の無限の嘆きの刻印が捺されている。」
 ヒャアキントスについては次の通りである。
 「アポロンの愛は女性だけでなく、少年にも向けられました。古代ギリシアでは、大人の男と少年のあいだで結ばれる同性愛の関係は、信頼や同志的な絆に通じるものと考えられており、女性への愛よりも高い価値を持つとされていました。ギリシア神話には同性愛の物語が数多くありますが、それはこうした考えから生まれたものです。
 ヒュアキントスは、アポロンに恋する美少年でした。…西風の神ゼピュロスもこの美少年に思いを寄せており、嫉妬を感じていました。悲劇はアポロンとヒャアキントスが円盤投げを楽しんでいるときに起こりました。アポロンが投げた円盤をキャッチしようと少年が夢中で走っているときに、ゼピュロスが風を吹かせたのです。この風で円盤はヒャアキントスの額に命中し、彼は死んでしまいました。自分の投げた円盤にあたって死んだのを見たアポロンは「花になっていつまでも私の愛を受け続けなさい」といい、ヒャアキントスの額から流れた血からヒアシンスの花を咲かせました。ヒアシンスという花の名は、この悲劇に由来しているのです。」(吉田敦彦著『ギリシア神話』より)

 そしてナルキッソスの場面。
 「彼と少年の視線が合ったときには、歓びと驚きと讃嘆とがはっきりと現われていたにちがいなかった。――そしてこの数秒間にタジオは微笑んでみせたのだ。話しかけるように、親しく、愛らしく、はっきりと、微笑しつつ徐々に開いて行く唇で笑いかけたのである。それは水に自分の顔を映してみたナルキッソスの微笑であった。あのわれとわが美の反映に手をさしのべる、あの深い、魅惑された、誘い寄せられたような微笑であった。――ほんの少し歪んだ微笑であった。歪んだというのは、おのれの影にやさしい唇で接吻しようとする努力の不可能さのゆえで、媚態を含んだ、好奇心を浮べ、かすかな悩みをたたえ、うっとりとした、そしてひとをうっとりさせる微笑であった。」
 ナルキッソスとは。
 「ギリシア伝説中の美少年。この名は〈水仙〉の意。フランス語ではナルシス。森のニンフのエコーから求愛されたが断り、怒ったエコーは復讐の女神に頼んでナルキッソスを自分自身の姿に恋する男にしてしまったため、彼は池に映るわが姿に恋をつづけてやつれ死んでしまい、水仙の花に化したという。精神分析で自己愛をナルシシズムと呼ぶのは、この物語による」(世界宗教用語大辞典より)。
この伝承からフランスでは水仙をナルシスと呼ぶ。

 いずれも主人公アッシェンバッハがタジオの美に吸い込まれるように惹きつけられていく場面である。ギリシア芸術最盛期の彫刻作品を想わせ、自然の世界にも芸術の世界にもこれほど成功した作品はみたことがないと思った少年である。
 タジオが象徴するものは何か、エロスの神だろうか、最後は死してタジオと一体化、神と化して昇天していったのだろうか。至るところでのギリシア神話との絡み合いと融合、アッシェンバッハとタジオとともに濃色の彩りを添えてくれたこの神話、ちっぽけな解釈ではあっても西洋文化への足掛かりの大きな一歩となった。
 本仲間の友人でギリシア神話に詳しい方から次の言葉をいただいた。「日本人における日本神話のようなものでしょう。難しいものではなく知っているとよくわかる教養と思って楽しんでください。」 この一言で肩から力が抜け、踏破するのではなくギリシア神話を楽しもうという気持ちになってきた。
 最後に吉田敦彦氏の本から。
 「欧米の文化や欧米人の考え方を理解するためには、ギリシア神話を知ることが近道であると同時に必須です。ギリシア神話を知ることは、もうひとつ大切な意味があります。それは、科学の目とは違う目で、世界を見直すことができるという点です。…科学が発達したからといって、すべてが満たされるわけではないことにも気づいています。ギリシア神話には、科学だけでは絶対に説明できない自然現象や力があると描かれています。自然の神聖さを思い出し、それを敬う心を取り戻すためにも、多くの人にギリシア神話を知っていただきたいのです。」

(2021.4.29)

 

 

ー 映画「ベニスに死す」 (ヴィスコンティ監督作品) のテーマ曲 ー

 

 

マーラー 交響曲第5番からアダージェット
ノイマン指揮 チェコ・フィルハーモニー管弦楽団 1977年


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第12

  

 

 

テート美術館所蔵 《コンスタブル展》
Constable  A History of His affections  in England
 
 2021/ 2/ 20  ー  2021/ 5/ 30  三菱一号館美術館

 

 開催日から数日後の2/23(火・祝)、高ぶる弾む気持ちを転がすようにしてコンスタブル展へ出向いて行った。東京駅から美術館までの丸ビルや三菱関連ビルの重厚な趣のある建物が建ち並ぶ道を歩いて美術館へ。赤煉瓦ビルに掲げられた大きなコンスタブル展垂れ幕が出迎えてくれ、中庭に入ると木々、花々、カフェや銅像が見えてきてヨーロピアンテイストを存分に醸していたお洒落な空間があった。お日様が照っていて、椅子でくつろぐ人たち。
 初めての美術館。各部屋には暖炉があるというイギリス風建物の中でのコンスタブル展、これ以上最適な会場はないようだ。

「三菱一号館は、1894年、開国間もない日本政府が招聘した英国人建築家ジョサイア・コンドルによって設計された、初めての洋風事務所建築です。19世紀後半の英国で流行したクイーン・アン様式が用いられています。」(三菱一号館美術館HPより

 風景画家ジョン・コンスタブルはイングランド東部サフォーク州イースト・バーゴルトに生まれた。父は製粉業を営む裕福な家庭で、自宅周りの草地や小道沿いで遊んだ子どもの頃の楽しい記憶や風景の思い出が画家を志す最初のきっかけとなった。才能の開花には父の理解と支援が大きく、専用のアトリエを用意してくれ、製粉所に画材を置くことを認めてくれて画家活動の環境を整えてくれた。
 結婚して家族が新鮮な空気に触れられるようにとロンドン郊外に位置する高台のハムステッドに住まいを借りて移り住んだ。そこには視界いっぱいに広がる風景と千変万化の空と雲があった。時には画面の半分以上を占めるコンスタブルが描く空と雲。緑豊かな木々や色彩豊かな花々以上に雲に魅了されていたコンスタブルの画家魂はいかばかりか、と突っ込んでみたくなる。「自然は絶対的な規範とみなしうるものだったのではないか」とライター前橋重二氏は述べる。

 「空は自然界の『光の源』であり、あらゆるものを統べている」(コンスタブル)。 コンスタブルは空を観察して記録し、当時最新の気象科学の成果を学んでいたそうだ。虹についても光化学的な原理を理解したうえで描くべきだと考えていたらしい。
 イギリスの天候は非常に変わりやすく、晴れ間がのぞいていたと思うと突然雨雲が押し寄せてきて強い雨模様になり、そしてまた太陽が照り出す…そんな変化の中の雲を捉えて描くのには根気が必要だったに違いないと思うが、雲の描写は変化に富み表情豊かで、雲のみでここまでに起伏を持たせた物語性を描くことができるのかと感嘆した。

