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 四季雑感(60)
 オムニバス ー クリスマス(私のスクラップ・ファイルより)
 四季雑感(59)
 
 四季雑感(58)
 携帯電話と電卓の数字配列はなぜ違うのだろうか
 四季雑感(57)
 75回目の敗戦の日がやってくる 改めて満州を思い出そう
 四季雑感(56)
 女を乗せた特攻機  敗戦4日後の満州における悲劇
 四季雑感(55)
 マスク亡国論 
 四季雑感(54)
 Stayhomeを聞いて思い出したこと
 四季雑感(53)
 今年は、”日本海海戦115周年” - 私の独自研究の秘話
 四季雑感(52)
 残り火がつきる前に・・・ 
 四季雑感(51)
 アバディーン・アンガス牛の話 
 四季雑感(50)
 特別号    
 四季雑感(49)
 世紀が変わって20年になろうというのに
 四季雑感(48)
 日本人があまり知らないペルーとのできごと
 四季雑感(47)
 なぜ新学年は4月にはじまるのか
 四季雑感(46)
 安いワインが増えているが、最高級ワインの条件とは
 四季雑感(45)
 八十路の頂点に立つ、先行きは霧の中
 四季雑感(44)
 平成も残り僅か、遠い想い出は尽きず
 四季雑感(43)
 異常気象は太陽に元気がないため  
 四季雑感(42)
 日本列島は毎日ゆれています
 四季雑感(41)
 いろいろ考えさせられたお正月
 四季雑感(40)
 今までしてこなかった、私の最高の自慢話 
 四季雑感(39)
 なぜ元号と西暦と、ごちゃまぜで使うのだろうか
 四季雑感(38)
 雪国の春を行く
 四季雑感(37)
 不安を抱えながら楽しみと暮らす  
 四季雑感(36)
 幻の大正道路の話
 四季雑感(35)
 最近 行った処 見たこと 感じたこと
 四季雑感(34)
 痛快な話     
 四季雑感(33)
 尾張の国で聞いた面白い話と、この頃の携帯電話会社のCMのこと
 四季雑感(32)
 蟷螂の斧じゃなければいいのだが  
 四季雑感(番外)
 東西南北から見たKDDビル・・・
 四季雑感(31)
 四季雑感(30)
 思っている人は沢山いると思うけど・・・
 四季雑感(29)
 またまた 太陽活動極少期現象(マウンダー現象)のこと
 四季雑感(28)
 ウィンドウズのOS入替大作戦”顛末記
 四季雑感(27)
 新春の舞台めぐり
 四季雑感(26)
 神宮外苑の銀杏(2007~2013)
 四季雑感(25)
 四季雑感(24)
 映画って本当に面白いものだ 
 四季雑感(23)
 KDD創立60周年  
 四季雑感(22)
 KDDが還暦を迎えた 
 四季雑感(21)
 コーノスールの国花を偲ぶ
 四季雑感(20)
 日本とペルーの過去のできごと
 四季雑感(番外)
 久家さんが逝った 
 四季雑感(19)
 とんでもない仮説 
 四季雑感(18)
 嫌な予感がする年 

以下の初期原稿は、前サイトの前の旧サイトで連載されたもので、「四季雑感(#)」の題をクリックすると、新しいウィンドウで直接ポップアップして記事が表示されます。( [X]をクリックするとポップアップウィンドウが閉じます。)

四季雑感(17)
ラテンアメリカの艶笑小話より
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四季雑感(16)
なぜチリは震災への復興意欲をなくしたのか
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四季雑感(15)
ペルーにまた日系人大統領が出現するかもしれない
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四季雑感(14)
 
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四季雑感(13)
 
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四季雑感(12)
チリの鉱山崩落事故にまつわる裏話し
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四季雑感(11)
口蹄疫の流行を憂う
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四季雑感(10)
地震のシリーズは終ったけどグルメにはちと心配な話
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四季雑感(9) 
ハイティ大地震を悼み、薄れ行く南米の影を追う  
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四季雑感(8) 
落葉たちのつぶやき 
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四季雑感(7) 
遥かなる国の遥かな気遣い
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四季雑感(6) 
地方税が年金から天引きされることをご存知だろうか 
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四季雑感(5) 
漸く合点できた話し  
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四季雑感(4) 
 
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四季雑感(3) 
 
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四季雑感(2) 
 
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四季雑感(1) 
 
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四 季 雑 感(60)
(オムニバス)

樫村 慶一

★クリスマス (私のスクラップ・ファイルより)

 『クリスマスだとばかり浮かれ騒ぐ人々の中に、果たして幾パーセントが真にキリスト教に帰依してゐるのであらうか。それは多分微々たるものであらうと思う。我々とても、キリスト教徒がキリストの降誕を心から祝福することに対し、決して咎め立てしようとするものではない。問題は、ほとんど何らキリスト教を信ずることなくして、しかも或いは酒食に耽(ふけ)り、或いは夜通しダンスに興ずる等、種々の享楽に耽らんがための口実として、神聖なるべきクリスマスを悪用する徒輩、及びデコレーションに粋をこらして軽薄な客を誘惑しようとする享楽施設の存在にある。
 当局においても、現下の時局に鑑み、種々の制限は加えられつつあるに相違ない。然し我々の言わんとすることろは、更に一歩を進めて、単に消費節約の見地のみならず、従来の世人のクリスマス観を一新せんことにある。何等信仰を持たぬ人々に、享楽の口実とさせられてゐるキリストは、果たして天国において、喜んでゐるであらうか。(蛙の声より)』。