 コンスタブルの同僚でライバルにウィリアム・ターナー(1775-1851)がいる。ターナーが一歳年上。二人ともそれまで見向きもされなかった風景を描きイギリスを「風景画大国」に位置付けた。コンスタブルは生涯にわたり一歩たりとも国外に出ることはなかったが、対照的にターナーはフランスとの戦争が終わると足しげく大陸に通った。
 本展覧会の見どころのひとつは二人の一騎打ちの場面である。コンスタブル「ウォータールー橋の開通式」、ターナー「ヘレヴーツリュイスから出航するユトレヒトシティ64号」。 ロイヤル・アカデミィー展においてふたりのこの二つの絵画が並んで展示された。ターナーはコンスタブルの鮮やかな大型作品の隣に自分の絵が配されたことを知り、手直しの期間に画面中央に鮮やかな赤色のブイを付け加えて観客の視線を引きつけようと画策した。歴史に語り継がれるターナーの悪名高い行為。後日「ターナーはここにやってきて銃をぶっ放していったよ」とコンスタブル。この両絵画が当時をしのばせるかのように一室に配されている。
 2020年2月から、20ポンド紙幣にターナーの絵と肖像が採用され、ターナーは紙幣に登場した最初の画家となった。私は本展覧会の後、出口ショップでコンスタブル本(図録外)を購入してコンスタブルを学習して…と目論んでいたのだが、一冊たりともコンスタブルの名を冠した本がなかったことに愕然とした。偉大なイギリス人画家ターナーの陰に二番手として認知されているのであろうか。

 「コンスタブルは自然を描いた芸術家の中で、最も著名な画家であると同時に、間違いなく最も優れた画家のひとりです」(本展より)。 

(2021.3.5)

 

 

ー コンスタブルの展示作品から ー

ターナーの作品は第9回をご覧ください。

 

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著者へのメッセージ

松本房子さま

コンスタブルを通してイギリス文化に触れる、至福の時でした。

こうしてみなさんからコメントもいただき、感無量です。

最近、またコロナ渦で美術館へ積極的に出かける気持になりません。

日にちが開いてしまいますが、近々またアップしようと思っていますので、引き続きご支援お願いいたします。みなさんからいただくコメント、楽しみです。

04/16 島崎 陽子


京極さま

興味深いお話、ありがとうございます。「巡査」なんですね、初めて知りました。

最近イギリス本に凝っていますのでうれしい情報です。

ジョン・ル・カレ、スパイ小説にハマっています。「巡査」が出てきそうな予感ですね。なんとこの作家シリーズの新しい訳者は元KDDマン、加賀山卓朗氏です。

職場で一時期ご一緒させていただきました。

出版社の方も加賀山卓朗さんのお仕事ぶりを絶賛しておりました。

これから加賀山卓朗さん訳を購入して読むところです。すっごく楽しみです。ファンレターをお送りしちゃおうかな(笑)。

04/16 島崎 陽子


コンスタブル展行ってみようと思います

雲の描き方が独特で、流石、雲について研究した成果だと感じました。”百聞は一見にしかず”なので、開催中に足を運ぼうと思っています。

追記:前号のグレゴリー・フランク・ハリスについては、メッセージを書く時期を逸しましたが、時折、バックナンバーから検索し、音楽付きスライドショーを楽しんでおります。得も言われぬ充実感に満たされております。

04/03 松本房子


コンスタブルって
島崎さん

画家 John Constable って良くは知りませんでした。ターナーの風景画は印象にあります。同僚でライバルとはよくあることですね。

なぜか Contable は英国では巡査のことを言うのですよね。警察ものの映画やTVで知っていました。モース警部も若いときは Constable Morseとか。

失礼、変なことを書きました。

03/25 京極 雅夫

 

 


▲INDEX

第11

  

 

 

女性の優雅な生活 を描く画家 
グレゴリー・ フランク・ ハリスと
マンスフィールド 『園遊会』
     

 

 一枚の優雅なお茶会の絵が飛び込んできました。

 フェイスブックからです。テーブルの上の花瓶の花と背景の色とりどりの花々は薔薇の花でしょうか。女性がふたり、お友達同士かしら、会話が気になります、何を話しているのでしょうね。
 画家はグレゴリー・フランク・ハリス、1953年南カリフォルニア生まれ。上流階級の女性の優雅な生活を印象派の絵のように描いています。 一目ぼれしました。何と美しい絵なのでしょう。私はモーツァルトの K353を聴きたくなり、CDを取り出してきました。フランスのシャンソン「La belle Francoise 美しいフランソワーズ」を主題とした12の変奏曲。陽の光が多彩な装飾音符とともにはじけているようです。

  この絵をみて、キャサリン・マンスフィールド『園遊会』(The Garden Party)を思い出したと友人が連絡をくださいました。

 マンスフィールドは短編小説の名手といわれ、『園遊会』はマンスフィールドの最高傑作の代表作といわれている珠玉の一篇です。
 上流階級の無垢な少女ローラが、自宅開催の楽しい園遊会の日に初めて“死”と貧しい人々に直面するお話です。
 物語は園遊会の準備から始まります。明るく澄んだ青空と多彩な植物に満たされた庭、庭に張るテントやバンド、サンドイッチの準備などで家族全員が忙しく動き回っています。
 詩情豊かに印象派の絵のように上流階級の優雅な生活の描写が展開されていきます。

 「薔薇といえば、この花は園遊会のお客の気を惹く花は自分のほかにはない、と自分で考えているようだ」
 「ピンクの百合の鉢がいっぱい、美しい紅の茎に、大きなピンクの花がぼっかり開いて、光り輝き、びっくりするくらいいきいきとしていた」
 ローラの母シェリンダ夫人「一生に一度でいいから、いやっていうほどカンナ百合をほしいと思っていた――園遊会がいい口実よ」
 サンドイッチにはクリーム・チーズにレモンカード。高級店から盛りだくさんのシュークリームを取り寄せます。

 そしてローラは、身近な人々とのふれあいから少しずつ生を認識しかみしめていきます。庭で園遊会の準備をしている、たくましく働く男たちに魅力を感じ始め、理不尽な階級の違いを感じ取ります。
 きれいな目をした職人たちを見て「職人のひとりがラヴェンダーの小枝をつまみ、匂いをかいだ。この職人たちとどうして友達になることができないのかしら。それはすべて、不合理な階級制度にもとづく誤りであると、彼女は決めてしまった」と悟るのです。

 そんな時、料理番が「おそろしい事故があったんですよ。男の人が死んだんです」と血相を変えて報告にやってきます。
 「このすぐ下に何軒か小さな家のあるのをご存じでしょう。あそこにねスコットという、若い馬車屋がいるのです。スコットは放り出されて、後頭部を打ったんです。死んでしまったのです。おかみさんと5人の子供が残されました」
 みすぼらしい住まいがひと固まりになって建っていて、シェリンダ家の子供たちは、小さいときには、そこへ足を踏み入れてはいけないといわれていました。
 ローラは園遊会の中止を主張しますが、家族はとりあってくれません。園遊会が終わると、母はローラに残り物をその家族に届けるように提案し、ローラはそれが良いことなのかどうか悩みながら、籠に食べ物を入れてその家を訪れ、そこで横になっている死人と対面します。

 「そこには若い男が横になっていた――眠りこけていた――とてもぐっすり、とてもふかぶかと眠りこけていた――ずっと向こうに、とても平和に。夢を見ているのだ。眠りをさましてはいけない… 園遊会も、籠も、レースのドレスも彼になんのかかわりがあろう。こういうものから一切から、彼は遠く離れているのだ。彼こそすばらしい、美しい。みんなが笑っている間に、バンドが演奏している間に、この路地にこの奇蹟がおこっていたのだ。幸福…幸福…『総てよし』とこの眠っている顔はかたっているのである。こうあるべきなのだ…心残りはない…と。」

 小説の終末、主人公ローラが兄ローリーに語りかける描写が秀逸でこの短編の名場面になっています。
 帰り際、路地で心配で様子を見に来た兄のローリーにばったり出会います。

 「お母さんが心配していたよ。うまくいったかい?」とローリー。
 「『人生って…』、と彼女はどもりながらいった。『人生っていうのは…』。しかし、人生がなんなのか、彼女には説明できなかった。それでよいのだ。兄はすっかりわかってくれた。『そうだろうね、ローラ』とローリーはいった」(完)。

 “生と死”のはざまに初めて直面し言葉では表現できない感情や戸惑いをやさしく受け止めてくれる兄。
 死人の顔をみて「総てよし」「こうあるべきなのだ」と感じたローラの心境、死生観や人間の感情を超越した宇宙のような果てしなさを私は感じ取りました。

 一枚の絵から音楽と小説へ。そこかしこに春の気配を感じ始める今日このごろ、ゆるやかなお陽様のもと得もいわれぬ充実感に満たされています。 

(2021.1.23)

 

 

ー ハリスの作品から ー

 

 

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第10

  

 

 

夏目漱石と 女性像  
     

 

 夏目漱石関連本を読んでいたら、漱石はジャン=バティスト・グルーズ《少女の頭部図》のこの蠱惑的な女性像を好んでいたそうである。
 意外な印象を受けた。正直驚いた。私が創り上げてきた漱石の小説の中の女性像は、竹久夢二の描くような女性の中に芯の座った、一本気の通った細身の女性である。この絵に描かれているぽっちゃりした少女は想像外だった。
 1985年、当時上映された映画「それから」を観に行き三千代を演じる藤谷美和子が登場してきた時、う~ん、違うなあ~とうなったことを覚えている。あのぽっちゃり感は違う違う、私の描く女性像とは違う、と反感を覚えたものだ。しかしながら、映画監督の森田芳光は漱石好みの女性を知り尽くしたうえで藤谷美和子を選んだのかもしれない、と35年という長い年月が経った今、思い直しているところである。

 『草枕』に那美さんという、キ印とうわさされている女性が出てくる。
 鏡が池に散歩にきた主人公の余は、こんな所に美しい女の浮いているところを描いたらどうだろう、と元の所へ戻ったりと鏡が池周辺を歩きながら想像をめぐらす。ジョン・エヴァレット・ミレイ《オフィーリア》を思い起こす場面である。
 ここで余の脳裏に登場してくるのが那美さんである。
 「お那美さんが記憶のうちに寄せてくる。」
 しかし直後に次のように語る。
 「人間を離れないで人間以上の永久という感じを出すのは容易なことではない。第一顔に困る。あの顔を借りるにしても、あの表情ではだめだ。苦痛が勝ってすべてを打ち壊してしまう。といって無暗に気楽ではなお困る。…やはりお那美さんの顔が一番似合うようだ。しかし何だか物足らない。…あれに嫉妬を加えたら、どうだろう。嫉妬では不安の感が多過ぎる。憎悪はどうだろう。憎悪は烈しすぎる。怒? 怒では全然調和を破る。恨? …ただの恨ではまり俗である。色々に考えた末、しまいにようやくこれだと気が付いた。多くある情緒のうちで、憐れという字のあるのを忘れていた。憐れは神の知らぬ情で、しかし神にもっとも近き人間の情である。お那美さんの表情のうちにはこの憐れの念が少しもあらわれておらぬ。そこが物足らぬのである。」
 漱石は「憐れさ」を醸し出す女性を好んだようだ。
 『草枕』の最後の場面は、那美さんが元夫を汽車で見送るプラットフォームで見せた「憐れ」の表情で主人公余の絵がやっと出来上り、小説の完了となる。

 漱石は小説で花を象徴的に使っていることが多い。
 椿の花の狂おしい女性の擬人化の場面が『草枕』で描かれている。凄味を感じるほどだ。エロス。突き刺さってくるような魔力さえ感じる。長いがこの場面も抜粋してみたい。鏡が池での背景場面である。
 「向う岸の暗い暗い所に椿が咲いている。椿の葉は緑が深すぎて、昼見ても、日向で見ても、軽快な感じはない。ことにこの椿は岩角を、奥へ二、三間遠退いて、花がなければ、何があるか気のつかない所に森閑として、かたまっている。その花が! 一日勘定してもむろん勘定しきれぬほど多い。しかし眼が付けばぜひ勘定したくなるほど鮮やかである。ただ鮮やかというばかりで、いっこう陽気な感じがない。ぱっと燃え立つようで、思わず、気を奪られた、後は何だか凄くなる。あれほど人々を欺す花はない。余は深山椿を見るたびにいつでも妖女の姿を連想する。黒い眼で人を釣り寄せて、しらぬ間に、嫣然たる毒を血管に吹く。欺かれたと悟った頃はすでに遅い。…あの花の色はただの赤ではない。眼を醒ますほどの派出やかさの奥に、言うに言われる沈んだ調子を持っている。悄然として萎れる雨中の梨花には、ただ憐れな感じがする。冷ややかに艶なる月下の海棠には、ただ愛らしい気持ちがある。椿の沈んでいるのはまったく違う。黒ずんだ、毒気のある、恐ろし味を帯びた調子である。この調子を底に持って上部はどこまでも派出に装っている。しかも人に媚ぶる態もなければ、ことさらに人を招く様子も見えぬ。ぱっと咲き、ぽたりと落ち、ぱっと咲いて、幾百年の星霜を、人目にかからぬ山陰に落ち付き払って暮らしている。ただ一眼見たが最後! 見た人は彼女の魔力から金輪際、免るることはできない。あの色はただの赤ではない。屠られたる囚人の血が、自ずから人の眼を惹いて、自ずから人の心を不快にするごとく一種異様な赤である。見ていると、ぽたり赤いやつが水の上に落ちた。…あの花は決して散らない。…また一つ大きいのが血を塗った、人魂のように落ちる。また落ちる。ぽたりぽたりと落ちる。際限なく落ちる。」

 『草枕』では、主人公余が湯に浸かっている時、ガラッとお風呂場の戸が開き那美さんが知らぬ顔で入ってきて入浴する場面がある。唖然とする余ではあるが、那美さんの美しい裸体にしびれてしまう。しかし何かが起こるわけではない。
 漱石が女性の裸体を描いたのは全作品のなかで唯一この場面のみだそうだ。妖艶でどこか娼婦的な女性像を展開させながらも一線を越えないところで留まっているところに、漱石は決して女性を性的対象にはせず、女性に対してのリスペクトをわきまえていたのではないかと思う。
 そして派手派手しい女性ではなく、内部から密かに狂おしさをにじみ出している女性が漱石の本には登場してくるように思われる。内に秘めた魔性の女、色っぽく科を作る艶のある少女めいた女性。椿の花の毒々しさと重なる女性。小説という架空の世界では思う存分、現実離れした好みの人物像を創り上げ、実生活とはかけ離れたところの女性像を漱石は楽しんでいたのだろう。
 鏡子夫人の写真を見た時、ぱっちゃり型の凛としたそのお顔は、冒頭で取り上げた絵の少女にも相通じるものがあると私は合点してしまったのである。

(2020.12.13)

 

 

ー グルーズの作品から ー

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メッセージもよろしく

著者へのメッセージ

松方コレクションから欠かさず拝読しています

次号は何だろうと、いつも楽しみにしております。

コロナ禍の中で、中止となった絵画展もあろうかと思います。題材に苦慮されているかもしれませんが、今後もさらに連載を続けられることを希望します。

松本房子

 


▲INDEX

第9

  

 

 

ウィリアム・ターナー  William Turner  (1775/4/23~1851/12/19)
ロンドン、 コヴェント・ガーデン 生まれ


 

 17~18世紀のイギリス風景画の最盛期、ロマン主義を代表する画家として巨匠といわれ、イギリス近代画家に多大に影響を与えた画家。1870年に普仏戦争が勃発した際モネやピサロたちが英国に逃避し、ターナー始め英国画家たちより影響を受けたと言われている。

 ターナー、これまで何度か本物の絵を見る機会はあったが、取り立てて私の興味を掻き立てるほど魅力を感じることはなかった。ぼやっとしたイメージ、輪郭の不明瞭な風景、船、汽車、これらが私が描くターナー像である。 今般、夏目漱石『草枕』を読んでいると、ターナーが2回出て来た。以下に抜粋してみたい。