昭和14年(1939)12月24日 朝日新聞への投書、原文のまま

私が9歳(小3)頃の世相をほんのり思い出した。昼間は三角ベース野球や水雷艦長、時々、夜の提灯行列にはしゃぎまわっていた。子供の世界はまだ十分に平和だっと思います。
 

★コーヒーを飲みながら、たまーに思いだすこと

 日本人に、コーヒーのアメリカンなんて変な飲み方? がいつ頃から定着したのかをご存じの方はいらっしゃるだろうか。私は戦争に負けた頃の記憶は大体覚えているが、その後の戦後の部分は消えている時期がかなりある。なにせ75年も前(15歳)のことだから。マッカーサーが厚木に着陸して、トウモロコシの軸で作ったパイプ(コーンパイプと言っていた)をくゆらしながら、爆撃機のタラップを降りてくる様子は映画館のニュース(テレビなんてない)で何回も見た。その後続々と進駐してきたアメリカ兵の下っ端は、貧乏人の子弟や黒人が多かったようである。
 『彼らにとってコーヒーは贅沢品なので、増量して薄くした。事実アメリカではコーヒーは穫れない。ましてや砂糖も贅沢には入れられない。そのケチな飲み方が日本人に伝わり、後に言われる、いわゆる 「アメリカン・コーヒー」なるものができ、民主主義を覚えてアメリカ・ナイズされた日本に定着した』という話を以前どこかで聞いた。そのずっと後、コーヒー生産国の近くの国に住むようになって、本当のコーヒーの飲み方なるものを教えられた。
 スタンドへ行ってコーヒーを注文すると、「カフェ・チーコ」と言って普通のカップの半分位の量が入る円筒形の白いカップがでてくる。見ると底に砂糖が入っている。そう,、5ミリか1センチ近くは入っていただろうか。そこへ真っ黒なコーヒーを注ぐ。スプーンでかき回して飲むのだが、結構甘い。アメリカン・コーヒーの砂糖抜きとは全く違う。これが本当のコーヒーの飲み方だと言われたものです。(本当に本当の飲み方なのかの検証はしていない)。日本の世の中が変わったのであろうし、変えたのは、昔の、なんでもアメリカさんに靡いた軽薄な日本人の習慣の残滓なんだろう、と、時々思い出している。私は砂糖抜きのコーヒーなんて飲んだことはありません。
 (この話は事実ですが、真実ではないかもしれない。もし、アメリカンコーヒーの由来をご存じの方がいたら是非教えて下頂きたい。)


★人それぞれ・・・

 西暦にゼロ年がないので、それが押せ押せになってきて、20世紀も2000年12月31日までかかってしまった。21世紀は2001年1月1日からだ。私は今90歳と10か月だが、まだ80歳代である。4月1日生まれなので、今年の3月31日で80歳代が終わる。ひと様は長生きだと言ってくれるが、それを特に意識したことはない。自分では、ものの考え方は30歳代40際代と同じつもりであるが、子供達から見るとやっぱり、強情張りになっているようである。
 長生きしてきたら良い事が沢山あったろう、などと聞かれることがあるけど、それはどうだろうか。人にはそれぞれの人生があり、人それぞれが、それぞれの思い出を持ち、それぞれの思い出をどう評価するかであろうけど、思い出とは良いことばかりではないと思う。そんななかで、ここ2,3年のことだが、長生きしてきたお陰で、昔の懐かしい映画や懐メロが、簡単に見られたり聞けたりするようになり、いい時代になってよかったなあと思う時がある。嫌なこと悪い事ばっかりの世の中で、私にとって、ほんのささやかな”良いこと”である。
 私の懐メロというのは、昭和4年(1929)の「東京行進曲」から、32年(1957)の「有楽町で逢いましょう」までの間の歌で、その後は散発的に、いいなと思う歌がある程度である。今の5人や6人が飛んだり跳ねたりして、カタカナ交じりで字余りの文学的価値のない歌詞を、ただ怒鳴るように歌うのは、どうしても受け入れることができない。あれは歌なんだろうかと思う。そんな今の時代に、私的基準の”いい時代”の映画や懐メロが見たり、聞いたりできるとは、率直にいい時代だと思う。これこそ長生きしたお陰だと喜んでいる。
 昭和の終わり頃(1988~9)、ノストラダムスの予言で、1999年7月に人類が滅亡すると言う話が評判になり、五島勉の本が随分売れた。21世紀とか2000年なんて、遥か遠い先の夢の時代だと思っていたけど、もう21年目になってしまった。でも私にとっては、先行きの希望は精々1,2年単位でした望めない。ひょっとしたら目の黒い内には、緊張のない世界(東西冷戦が終わって10年位の間)や、格差のない日本社会は見られないと思う。男の健康寿命(介護や杖などなしで自由に動き回われる状態のこと)は71歳である。そのせいかどうか、最近はどこへ行っても私より年上の人間がいない。ただの平均寿命は80歳とかいわれるけど、年だけ取っても外出が難しいということであろう。ある意味で、怖いものがなくなってきた。時として傲慢になったり、上目線になったり、というようなことがないように、外へ出る時は十分心していかなくてはならないと自戒している。
(写真は懐かし映画のDVD)

おわり(2020.12.1 記)