・・・・・

ターナーがある晩餐の席で、皿に盛るサラドを見詰めながら、涼しい色だ、これがわしの用いる色だとかたわらの人に話したという逸事をある書物で読んだことがあるが、この海老と蕨の色をちょっとターナーに見せてやりたい。いったい西洋の食物で色のいいものは一つもない。あればサラドと赤大根ぐらいなものだ。滋養の点から言ったらどうか知らんが、画家から見るとすこぶる発達せん料理である。そこへ行くと日本の献立は、吸物でも、口取でも、刺身でも物綺麗にできる。会席膳を前へ置いて、一箸もつけずに、眺めたまま帰っても、目の保養からいえば、お茶屋へ上がった甲斐は充分ある。

・・・・・

…してみると、四角な世界から常識と名のつく、一角を摩滅して、三角のうちに住むのを芸術家と呼んでもよかろう。このゆえに天然にあれ、人事にあれ、衆俗の辟易して近づきがたしとなすところにおいて、芸術家は無数の淋琅を見、無常の宝璐を知る。俗にこれを名けて美化と言う。その実は美化でも何でもない燦爛たる採光は、炳乎として昔から現象世界に実在している。ただ…(略)、ターナーが汽車を写すまでは汽車の美を解せず、応挙が幽霊を描くまでは幽霊の美を知らずに打ち過ぎるのである。

 国民的作家漱石が1冊の本の中で2回登場させているとなれば、気になって仕方がない。漱石はターナーの作品を愛していたようだ。 調べてみたら、代表作3作品が目に留まった。

1.《戦艦テメレール号》1838~39年 

2.《吹雪-港の沖合の蒸気船》1842年

3.《雨、蒸気、速度-グレート・ウエスタン鉄道》1844年 70歳前の晩年に描いた“最後の傑作”のひとつ

1.テムズ川を下る老朽化した戦艦を描いた作品。テメレール号は新時代の蒸気船にとって代わられ、解体されるために曳航されてゆく様子、赤い夕日に染められた空は哀しみを表現しているという。晩年になるにつれ、モチーフの輪郭が不明瞭になり光と色彩が溶け合うような叙情的な風景画を描き、のちに「印象、日の出」のモネなど印象派に影響を与えた。

2.Steamboat in a Snowstorm

英語の原題の方がすんなり入ってくる。吹雪の中の蒸気船。このころターナーの幾度にもわたるヨーロッパへの旅が始まり、特にイタリアのベニスへは数回訪れ、こよなく愛したこの地の多くのスケッチを残している。フランス、スイス、イタリアへの旅はターナーに大きな収穫をもたらし、彼が光を描くことに影響を与えていった。

3.当時世界最大の鉄道だったグレート・ウエスタン鉄道の黒い蒸気機関車が、テムズ川に架かるメイデンヘッド高架橋の上を猛スピードで走り抜けていく様子を、デフォルメされた遠近法を用いて描いている。産業革命の象徴である機関車の速度感を強調するために、線路の側壁の線を極端に左右に開くという大胆な遠近法を用いて描かれている。産業革命賛歌だそうだ。ターナーが近代化に肯定的だったか否定的だったか、今でも議論が分かれるところとのこと。

 名作『坊ちゃん』にもターナーは登場してくる。赤シャツが野だに「あの松を見たまえ、幹が真直で、上が傘のように開いてターナーの画にありそうだね」と語る場面。野だは「全くターナーですね。どうもあの曲がりぐあいったらありませんね。ターナーそっくりですよ」と得意顔である。ターナーとはなんのことだから知らないが、聞かないでも困らないことだから黙っていた。『坊ちゃん』ではこのあと赤シャツが勝手にこの島を“ターナー島”と命名してしまう。今では松山にある実在の島を“ターナー島”と読んで観光名所になっている。

 漱石のターナー論を読んでみたいと検索してみたが見当たらなかった。漱石ならではのターナー論を覗いてみたい衝動にかられるが、こんな茶目っ気たっぷりに小説に登場させて場を沸かす漱石の遊び心を楽しんでいるだけでも十分である。“光と色彩が溶け合うような叙情的な風景画”に魅せられつつ自分もいることであるし。

*「四角な世界から常識と名のつく、一角を摩滅して、三角のうちに住むのを芸術家と呼んでもよかろう」、英訳題名 The Three-Cornered World となった文章です。

(2020.11.2)

 

 

ー ターナーの作品から ー

 

▲INDEX

第8回

  

 

 

The National Gallery, London
ロンドン・ ナショナル・ ギャラリー展

国立西洋美術館 2020年6月18日~ 10月18日

 

 9/20(日)曇天の日に行ってきました。コロナ禍により入場整理券を事前に購入しての鑑賞となりました。事前購入という煩わしさもありましたが、混雑を避けてゆったりと観て回ることができ、結果的にはとても良かったです。
 ロンドン・ナショナル・ギャラリー200年の歴史で、史上初めて英国外での大規模な展覧会とのことです。61作品、すべて初来日。日本で開催されることの意義や価値について中野京子氏が次のように語っています。「ほんとうにすごいこと。とんでもないこと。そういった表現に尽きるでしょうね。一般的な美術館展は目玉となる作品が数点あって、その他大勢が脇を固めるというラインアップがほとんどですが、今回はほとんどの作品が目玉クラス。『61作品、全てが主役!』というキャッチコピーに偽りはありません」。
 作品がバラエティーに富み画家の国籍も多岐にわたり、時代背景や絵画の属性が多様で少々戸惑いもありましたが、中野氏によると、そういった“違い”や“差”に注目しながら見比べるのがこの展覧会を楽しむポイントのひとつでしょう、と仰っています。「完璧に統一感が取れているというわけではなく、良い意味でなんでもありというか、ごった煮状態になっている点もロンドン・ナショナル・ギャラリーの特徴です。ここは他のヨーロッパの多くの有名美術館のように王室が母体ではなく、市民によって設立された美術館でヨーロッパ中から買い集められたコレクションがベースになっています。」
 そしてまた、中野氏は絵画におけるイギリスの国民性を興味深く語っています。「物語が大好きな国民性ということもあってか、イギリスでは美術よりも文学のほうが広く好まれてきました。だから、イギリス出身のメジャーな画家は数えるほどしかいません。…興味深いのは集められた作品に物語が好きなイギリス人らしさが垣間見えるところで、…深い意味やストーリーが込められた作品の多い点が際立った特徴といえます。」  
 パオロ・ウッチェロ、ドミニク・アングル、フランシスコ・デ・スルバラン等の絵は確かに一片の小説から一場面が立ち上がってきているようです。
 会場は7つのセクションに分かれて展示されていました。

- イタリア・ルネサンス
- オランダ絵画の 黄金時代
- ヴァン・ダイクと
 イギリス肖像画
- グランド・ツアー
- スペイン絵画
- 風景画と ピクシャレスク
- イギリスにおける  フランス近代美術受容

 

 私は馴染みのある画家の絵を楽しむことができました。 カナレット《ヴェネツア 大運河のレガッタ》、ゴッホ《ひまわり》、フェルメール《ヴァージナルの前に座る若い女性》、モネ《睡蓮の池》、ルノワール《劇場にて》、ゴーギャン《花瓶の花》

 今回は《ひまわり》を取り上げてみたいと思います。土壁を力強く塗りたくったような筆遣いが印象に残りました。SONPO美術館にも《ひまわり》はありますが、こんなにゴテゴテしていたかしらと気になっているところです。合計11点(または12点)の《ひまわり》のなかで、ロンドン・ナショナル・ギャラリーのは4番目の作品(1888年8月)、SONPO美術館のは5番目(1888年12月~翌年1月)です。この時期、ゴッホが日本絵画から影響を受けていることは知られていますが、「ロンドン・ギャラリー所蔵のものは、背後に塗られた黄金色がひときわ輝き、どこか金屏風を思わせなくもない」と小野正嗣氏は述べています。そして「ゴッホの絵のひまわりがどれも根を断たれ、花瓶に挿されたものであることが気にかかる。すでに萎れはじめている花もいくつかあるように見える」と興味を掻き立てることを語っています。
 日本の切り花とは違い、西洋では切り花は“残された儚い時間”、“死”を意味するそうです。燦燦と輝く太陽の日を受け、その太陽に向かって光り輝くように咲くひまわりの切り花を描くことで、心の闇の部分を対照的に表現しようとしていたのでしょうか。ゴッホを調べていたら“黄色は孤独の中で愛を求める希望、暗闇の中の一条の光”の一文に出会いました。
 会場で、この絵の解説にゲーテの『色彩論』からの抜粋がありました。そのコメントは覚えていませんが、ゲーテは光に一番近い色が黄、闇に一番近い色が青であるとする、とその著書で述べています。「もっと光を」とも関連性があるのでしょうか(笑)。『色彩論』はターナーの絵にも影響を与えたようです。『色彩論』を初めて知り、ゲーテの多才さに驚かされた日でもありました。