長い間ご愛読頂いてきました「四季雑感」は60号の区切りのよい号をもってしばらく休刊とさせて頂きます。新年からは、月刊にて「ラテン・アメリカ民芸品の旅」と称する、ラテンアメリカ諸国の旅物語を連載いたします。政治や経済とはかけ離れた、地球の裏側の国々の旅情、民芸品、風情、過去のできごと、観光ポイント、日本との繋がりなどをご紹介します。どうぞご期待下さい。  

樫村 慶一  


スマホでご覧の場合は、画面をタップしてお読みください。

 

 
四 季 雑 感(58) 
 
携帯電話と 電卓の数字配列は なぜ違うのだろうか
 
樫村 慶一

 
 2020年と言う年は、今の時点でもそう思うけど、この先、何十年、何百年か経ったときの歴史でも、きっと、地球上の生活様式に大変革が起きた年と言われるに違いない、と思うほど、今年のCovidは世界中の人間の生活を変えた。恐らく自然界の動物や植物の世界・生態も人間生活の変化にひきずられて、変わっているのではないかと思う。そんなことが起きていたって、別にいいじゃないかと人は思われるだろう。その通りであって、自分の生活や周囲に支障がなければ、人間は何事も問題にしない。それは些細なことから大きな政治問題まで色々ある。そんなことの一つに、これから書こうとしている、電話のダイヤルボタンと携帯電話のダイヤルの配列の違いがある。問題にするほどのことではないが。
 私は、毎日使う携帯やプッシュフォン式固定電話と、時々使う電卓の数字の配列が違うのはなぜだろう、どうして統一しないのだろう、と時たま思う。数字の配列といえば、銀行のATMもちょっと違うような気がしていたら、これはネットに答がでていた。ATMの配列は銀行によって、また同じ銀行でも支店によって違うとか、それも、時々並べ替えるとか、ちょっと信じられないようなことが書いてあった。理由は、暗証番号が傍(はた)からみられて指の動きで悟られないようにするためだとか。ずいぶん細かいところまで、気を遣うもんだと感心した。
 さて、本題の電話と電卓の違いだが、電卓そのものは最近は携帯電話の機能の一部にもあるので、そっちを使うことが多いと思うけど、携帯電話の中の電卓機能の配列もちゃんと電卓配列で、電話配列とは逆になっている。面白い現象だ。その違いについての答えを、50年以上前から続けている新聞記事のスクラップ・ファイルの中から偶然見つけた。以下に、2007年8月20日の朝日新聞「生活欄」に出ていた記事を拝借する。
 電卓の配列はISO基準で、電話は我々(KDDマンにとっては)に馴染みの深いITUで決められている。外国では1914年に米国で作られた足し算、引き算しかできない「加算器」というのがあった。国産ではカシオが1957年に発売した電卓のルーツに当たる「電気式リレー計算機」が最初である。下から0,1,2・・と並んでいる。大きさは事務机と同じくらいの大きさで、数字ボタンは大人の親指位あった。60年代になって小さくなり机の上に置いて使えるようになり、「電子式卓上計算機」略して電卓になった。数字配列は下から 0、1,2,3が定着していた。
 一方プッシュホン型の電話機は1960年頃に米国で実用化され、日本国内では1969年頃から利用されるようになった。上から 0,1,2と並ぶようになった経緯はNTTでも古い事で資料がないから分からない、と書いてあるが、餅は餅屋で国際先達のKDDなんだからITUに直接聞くとか、今でもITUと関わりのあるOBに聞けばわかるかもしれない。
 どちらの配列が本当は使い易いのかということになると、電卓として計算に使う場合は、よく使う0や1が手前にある配置は人間工学的に正しいと言われる。しかし、電話式も合理的だと言う。縦横に並んだものを見る時、人間の視線は自然と左から右へ、上から下へとZを書くように動くので、左上から1,2、と始まる配列が探しやすい。電卓と電話は使い方が違うので、どっちがいいとは決められないと専門家は言う。どちらかに統一できないかと言う論争は過去に一度あった。1969年に、電電公社が数字の配列が違うのはおかしいと問題提起をした。先発の電卓メーカー側は電話の配列こそ再検討すべきだと、通商産業省へ申し入れた、しかし、双方とも「すでに国際規格できまったこと」として譲らなかったと言う。電電公社の技術者の中には電話の方を見直すべきと言う意見もあったが、大勢は「将来は計算機よりプッシュフォン電話の数が圧倒的に多くなるだろう」と言う意見が多かったからだとも言われている。確かにその通りになった。
 どちらも慣れの問題だと思うけど、旧KDDも先見の明を持って、もっと早くから携帯電話事業に介入していれば(いろいろ複雑な事情があったことは知っているが)、今のKDDIも違った形になっていたかもしれない、など過ぎ去りし愚問を問うてみた。 
終わり  

                             (2020.10.5)
 

 



 
四 季 雑 感(57) 
 
75回目の敗戦の日 がやってくる  改めて満州を思い出そう
 
樫村 慶一

 
 また夏がきて8月15日がやってくる。この日を日本人は終戦記念日と言うけど、敗戦記念日とは言わないのはどうしてだろうか。やっぱり、敗戦では記念日とは言い難いからだろう。とは言っても、敗戦は敗戦だ、終戦なんて体裁いいこと言ったって、あのコテンパンな負けざまを見ている人間には、むしろ終戦という方がおこがましく感じる。国土も家も家族関係もなにもかもが、徹底的にやられたあの日、15歳はもう大人だった、大体のことは知っている。終戦なんてよくも体裁ぶったことが言えたものだと今でも思う。
 敗戦に納得できない内地の兵隊は大勢いたようだが、私がハッキリ覚えていることに、丸焼けになったホームには、ほとんど何もない千葉駅から出たSLに引かれた木造のぼろぼろ列車の屋根すれすれまで降りてきた、木更津海軍航空隊の生き残りゼロ戦が、戦争継続を訴えたビラを撒いて行った光景がある。
 