(2020.9.22)

公式ページはこちら 

 

 

ー 展示作品から ー

 

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第7回

  

 

 

ざくろの聖母子と 神秘の磔刑
サンドロ・ボッティチェリ(1444/45 ~ 1510)
「春の戴冠」辻邦生著 を読んで 第3回(完)


 ジロラモ・サヴォナローラ、後にサン・マルコ修道院長となるこの僧侶の登場で、フィオレンツァに暗雲が立ち込め、フィオレンツァは大きな変遷をたどってゆく。
 ジロラモは、フィオレンツァの諸悪の根源であるとされたメディチ家による独裁体制を批判、「祈りによる統治」を掲げ信仰に立ち返るよう市民に訴え、激しい言葉で市民たちの心をわしづかみにしていった。少年たちを集めて説教、扇動していき、その少年たちの騒動は常軌を逸するまでになり、街を歩いている女たちのブローチや首飾りを奪い、各家を訪ねて贅沢品と思われるものを破壊し奪い取っていった。ジロラモを崇拝していく少年少女たちの態度にはどこか子供らしからぬ残忍さ、執拗さ、あくどさが加わり始め、少しでも彼らの考える基準に合わぬ人間を見ると、糾弾し嘲笑するのであった。なぜ手の汚れていない子供たちがそれをやる必要があるのか。
 「虚飾をやめよ、キリストに栄光あれ」が合言葉になっていった。謝肉祭、ドゥオーモに姿を見せたジロラモの説教は人々の熱狂を呼び起こした。多くの人々は以前の華美な祭礼よりこの簡素な復活祭の方が、はるかに荘厳で清浄感に満ち、神を身近に感じることができると言っていた。こうした清浄感に打たれた人々の心を捉えたのがジロラモの説教であった。
 しかしながら数年経つと、人々もさすがにジロラモの言葉だけでは、差し迫った不安や空腹はどうにもできぬことを理解していった。疫病、死人、穀物の値上がりと人々の不安は増していった。反対派が立ち上がり、ジロラモに対する理由のない嫌悪感が突然火のように拡がった。サン・マルコ修道院に暴徒と化した市民が押し寄せ、ついに共和国もサヴォナローラを拘束し、絞首刑ののち火刑に処され殉教した。
 このころサンドロの絵は、急に激しさを加え、なまなましくなり、喘ぐようになって、そして突然、火が消えたように描かれなくなり、いっそう陰気になっていた。体調を崩し病床で過ごす日々となっていった。

 ジロラモに扇動された少年少女たちのなかに、語り手の次女、アンナがいた。生真面目で笑うことのない少女、尼になり尼僧院で暮らしている。父から尼僧院に住むアンナへの思いが述べられている。
 「アンナ、お前はいま何を考えているのだ。ひたむきに正義と愛とを求める気持はよくわかる。だが、人間には美も要れば悦楽も要る。たまには笑声をあげ、冗談を言い、朝ねをし、酒を飲むことも必要なのだ。そういう弱点を持っているからこそ、人間は互いに許し合うこともできるのだ」。
 この小説は尼僧院のアンナから父の語り手への手紙で幕を閉じる。長くなるがここに抜粋したい。アンナとサンドロは、父の知らないところで交友を深める友人同士であった。
 「最大の喜びは、サンドロが死ぬ前に、私の好きな『聖母子像』を尼僧院に贈ってくれたことでした。礼拝堂にゆくたびに、この美しい円形肖像画の前に、ながいこと座っております。心が安らいでいるのはそのためなんです。あのやさしい顔をした幼児キリストが聖母の手にあるざくろに触っている絵です。お父さまはこの聖母のモデルが、サンドロやお父さまが憧れていたシモネッタのお母さまだ、と仰っていましたね。私を捉えたのは、サンドロの絵のなかにある魂でした。
 お父さまが首をかしげ、多くのサンドロ愛好家が不安な表情をしたあの最後の絵、それを最後に、サンドロはもう二度と画筆をとろうとしなかった絵ほど、私の心を捉えて放さないものはないのです。色も形も混沌としているあの絵の遠景にフィオレンツァの都市が見えている。十字架にとりすがる前景の女。気味の悪い赤い眼の狐が女の衣服の下から逃げ出そうとするところです。フィオレンツァの半分は火焔に包まれ、天使が女に向かって立ち、剣を振りあげてもう一匹の狐をこらしめています。火焔は嵐に煽られ、悪魔の大軍はなお無数の火を投げているのです。
 フィオレンツァの形をとって現れた人間の運命というふうに受け取って頂きたい。十字架を抱いて心から痛悔するときだけ、自分の深い根源の正しさに向かって、自分の一切の虚偽、不正、冷酷を告発するときのみ、はじめて人間の心が美にかなうようになることを、この絵で示しているのです。この最後の絵がサンドロの心の絵であり、私の心であり、十字架の心を描いていると信じることができるのです。ジロラモへの心酔がサンドロから絵を描く根拠を失わせたといいます。サンドロはもう絵を描く必要がなかったのです。あの最後の絵のなかにサンドロの心は、すっかり言いつくされてしまったからです。サンドロは本当の生を心から生きたのです。あれから、時間をこえたところ、場所をこえたところで生きつづけました。それはサンドロがよく言っていたように〈永遠〉という言葉がいちばんふさわしかったでしょう。
 私たちが〈地上にいる〉ということだけで、すでに一切が成就している、サンドロが静かな老年の生活のなかで示したのは、単純にこの真実であったのです。しかしそのことに思いを致すときほどに〈永生〉を感じることがあるでしょうか。人々の生死も、花々も、雲も、風も、こうした思いのなかでのみ、ヴィーナスが誕生したあの朝の香しい軽やかな光を取り戻せるのです。」

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 私にはアンナの次の言葉が重くのしかかっている。
 「私はなおジロラモを信じておりますが、ジロラモの本当の心は少年たちの仲間よりも、ずっとずっとサンドロに近いと思われました」。
 『ヴィーナスの誕生』『春』、その他数々の甘美な香しい陶酔するような絵を描き続けてきたサンドロと、フィオレンツァを陥れたジロラモとが心の内では最も近い関係にあったというのだ。この長編を数週間かけて読んできて、このような言葉がアンナから出てこようとは、そしてこの小説の締めがこの言葉で終えようとは誰が想像できたであろうか。
 アンナにこの言葉を語らせて静かに完了、本の最後に確かに(完)とあるが、ルネサンス以降の人々と私たち読者に「永遠に同じ出来事を演技する、それが人間なんだ(サンドロ)」の言葉と同時に、他人の心を理解することはできず、人間は常に問題を抱えながら未解決で曖昧模糊としながら日常を送っていく、これが〈神的なもの〉である、と辻邦生氏は提示しているように思えるのです。その提起された問題も心豊かな日常と表裏一体ですよ、と言っているように思えて仕方がないのです。(完)ではなく、サンドロの言うように繰り返していくのです。そして「私たちが〈地上にいる〉ということだけで、すでに一切が成就している(アンナ)」
のです。
 小説の構成、語り手とサンドロとの関係、語り手父と叔父とフィオレンツァ経済行政との関わり、語り手娘アンナとジロラモとサンドロの関係等々、全てにおいて卓越した小説である。これから時間をかけてじっくりとこの小説を消化、咀嚼していきたい。


アンナの手紙に出てきたサンドロ最後の絵について
 
京谷啓徳著
『もっと知りたいボッティチェリ』(東京美術より)

「黙示録的なイメージや、悔悛によりフィオレンツェが救済さるという意味内容は、サヴォナローラの説教や改革に基づくと考えられる。とりわけサヴォナローラの存在の深く刻印された作品であり、サヴォナローラ主義者の注文によるものであろうと推定される。
 

 

 

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第6回

  

 

 

カステッロの受胎告知 サンドロ・ボッティチェリ(1444/45 ~ 1510) 「春の戴冠」辻邦生著を読んで 第2回 

  

 

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聖マルティノ寺院から依頼された「受胎告知」の背景に、一本の樹が枝葉を空に開いている。明らかに北方画家の作品の背景に触発された雰囲気、不思議な静謐感。一本の樹木はこの細長い窓の枠取りの中央に、内と外の両方を静かに眺める証人のように立っていた。
 私にはその樹木が無人の、音の絶えたような、澄明な神聖劇の唯一の観客のように思えた。それは沈黙した、敬虔な存在に化身した人類そのものに他ならぬのではないか。「神曲」の詩人と同じように、自由な視覚で〈神的なもの〉を表わす形を空想の中から呼び出している。この異国風な風景のなかに私は地上の静寂と懐かしさを感じる。(本文より)

 本の主人公に語らせたこの描写。
 推敲に推敲を重ねたのであろうか、それとも想うがままにペンを走らせたのであろうか、無駄のない文章で情景を見事に描き切っている。静謐感、澄明さ、敬虔さ、懐かしさを全身で感じ取ることができ、放心するように陶酔してしまう。辻邦生を敬い仰ぎ見、大ファンであるといいたくなるこのような描写場面に至る所で出会う。
 私が今回この絵を取り上げたのには理由がある。1489-1490に製作されたこの絵はフランドル派の影響を受けているといわれていてこの頃から芸術作品に北方の暗示が見られ始めてきたからである。絵画では、遠くがぼんやり霧で薄れるトスカナにおいて、それまで冷たく澄んだ水のような空気の表現は不可能だったそうだ。それまでフィオレンツァでは試みられなかった画法で、その澄明な空気を湛えた実物そっくりに描かれた世界は驚異的だっだそうである。北方画家たちの影響が拡がり始めた。
 そこには当時のフィオレンツァとヨーロッパの政治情勢が大きく関わっている。
 そのころまでにはメヂィチ銀行の柱がぐらつき始め、すでにロンドン支店が閉鎖されていた。北ヨーロッパのみょうばん独占販売権を失い、今度はアヴィニヨン支店の崩壊と続いていた。
 すでに英国もネールランディアも羊毛をフィオレンツァに輸出せず自国産の毛織製品で自給自足をはじめていて、フィオレンツァの輸出入業にも大きな陰りが見えてきていた。メディチ家当主のロレンツォにはもはや打開の道はなく、問題は各支店をいつ閉鎖するかにあった。一日のばせばそれだけメディチ家の財政に負担が加わることは眼に見えていた。一斉に引き揚げることはロレンツォの地位を危うくするのではないかという忠告の声のなか、最後にブリュージュ、ヴェネツィア、アヴィニヨンの三支店の閉鎖を決定したのはロレンツォ自身だった。実質的な負担を軽減したほうがメディチの力を温存することになるとロレンツォは判断した。
 ブリュージュのメディチ商会を取り仕切っていたのがトマソ・ボルティナリ。ブリュージュ支店が閉鎖されブラドラン館が売却されて、ボルティナリが生涯の大半を過ごしたブリュージュからフィオレンツァに戻ってきた。ボルティナリの屋敷に相当の数の北方都市の絵画、木彫、レース飾り、家具、飾物、つぼ、細工物、装身具が持ち帰られていた。
 フィオレンツァの人たちが北方文化に触れる大きな契機となった出来事である。
 ボッティチェリをはじめとした画家や職人たちも足しげく通い詰めたのであろうか。新しい世界に目を見張るボッティチェリのクリクリとした目と純真な好奇心を垣間見るようである。

 京谷啓徳著『もっと知りたいボッティチェリ』東京美術より。
『カステッロの受胎告知』について
 マリアは美しい曲線を見せながら、思わず身を引くかのようなポーズを見せており、戸惑いと受け入れの間の絶妙なパランスが感じられる。
 この作品で焦点になっているのは、マリアと大天使ガブリエルの手振りにより対話だ。垂直に立てた天使の手は、開口部の垂直線と一致し、それに対して、同じ形を繰り返すマリアの両手のうち、右手は開口部のくり型のなかにぴったりと収まることによって、その役割を際立たせている。彼らの手先の、いかに表情豊かなことか。戸惑いながらも天使を受け入れようとするマリアの心情が、彼女の表現とポーズに加えて、この手によるコミュニケーションによっても見事に表現されている。通常描かれる象徴的なモチーフは切り詰められ、ガブリエルとマリアが大きくクローズ・アップされたこの作品は、キリスト教の教義の図解よりも、人間的なドラマの表現に比重があるといえる。

 ロレンツォ時代のボッティチェリについて付記しておきたい。
 当初、ボッティチェリ初期の時代の評判はさして目立ったものではなかった。当時の流行から離れていて、画家仲間ではどこか異質の人物、わかりにくい人物、煙ったい人物と見なされるようになっていた。ボッティチェリの絵は、ただきれいごとを狙っているだけ、真実味が欠けていて〈ありのまま〉が描かれていないという批判があった。
 ところがコシモやピエロの時代が終わり、ロレンツォが花の都に春をもたらした時代になると、急激な人々の好みの変化があり、ボッティチェリの出現は町の人々に待たれていたものであった。まさに人々が求めていた〈神的なもの〉が現われていて人々の心に広く感じら受け入れられるようになってきていたのである。 

 

 

 

 

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第5回

  

 

 

プリマヴェーラ(Primavera)/春 サンドロ・ボッティチェリ(1444/45 ~ 1510) 「春の戴冠」辻邦生著を読んで 第1回 

  