 昭和20年8月ごろに10歳位(国民学校3,4年位)じゃないと満州と言う国があったことは知らないと思う。おそらく疎開先の学校で優先して教えこまれたんではないだろうか。私は、もうすでに旧制の中学生だったし、疎開はまったく知らない。
 
  戦争を始める前の日本は大国だった。北は北緯50度の樺太南半分から大陸では黒竜江を隔ててソビエトと接する所まで、ここは樺太全島よりも北になる。西は大興安嶺の向こうの蒙古(モンゴル)国境から台湾まで、南は国連委任統治地域のサイパン、テニアン、ヤップなどの南洋諸島まで、そして東は海のかなたまで、膨大な領土領海を持った国だった。満州も樺太も朝鮮半島も台湾もサイパンも、皆パスポートなんかいらない国内旅行で行けた。
 
 我々のような過去の大日本帝国の栄光を懐かしんでいる人間にとっては、日清、日ロの二度の戦争で、何十万人もの尊い戦死者の血で贖った貴重な国土を、いとも簡単に失った軍国主義の信奉者達は、恨んでも恨んでも恨みきれない、憎んでも憎みきれない怨念の塊である。特に関東軍の参謀どもの無謀で傲慢な作戦が、のちの太平洋戦争につながったのだから、いくら憎んでもなんとも言いようのない憤りを感じる。
 
 敗戦の時15歳だった私は、もう大人の感情を持っていたし、戦前の思い出の中には行った場所とか流行した歌とか、食べ物とか、四季の風物とか、私が思うところの、戦争が激化するまでの昭和で一番良き時代(昭和10年頃~16年頃まで)の思い出が、まだ頭のどこかに刻みこまれている。だから、懐メロにしても、映画にしても、今から見るとかなり幼稚で単純な筋書の小説や漫画が、齢いを重ねてくると、やたらに懐かしい。
 懐メロには満州や中国を歌った歌が沢山ある。そしてタイトルや歌詞に出てくる形容詞も今じゃあんまり使われなくいなった、しかし古き良き時代の日本人の心を打つ、響きの良い文句がふんだんに窺がえる。
 満州や、当時は支那と言った中国を歌った歌とは、「さらば上海、幌馬車の唄、急げ幌馬車、さすらいの唄、国境を越えて、雪の国境、夕日は落ちて、馬賊の歌、恋の幌馬車、上海夜曲、国境の子守歌、上海だより、密使の幌馬車、上海の街角で、上海夜曲、白蘭の歌、タンゴ上海、熱砂の誓い、崑崙こえて、夜霧の馬車、凍る歩哨線」、などなど、どれをとっても、年寄には涙が出るほどに身に響く。
 ご一緒に満州を思い出してみよう。私は2004年に北京、上海、徐州、杭州、天津などへ、2005年に大連、旅順、瀋陽(昔の奉天)、203高地、水師営などへ行った。今年は203高地の激戦から115年目になる。遺構はまだ十分に当時の激戦の模様を偲ぶことができる。
 
1.満州国とは
 満州国が存在したのは、第一次世界大戦が終わって世界が大恐慌に襲われた1932年(昭和7年)3月から1945年8月までの僅か13年と5か月間だけだった。そのころ満州と呼ばれた中国の東北部では、日本の持つ満州権益(満鉄の経営権と関東州の租借権など)が張学良政権に脅かされていた。このため、日露戦争で10万人もの戦死者を出して守った場所だとの思いが強かった日本は、満鉄警備のために駐屯していた関東軍をもって、張学良を駆逐し不況から脱出を図ろうと、1931年9月18日の柳条湖付近における満鉄爆破事件を起こした。これを中国側から仕掛けられたことにして満州事件を起こして張学良政権を倒し、関東軍参謀達を中心としたの日本軍人勢力によって建国された国である。まさに日本の傀儡国家である。然し当時の国際連盟は満州国を独立国とは認めなかった。国民は日本人、漢族、満州族、朝鮮族、 モンゴル族などが住む多民族国家であり、これを五族共和と言った。総人口は約4300万人、そのうち日本人は僅か100万人にすぎなかった。 結局「満州国」とは軍国主義が生み出した不祥な国だったのだ。
(注)不祥=よくない、不吉、(不祥事)。   
 
2.満鉄(南満州鉄道株式会社)とは
 日露戦争で日本が獲得した遼東半島の鉄道と沿線の付属地域を経営する国策会社として1906年に設立された。撫順炭鉱や鞍山製鉄所、大連港などの経営や、学校教育、調査研究なども行う巨大組織で、関東軍に協力して満州国を支えた。1937年に満州工業開発(満業)が設立され、参加企業の多くがそちら移管された後は鉄道事業に特化された。
 