 3月から読み始めた「春の戴冠」中公文庫全4巻を5月中旬に読み終えた。長編、週末のみに取れる読書時間、要点をメモりながらの読書となったので時間がかかったが十分に満足のいく読み方ができたと思っている。この壮大なルネサンス期の歴史ドラマを理解し咀嚼していくには、読書メモを取る以外に方法がないと考え、ペンを持つ指に疲れを感じた時もあったが最後まで遂げることができた。画家サンドロ・ボッティチェリの生涯を軸として展開される花の都フィオレンツァの物語である。フィオレンツァの政治経済、フィチーノ先生を中心とするプラトン・アカデミア、シモネッタとジュリア―ノの恋物語、メディア家の興亡、ジロラモ・サヴォナローナによる春の終焉。読了後の今、豪華華麗で壮観な大きなうねりが体のなかに渦巻いていて、体と精神がルネサンス期のフィオレンツァを浮遊している感覚である。数回に渡ってこの本に出てくる絵画を取り上げてみたい。
 初回となる今月は『プリマヴェーラ(Primavera)/春』。
 ウフィツィ美術館で数回観ている絵である。フィオレンツァにある全ての絵画についていえることではあるが、この本を読む前と後では鑑賞眼に大きな違いがあることは明白である。2016年1/16~4/3 東京都美術館でボッテチィリ展が開催され、その時にも足を運んだが同じことがいえる。この時に購入してきて居間の壁に立て掛けてある『春』のレプリカを見ながら『春』の部分を読み進めていった。
 この絵はロレンツォ・デ・メディチの結婚を祝う目的で描かれたといわれている。ロレンツォはボッティチェリやリッピら芸術家を擁護し、ボッティチェリも顔を出していたプラトン・アカデミアにも参加し芸術・文芸のパトロンとして親しまれ敬愛されていた。 本の2巻終盤に『春』が完成に至るまでの経緯と、製作中のボッティチェリの苦悩、苦心、迷走など心の内奥が描かれている。プラトン・アカデミアの思索を絵画で表現したものがこの傑作、死の床にあるシモネッタの生命を絵によって救済しようとし、シモネッタその人を〈永遠の不滅〉であることを表現している。ゼフィロス(西風)が2人の女に戯れかけ、乙女が香しきフローラ(花の女神)に変身。中央の三美神の輪舞は美の女神、憧れの女神、快楽の女神。左側にヘルメス、7人の人物をまとめているのがこのヘルメス。ヘルメスが死であると同時に蘇りを示していて、左への進行が元に戻って右側から再び始まることとなる。 単なる名画の1枚だった居間の絵に息吹が感じられ、生命が宿ってきた。 ボッティチェリは絵が出来上がった時、病床のシモネッタを訪ねてシモネッタに絵を見せた。シモネッタはジュリアーノの愛人、23才で病死、ヴィーナスのモデルと言われている女性である。
 シモネッタは次のように語る。 「世界じゅうの人間が、この絵があることを伝え聞いて、きっとフィオレンツァに集ってくるでしょう。そしてそのとき、いつも、そうした大勢の人たちのなかで生きることができる。人間って、こうした〈美しいもの〉を見るためには、明日死ぬことがわかっていても、遠くへ旅立とうと思うもの。この〈美しいもの〉が人間の心を高く打ち響かせ、死をさえ、小さな、取るに足らぬものに思わせるの。」
 花の女神フローラの言葉の音が醸す優しさと優雅さを感じるこの絵にシモネッタの姿が重なる。花の香に満たされている春の訪れと死、フィオレンツァ一の美女と薄命。「左への進行が戻ってまた右側から始まる」、ボッティチェリはシモネッタの死を間近にして「再生」をこの絵で表現しようとしたのだろうか。
 本のなかで繰り返し述べられたフィオレンツァの春は、この作品『春』とボッティチェリとともに永遠に生きていくことであろう。私自身、甘美で華麗な花盛りの都市フィオレンツァの豊潤さをまといながら、これからの後半生を生きていきたいものであると読了後に思った。 “春になってトスカナの空が明るく晴れ渡り、桜草が土手に花をのぞかせるようになった。” シモネッタが亡くなってもフィオレンツァの春は永遠である。

 

 

 

 

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第4回

  

 

 

シシィ(皇后エリザベート) 上野国立西洋美術館『ハプスブルク展』より  

  

 昨年10月~今年1月、上野国立西洋美術館にて『ハプスブルク展 600年にわたる帝国コレクションの歴史』が開催され、秋の日差しがさす休日に行ってきた。ハプスブルク家の隆盛の基礎を築いたマクシミリアン1世の絵画から始まり、マリア・テレジア、アントワネット、フランツ・ヨーゼフ、シシィ(エリザベートの愛称)、マルガリータ・テリサとハプスブルク家一家が一堂に会した展覧会だった。
今回はそのなかで不遇の一生を遂げたオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフの妃、絶世の美女シシィ(1837.12.24-1898.9.10)に焦点をあててみたい。私が訪れたことのあるオーストリア郊外のバート・イシュルとハンガリーとの関係に的を絞って進めていく。
 フランツ・ヨーゼフとシシィの出会いはザルツカンマーグート、オーストリア最古の温泉の町、皇帝一家の避暑地があったバート・イシュルである。ここでフランツのお見合いが行われたときのこと、お見合いの相手はシシィの姉だったがフランツが心惹かれたのは15才の妹シシィであった。フランツに見初められ求婚されたことでシシィの数奇な運命が始まる。  
 結婚してウィーンで華やかな宮廷生活に入るも姑のゾフィーが取り仕切る宮廷は居心地が悪く、フランツは業務に明け暮れシシィに真正面から向き合ってくれることはない。宮廷の堅苦しい儀式にも疲れ、シシィの日常は常に逃避の連続だった。ウィーンの生活に疲れるとシシィはバート・イシュルの夏の別荘カイザーヴィラにきて過ごしたという。シシィがくつろいで過ごした部屋は今も残っている。
 バート・イシュル、この町はもうひとつの意味で私には強烈な記憶として残っている。1914年7月28日、皇帝がサラエヴォ事件を受けてセルビアに対する宣戦布告に署名した場所であるのである。署名をしたカイザーヴィラの執務室の机の前に立ったとき、私は皇帝の気配を感じ生身のひとりの人間として感じたことを覚えている。一種の緊張感が走り、身震いするほどの思いをしたものだった。
 さて、シシィはオーストリア帝国からの独立を求めるハンガリー人に好意的になっていった。その理由は姑ゾフィーがハンガリーを嫌っていたという感情的な理由からである。シシィのその好意的な行為はオーストリア=ハンガリー二重帝国成立への真の立役者にシシィを成長させていく。ハンガリー民族の立場を尊重し、二重帝国に再編成するようにというシシィの勧告があって成立に至ったといわれている。
 シシィのハンガリー人への慈しみや愛情の表れはシシィの日常生活や身の回りにもみられた。ハンガリー人の侍従や女官を身近におき、ハンガリー語を自由自在に使い、ハンガリーを第二の故郷として頻繁に訪れた。そしてシシィのハンガリーへの思いと同等にハンガリー人もシシィを愛した。シシィが亡くなったとき、その柩の上には「オーストリア皇后」とだけ記されていたが、ハンガリーが抗議をして「ハンガリー王妃」と付け加えたという。
 ハンガリーの首都ブダペストにはエリザベートの名を冠した橋が架けられている。ハンガリー人のシシィへの情愛と敬慕の表れのひとつである。30年ほど前、私はウィーンからフェリーでブダペストへ入り、19時エリザベート橋のたもとにフェリーが停泊するため速度を落として、夕方から夜に変わろうとする銀色の世界のなかに高貴で華麗、優雅な真珠のごとく輝くブダ王宮が見えてきたとき、その幻想的な王宮を見上げながら感嘆の声を発するほど興奮していたことを思いだす。私のシシィとハンガリーとの出会いの原点である。

 シシィはハンガリーでは今でも絶大な人気を誇っている。
 シシィの生涯は苦悩の多い波乱に富んだ人生だった。ひとり息子のルドルフはマイヤーリンクで謎の死を遂げるなど悲劇に見舞われた人生を送った。
1898年9月10日、スイス、ジュネーブでシシィが暗殺された時、皇帝フランツ・ヨーゼフは「私がシシィをどれほど愛したかは誰にも分からないだろう」と側近に繰り返し言い続けたという。

 

 

 

ー ハプスブルグ展出品作品 ー

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第3回

  

 

 

真珠の耳飾りの少女 トレイシー・シュバリエ著を読んで 訳者:木下哲夫

  