3.関東軍とは
 万里の長城の東端にあった山海関東を「関東」と呼んでいた。日本が日露戦争で獲得した遼東半島の権益や鉄道、沿線の土地を守るために兵力を常駐させたのが始まりで、1919年に正式発足した。ソ連に対する守りを最大の任務としていたが、しばしば大本営首脳に背いて独走し満州事変も政府の不拡大方針を無視して軍事行動を拡大した。時には天皇をも出し抜いたこともあった。マスコミの好戦的報道によって、国民は関東軍を熱狂的に支持していた。一番悪い奴らは 石原莞爾 荒木銑十郎などの佐官級の参謀達である。しかし、太平洋戦争がはじまると精鋭部隊が南方へ送られ弱体化したが、ソ連は対ドイツ戦に苦戦していたので当分の間日ソ戦は起きないと考え、敗戦まじかまで天下泰平を決め込んでいた。しかし1945年8月にソ連軍が侵攻するとすぐに壊滅状態になり、邦人の保護どころか、殆ど抵抗せずに逃げ出してしまった。実に罪深き軍隊である。
 
4.満蒙開拓団とは
 日本と満州国の関係を強化するには、日本人が数多く移住し、現地で指導的な役割を果たすことが必要と考えられた一方、当時の日本国内には人口に対して農地が絶対的に不足しており、貧しい農村を救うには過剰な人口を海外へ送り出すことが必要だと考えられるようになった。そこで、満州への大量移民が国策とされ、政府やマスコミが熱心な宣伝で勧誘した。開拓民が入植した土地は当初は関東軍が、後には満州開拓公社が先住民から強制的に奪ったり、安く買い上げた農耕地であった。開拓民は主として今までほとんど日本人が行かなかった北部の奥地に住みついた。開拓民には次の3つの類型があった。
 
 ①試験移民
 日本に反抗する勢力が出没する地域の治安維持を兼ねて在郷軍人から募集した。しかし、治安の悪さや貧しい食事、ホームシックなどで1/4が退団したり戦病死した。 
 
②一般開拓民
 1936年に政府が決定した「20年で100万戸500万人」という大量農業移民計画に基づき、家族ぐるみで数十から数百戸がまとまって入植した。貧しかった村や里から分かれて移住する分村・分郷が主流を占めた。この人達が敗戦後悲劇に会うことになる。
 2019年から2020年3月末まで、テレビ朝日で倉本聰原作のドラマ「やすらぎの刻~道」が放映されたが、その中に山梨県の農家が満州へ集団移住するシーンが何回も出てきた。終戦時10歳の倉本聰には、満州国も開拓団もよくわかっていたのだと思う。 (日本軍の砲弾を受けた203高地のソ連軍陣地)
 
③満蒙開拓青少年義勇軍
 1938年開始、16~19歳の男子が茨城県内原の訓練所で教育され満州に渡り、現地の訓練所で義勇隊を編成し、3年の実地訓練を積んだ後、開拓戦士となって国防も兼ね多くが国境近く入植した。農家の次男三男が多く、彼らに対する花嫁候補が送り込まれ、大陸の花嫁ともてはやされた。
 
5.ソ連軍侵攻の悲劇
 太平洋戦争末期に弱体化していた関東軍は、満州国にいる日本人男子約15万人に招集をかけ、根こそぎ動員した。女子供、老人だけになっていたところに突然ソ連軍が侵攻してきた。命がけの逃避行が始まり、そこへそれまで抑圧されていた漢人たちの怒りも爆発し、残されていた日本人婦女子は略奪、暴行、強姦などの悲劇の的になり、絶望のあまり集団自決する部落も頻発した。また、栄養不良や病気になって冬の極寒の下で次々と命を落とした。特にソ連軍戦車に生きたまま蹂躙された「葛根廟事件」は特筆される悲劇である。(四季雑感(56)女を乗せた特攻機参照)。
 敗戦の翌年から引揚げが始まり、軍民合わせて約127万余 (1931.9.18柳条湖付近の爆発事件の碑) りが帰国したが、生きるために現地人に預けられたり、妻と なっていた子供や女性は中国残留孤児・残留婦人となった。ソ連軍にシベリヤへ抑留された人は約57万5000人、うち死者は約5万5000人と言われている。慟哭! 
 
おわり  (2020.8.1記、敗戦75回忌に寄せて)
 
参考資料 「2005年8月25日 東京新聞サンデー版」、写真作者提供。
 

 



 
四 季 雑 感(56) 
 
女を乗せた特攻機  敗戦4日後の満州における悲劇
 
樫村 慶一

 
 この話を読んで、なんと言ってよいのやら、当時の緊張した時代を少しだけしか知らない私には、”えーー 本当かよ”と、しばし茫然となった。戦時中の軍歌には替え歌がいくつかあるが、その中でよくでてくる歌詞で 「女を乗せない・・・」と言うのがあり適宜歌詞を挿入するのだが、まさにその真逆をいったのだ。
始めて知った。

 最近読んだ本で「関東軍 神州不滅特攻隊」の若い将校が2人、それぞれの飛行機に女を乗せてソ連軍戦車に突っ込んだという衝撃的記事を読んだ。昭和20年8月⒚日、敗戦から4日後のことで、ソ連軍へ降伏するため南満州の大虎山航空隊から11機の残存飛行機(97式戦闘機を改造した練習機)を錦州飛行場へ移送し、ソ連軍へ引き渡す命令を受けた若い少尉達が、命令に反して特攻を敢行し、そのうちの1機は新婚の妻を、もう1機は恋人を載せてソ連軍戦車に突っ込んだ、という話である。

 21歳から26歳までの若い将校をここまで駆り立てたのは、8月14日に同飛行場を飛び立った偵察機の乗員が、ソ連軍戦車隊による日本人に対するすさまじい蛮行を目撃したからである。「葛根廟事件」と言われるこの虐殺事件は、日本人移住者の婦女子約2500人が集団で避難しているのを丘の上から発見したソ連戦車隊が、ウサギを追うように戦車で次々とキャタピラーに巻き込み草原に無残な光景を描きだしていた。これを上空から目撃した乗員が基地に帰り報告した。この乗員は数少ない加藤隼戦闘隊の生き残りで操縦技量、偵察能力にすぐれたパイロットだ。⒚日の特攻隊の実質的指揮官である。基地のある大虎山付近にはより多くの日本人居留民がいるので、このままでは大変なことになると思い、ソ連軍に敢然と立ち向かう決断を下したのだ。
 そのための機会は集団でまとまった飛行をする19日しかないと考えた。昭和20年8月19日夕刻、大虎山飛行場には最後の飛行を見送ろうと大勢の日本人が集まっていた、その中に日傘を差した二人の白いワンピースを着た女性が飛行機のそばに立っていた。だれもがただの見送りと気にしなかった。軍用機ましてや特攻機に女を乗せるなんて最高の軍規違反である、が、すでに戦争は負けたのだ。男と女のどちらから言い出したのかは分かるよしもないが、新婚の夫も、将来の夫かもしれない少尉も断り切れなかったのだろう。将校の妻には帰還列車に優先乗車の権利があったのを放棄したのだ。計画を知った基地司令官が、「ソ連軍に突っ込むなんて重大命令違反だ、貴様ら11機が体当たりしても露助はビクともせん、無駄死だ」と声を荒げた。これに対し11人は「無駄だと言う理由で特攻を止めるなら、今まで散った仲間に合わせる顔がないじゃないか」と答え、葛根廟の悲劇を知っている皆は、「この体当たりでたとえ少しの時間でもソ連軍の南下を食い止めて、少しでも多くの帰還者が無事に南へ逃げられるよううにできれば本望だ」と答えた。
 11人は白い鉢巻をしめ、エンジンを始動させたその時、先ほどの二人の女性が、喧噪の隙をつき日傘を捨ててさっと搭乗した。それを目撃した人々が「女が乗ったぞー」と口々に叫んだが、その声はプロペラの音と小旗を振る群衆の歓声にかき消された。二人の女性は搭乗機の中で身を屈め群衆から見えなくなった。しかし後年、生き残りのH少尉が書いた手記「学鷲の記録、積乱雲」によると、どちらかの女性の黒髪がなびいていた、と書かれている。離陸後、飛行方角が違うのに不審を持った残留飛行兵が行き先を悟り、跡を追おうとしたが、もう大虎山飛行隊には飛べる飛行機は1機もなかった。11機が到着するのを今か今かと待っていた錦州飛行場では、ソ連軍に突入するとの連絡を受け、びっくりして隊長みずから飛行機で大虎山にやってきた。事情を確認して直ちに北方の空へ飛んで行ったが、ついに、11 機の攻撃の痕跡は発見できなかったという。

 敗戦後、女を乗せた特攻機ということで、元軍幹部たちは彼らを切り捨ててきたが、紆余曲折を経て敗戦から12年目の1957年(昭和32年)に靖国神社に合祀された。さらに1967年(昭和42年)5月になり通称世田谷観音に「神州不滅特別攻撃隊」の碑が建てられた。しかし、新妻の死については、ずっと生死不明のままだったので葬式できないでいたが、色々な人たちの証言や協力により、1970年(昭和45年)になってようやく夫と同じ日付けの死亡告知書が県から届けられた。そして敗戦後25年もたって晴れて妻として同じ墓地に収まることができた。一方、恋人同士の結末は何も知らされていない。故郷に正式な婚約者がいたので遺族が話したがらなかったためであった。 
 この話は、単なる昭和の秘史とか夫婦愛の美談とかではなく、戦争が生んだ残酷な悲劇的な運命の物語といえよう。しかし、女を乗せない特攻機に、女性が乗っていたなんて、確かに悲劇ではあるが、カーキ色一色の世界に紅の雫を2滴も垂らし、前人未踏の艶模様を作ったことは、大和撫子の愛の強さを改めて知らしめ、軍神もやはり人間であったということの証であろう。
おわり
 (2020.7.1 記)

 <参考:角川文庫 豊田正義著 妻と飛んだ特攻兵より>
 

 



 
四 季 雑 感(55)  
樫村 慶一
  
マスク亡国論     

 

 マスクなしでは、外を大手を振ってを歩けないご時世になった。世の中は日進月歩というけど、マスクの値打ちが日進月歩したわけではないが、今から82年前(1938年昭和13年、盧溝橋事件が始まった年の翌年)の日本は、どうやらマスクをかけるのが常識であったらしい。スペイン風邪はとっくに収まっていた時代なので、この年が特にマスクをかけるのが奨励された理由は分からない。1938年12月27日の朝日新聞の投書にこんなものがあった。(私の新聞記事コレクションより)。不謹慎のそしりを受けるかもしれないが、興味があるので紹介する。