 1664‐1665年 そして1676年
 肩越しに振り返り、濡れた唇に情感を漂わせ、大きな瞳でこちらを見ている青いターバンを巻いた少女。真珠の耳飾りに秘められた物語。
 モデルとなったフェルメール家の女中フリートをめぐり、旦那様(フェルメール)と妻カタリーナ、同居するカタリーナの母親、5人の子供たち(最終的には11人の子持ちとなる)、女中の先輩タンネケ(牛乳を注ぐ女のモデル)、そして将来の夫となる精肉屋の息子ピーテルたちとが織りなす小都市デルフトの一角での人間模様。そうそう、旦那様の重要な顧客で、フリートにちょっかいを出すファン・ライフェンの存在も無視できません。大きな目の17才のフリートはさぞかし魅惑的だったのでしょう。
 カタリーナのフリートに対する嫉妬心との闘い、嫌がらせをする子供、バランスを取ろうとするカタリーナ母、常に画家の目を通して(と思われる)フリートに接している旦那様、一枚の世界的名画が出来上がるまでの過程は、ページを追うごとに複雑な人間模様との絡み具合とともに興味が増幅していきました。
 この時代、顔料の調合に亜麻仁油が使われていたのには驚きました。今、体にいいとしてスーパーに並び始めていますが高くて手が出ません。高額な材料―青・赤・黄―は小分けにして豚の膀胱にしまっていたそうです。風邪薬として乾燥したニワトコの花とフキタンポポの溶液が出てきます。当時の人たちの知恵には驚嘆するばかりです。
 プロテスタンとカトリックの静かないがみあいと共存も随所に描かれていて、当時の社会状況の一端を垣間見ることができます。
 時がたつにつれて、フリートは旦那様の重要な助手になっていきました。カメラ・オプスクラを巧みに使用する旦那様とその手伝いをするフリート。旦那様から色の選定に助言を求められ、茶色と返答するフリートに「なぜ茶色を選んだのかね」、青と黄色は淑女の色だということを旦那様に申し上げるのも気が進まないとはにかむ純真なフリート。
 そして旦那様の画家魂。水差しと水盤に数か月の月日をかけて描く旦那様、椅子に掛ける布やモデルの娘さんの胴着と違い、水差しと水盤は何よりも手が込んでいてこういう色でなければならないという色へ仕上げていく様子はフェルメールの穏やかで強靭な執念を感じます。
 数か月後、フリートがモデルとなった「真珠の首飾りの少女」が出来上がった時、絵の前にはパレットナイフを持って絵のなかのフリートにダイヤモンドの刃を突き立てようとするカタリーナがいました。咄嗟にその手首をつかんだ旦那様、フリートはフェルメール家を出て脇目もふらず一目散に逃げ回り、フェルメール家に戻ることは二度とありませんでした。
 月日が流れ11年後の1676年、結末は耳たぶに掛けられた大きな真珠の意外な行方で幕が閉じました。最終ページのわずか数行の出来事に驚きしばし茫然としましたが、読み終えて気持ちが落ち着けば傑作と思える終わり方に納得し脱帽しました。
フェルメールの遺言「真珠の耳飾りをフリートへ」、その耳飾りをフリートに届けるカタリーナ、そしてその耳飾りを質屋にもっていき生活の足しにするフリート。
人間模様の終着点の整理とその具現化。
ピエールと結婚、男の子の親となっていたフリート、今後のフリートに幸あれと強く願って止みませんでした。

木下哲夫氏
「著者はフェルメールの絵のような小説を志したのではないか。フェルメールの絵は言うまでもなく、芸術のジャンルを問わずとびきりの上物。較べる相手としてはモーツァルトくらいしか思いつかないほどの傑出した存在。」

 

 

 

ー フェルメール展から ー

 

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第2回

  

 

 

オランジュリー美術館コレクション ー ルノワールとパリに恋した12人の画家たち (2019/9/21-2020/1/13)

  横浜美術館

 パリ、セーヌ川岸に佇むオランジュリー美術館から70点の作品が横浜美術館にやってきました。 
 初めて訪れる横浜美術館、入り口を入るとオルセー美術館内を彷彿とさせる広々とした吹き抜けの造りに心が躍りました。印象派が似合うとひとりにんまりです。
 20世紀初頭、自動車修理工だったギヨームはアフリカ彫刻に興味を持ち始め、それがきっかけでパリの画家たちとの交流が深まり画廊を開設、コレクターとして絵画の収集を始めました。ギヨーム死後は妻ドメニカが担い、最終的にはフランス国家に譲渡、オランジュリー美術館で展示されることになりました。モディリアーニが描く肖像画でおなじみのギヨーム、今回の展覧会でその画商の人となりが解説されていて、ようやく人物像が判明、少々不気味な様相を呈していた肖像画のキヨームに親しみを覚えるようになりました。

 

 一枚の絵、オーギュスト・ルノワール「ピアノを弾く少女たち」に会いたくて、お正月休みに出かけてまいりました。 姉妹なのでしょうか、あるいは仲のいいお友達なのでしょうか、一緒に楽譜を覗き込む愛らしいふたりにこちらが幸せいっぱいな気持ちになってきます。水玉模様のワンピースのかわいらしいこと、後ろで結ばれて椅子にたらんと垂れるブルーの布のベルトがいいアクセントになっていますね。この絵を引き締めいっそう引き立てています。椅子の背もたれの細い造りの精巧さがピアノ右側のあいまいな描写と好対照をなしていますが、計算されつくしたデッサンなのでしょうか。
 ふくよかな金髪の髪の毛は展示室の淡い光に照らされ、本物のように輝いていました。
 少女たちの純粋無垢な生命観、あふれ出る生きることの楽しさや喜び。みなさんはどんな曲をアレンジされますか? 

 アンリ・マティスも好きな画家のひとりです。「ブドワール(女性の私室)」「ソファーの女たちあるいは長椅子」、ヨーロッパの海辺に佇む家の一室でしょうか、穏やかさにほっとします。上品な淡いパステル調の色彩の組み合わせに魅了され続けています。 「線の単純化と色彩の純化によって作者の個性や感情が伝わる表現を追求した画家」(解説本より)、十二分にその想いが伝わってきます。
 瀟洒でトレンディな建物が並ぶお洒落な街、横浜。最寄り駅の桜木町から美術館までの10分ほどの道のり、胸をときめかせながら美術館へ向かい、夕暮れ時の退館後は満足感と幸福感で満たされた気持ちが街並みに暖かく包まれるのを感じました。
 年始を彩る素敵な一日でした。

 

 

 

ー 展示作品から ー

 

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第1回 (創刊号) 2020年2月

  

 

 

コートールド美術館展  魅惑の印象派

 

  昨年12/8(日)快晴、残り1週間となった上野東京都美術館《コートールド美術館展 魅惑の印象派》に行ってきました。ポスターに使用されているエドゥアール・マネ「フォリー=ベルジェールのバー」のお出迎えを受け、胸をときめかせながら入場しました。
 コートールド美術館、今回初めてこの美術館の存在を知りました。学生時代、数回のロンドンへの旅の時にひょっとしたら足を伸ばしていたのかもしれませんが記憶になし。美術館改修工事のために今般多くの名作が来日できることになったようです。

 美術館創設者サミュエル・コートールド(1876-1947)はイギリスの実業家でフランス近代絵画の魅力を母国に伝えたいと1920年代を中心に精力的に絵画を収集、ロンドン大学に美術研究所が創設されることが決まるとコレクションを寄贈しコートールド美術館誕生に至りました。
 上野の館内にはセザンヌ、ドガ、ゴーガン、マネ、ルノワール、ロートレック、モネ、モディリアーニと傑作が勢ぞろい、展示数も多く見応え十分でした。

 私の目を引いた作品のひとつはモネ「花瓶の花」(1881-1882)。華やかでみずみずしく、淡々しい桃色で統一されていて愛くるしい可憐な姿に引き寄せられました。水色のテーブルと藍色の花瓶との配色も絶妙、和室にも似合いそうな雰囲気ですね。場を引き立て和ませてくれることでしょう。
 マネ「フォリー=ベルジュールのバー」の前では、黒山の人だかりの中、時間を忘れて立ち尽くしていました。何かを語りかけてくるようなあるいは注文を待ち受けているかのような謎めいた表情の売り子、テーブルの上の琥珀色やロゼ色のアルコールが透けて見える魅惑的な数々の瓶、マネのサインが刻まれた左端のボトル、フルーツ皿に盛られたリアル感たっぷりのオレンジ、背後の観客の紳士淑女たちのざわめき…。この絵との対峙と会話が醸しだしてくれた異国情緒満載の世界はそれはそれは素敵なエキゾチックな空間でした。
 少女の両腕の長さがちぐはぐであったり鏡に映る少女の背中の位置が不正確であったりと、観る者の注意喚起と想像を呼び起こすアンバランスの構図はマネの遊び心でしょうか、この絵の楽しみのひとつにもなっています。左上の空中ブランコの両足にはドキリとさせられますね。
 “マネ最晩年の傑作”のタイトルにふさわしい、期待に応える一枚の絵でした。

 

 

ー 展示作品から ー


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