 『冬になるとマスクをかけるのがどうやら常識となったらしい、病人や老人はかりではなく、血気盛んな青少年までも皆こぞって異様な鼻かくしを耳から吊って得々してゐる。色彩からいっても、黒、白、赤、形からいっても大きな絆創膏を張ったやうなものや、鴉のくちばしをはったやうなものや、二枚貝に口をはさまれたやうなものや、実に多種多様である。

 失礼ながらマスクをかけなければ感冒が予防できないと思う人は、ふだんとかく口の締りの悪い人ではないか。鼻や口に蓋をするよりは空気をきれいにし、身体を丈夫にしようじゃありませんか。襟巻に首をうづめ、この時節に親の仕送りで皮手袋などをはめ、口にはちょこなんとくちばしをつけてゐる、 醜悪極まる青年を興亜の大業を担って立つ日本から追放しようではないか。』1938(昭和13年)12月27日(粗面生より)

(2020.6.20)

 



 
四 季 雑 感(54)  
樫村 慶一
  
Stayhome を聞いて 思い出したこと

 

 緊急事態は解除になったけど、Covid-19のパンデミックが起きて以来、表題の言葉をよく耳に目にする。そして、スペイン語圏の友人(30年以上前の古い話なのでペルー人だったかアルゼンチン人だったか定かではない)がかって、英語は言語学的にはスペイン語より800年遅れている、と言っていたことを思いだした。どうゆうことか聞いて、いろいろ理由があったよう思ったが、その中で覚えていることを思い出してみると、800年遅れはともかく、たしかに、なるほどと思うことがいくつかある。

 Stayhome(米国の言い方、英国系はstayathomeが多い)と言う言葉は、上から下まですべての階級の人に等しく語りかける、二人称の一つだけのパターンだと思う。ところがスペイン語には相手との関係により二つの言い方がある。こうゆうことも、友人の言ったことの理由の一つだったように思う。どうゆうことか並べてみよう。

① 英語は発音が曖昧で聞いたことを記述するのが難しい。例えば語尾が、アー という場合、英語では ar er or ir など、同じ発音でもいろいろな書き方があり、初心者や英語圏ではない人には分かりにくい。かって大流行したインフルエンザの SARS と MERS も、サーズ、マーズでどちらも アーと発音する。スペイン語ならサールス、メールスになる。この曖昧さが発展途上だという一つの理由だ。  スペイン語では、聞いた通りに書けばほぼ正解である。ローマ字で書くのと良く似ている。母音には発音が一つしかないし、最後の子音のrを発音するので、アールはar (trabajar=トラバハール、働く)、エールはer(comer=コメール、食べる)、イールはir(vivir=ビビール、生きる)、と言うように明快だ。
 ただ、発音は同じなのに文字が違うのが幾つかあり、慣れるまでは少し戸惑う。例えば、サ行の子音はs とz の区別がつかない(スペイン語圏の人間でも間違うことがある)。ハ行はややこしい、ハ=faとja、ヒ=fiとgi、フ=fuとju、ヘ=feとge、ホ=foとjo。ラ行ではrと l が日本人には聞き分け難い。
  ジャジュジョはyとllが使われる。例えばyacer=ジャセール、横たわる、yudo=柔道、yo =ジョ、私、と llamar=ジャマール、呼ぶ、lluvia=ジュビア、雨、llorar=ジョラール、泣く、の両方があるなど、始めは戸惑う。なおllは少数派だがリャと言う人もいる。話はちょっとそれるが、スペイン料理の海鮮炊き込みご飯をパエリアと言うのは間違いで、”paella=パエージャ”が正解である。磁器のリヤドロもジャドロが正しい。

② 人称は英語もスペイン語も1人称、2人称、3人称とあるのは同じだけど、スペイン語には直接の相手、つまり2人称には相手によって3人称を使うことも多い。どうゆうことかと言うと、2人称は、君とかお前とか、親しい友人とか、家族親戚間とか、自分と同列か目下の人に対して使う。それに対して、初対面の人とか、”あなた”と呼ぶような関係、先輩、上司、或いは社会的地位のある人など、要するに、君とかお前とか言うのは失礼である相手には三人称を使う。こうした相手には直接呼びかける形ではなく、何らかの社会的地位の象徴である肩書に対して、話しかける形を作る。つまり、相手の名誉や肩書は人ではないので3人称になる、そのため相手を呼ぶのに3人称という変則な形になるのだ。英語だと、大臣に対しても乞食に対しても、二人称はyouで通用するのだろう。偉い人にはそれなりの肩書をつけるだろうけど。この辺も言葉の進歩という点でスペイン語が勝っているように思う。それとも単なる権威主義の名残というべきなのか、私には分からない。

③ 敬語表現が多い。歴史を見ればお分かりの通り、ラテン語(注)が発展してきたイタリアを始めイベリヤ半島やヨーロッパ本土には、かっては王制国家が多く権威主義が国の体制の主流だったことから、格式ばった体裁ぶった見栄を張る社会習慣が強かった。だから、前記のように、相手に対して、相手個人に直接話しかけるのではなく、相手の肩、胸に飾られた”名誉を通して申し上げます”、というような形になった。そこで、名誉や飾りは第三者であり、三人称ということになる。ややこしことである。その結果 stayhomeの場合も、スペイン語では「家にとどまっていろ」と言う言い方と、「どうか、家にお留まり下さい」の二つの言い方ある。スペイン語でstay と同じ意味の”とどまる”という自動詞はquedar という。動詞の変化は100以上あるが、この動詞の命令形として、お前、君に対して”とどまれ”は quedate (ケーダテ)となり、”お留まり下さい”では quedese (ケーデセ)と変わる。上から下まで stay 一つしかない英語より、相手によって言い方が二つあるスペイン語の方が、やっぱり進歩しているように感じる。丁寧な言い方には、英語の please に相当する言葉は当然あるし、名詞と形容詞やをつけた補足語で”どうか”とか”すいまませんが”という意味にしたり、動詞の変化を変えたり、まったく違う構文にしたりして、他にも言い方があるし、多彩な表現もできる。

(注)ラテン語:ローマのごく小さな地域ラティームで使われていた言葉で、ローマ帝国の公用語になり発達した。 
 後裔の現在の俗ラテン語とは、スペイン語、ポルトガル語、イタリヤ語、フランス語、ルーマニア語を言う。  

④ 感情を込める言い方が日本語と同じようにできる。たとえば、”なにかが出来るか”という質問をする場合、・・・ができるか? と単刀直入に聞く場合と、・・・できますでしょうか?↑と、語尾を少し上げ態度を少し引いて丁寧に聞く聞き方がある。この例の場合の動詞は ”出来るpoder”という動詞だが、君とかお前の間柄で聞く場合は直接法の二人称 ¿puedes?(できるか?)、貴方などの場合は三人称 ¿puede?(できますか?)になる。さらに丁寧に聞く場合は可能法と言う変化があり podría (できますでしょうか?↑)となる。 特に可能法は実際に会話で使うと感情がよく表れる。英語だとどうなんだろう、こういった微妙な言い方があるんだろうか。テレビなどで日本語に翻訳する場合は、言っている相手によって翻訳者が若者言葉から上品な言葉にまで、言い換えているんだと思う。

 40年近い昔に聞いたことを思い出してみたけど、800年進歩しようが遅れようが関わりないが、自分自身のスペイン語の知識が急激に脳細胞から消えていくのが、たまらなく寂しい。世のかな嫌なことがいっぱいあって、卒寿なんて目出度くもなんともないことがようく分かったきた昨今である。

(2020.5.28)

(ここに書いたことは、私の忘れかけたスペイン語と未熟な英語の知識だけでまとめたものです。間違っている個所があるかもしれません。お気ずきの場合は、どうぞ、下記までご連絡ご指導ください。よろしくお願い申し上げます。) 
k.kashimura@ac.cyberhome.ne.jp
 

 

 



 
四 季 雑 感(53)  
樫村 慶一
  
今年は、 ”日本海海戦115周年”  ー 私の独自研究の秘話

 

 

 私は年紀に割合こだわる人間である。今年は何があった年だったかな、と考えることがよくある。アルゼンチンの不世出の国民的大歌手カルロス・ガルデルがコロンビアで飛行機事故で死んでから今年は85周年になるし、敗戦から75周年だし、日露戦争が終わった明治38年(1905年)から数えて115年目でもある。まもなく5月27日の今はなき「海軍記念日」がやってくる。

 明治38年の5月27,28日、日本海海戦で大勝利をおさめて日露戦争は終り、日本はロシヤから樺太の北緯50度以南の領土、旅順と大連の租借権、それに旅順~奉天(瀋陽)の鉄道経営権を獲得した。その後この権益を基に1932年に満州国を建国した。日本の3倍もある広大な国だ。そのためには多くの犠牲者も出た。中でも旅順の203高地の戦いでは10万人以上の戦死者を出した。それほどまでにして手に入れた貴重な領土を、理由は色々(注)あったのだろうが、大馬鹿としか言いようのない軍部は、太平洋戦争などという愚かは戦争を起こし、いともあっさりと貴重な国土を失ってしまった。あのままだったら満州だけでなく、朝鮮半島、台湾、国連委任統治地のグアム、サイパンなどの膨大な地域が、パスポートなしの国内旅行で行けたのに。生まれた時から無かった戦後人間には、ただの歴史の一齣にすぎないのだろうが、なまじっかよく知っている戦前派年寄りには残念で残念でたまらないことである。
 (注)北からロシアの南下、米国のフィリピンを経由した圧迫、フランスの印度支那への干渉、
英国のインド、ビルマ、マレーシアへの進出、オランダのインドネシアへの侵略など、日本
を囲む周囲の圧力のこと。

 話がそれてしまった。ここでのお話はそんな死んだ子の年を数えるような愚痴話ではなく、私が地球の裏側で偶然に出会った1台のピアノにまつわる、日本海海戦の猛火の下、岩陰に根ずく小さな珊瑚のような愛すべき秘話である。
 東郷元帥が率いる連合艦隊の主力第一艦隊は、4隻の戦艦と2隻の重巡洋艦から編成されていた。この2隻の重巡はアルゼンチン海軍がイタリアの造船所に発注していた軍艦で、それを日本が懇願して153万ポンド(当時の邦貨で1500万円 注)で譲渡してもらったものである。明治38年2月に横須賀に着いた2隻は、モレーノが日清、リバダビアが春日と命名された。

 (注)当時、アルゼンチン、チリ、英国の間に複雑な関係があり、アルゼンチンも発注した軍艦を売らなければならない事情があった。

 5月27,28日の海戦の模様は、観戦武官として日清に乗艦したアルゼンチン海軍のドメック・ガルシア海軍大佐の観戦記をはじめ、司馬遼太郎の「坂の上の雲」とか岡本好古著「日本海海戦」などいくつかの記録本、文献が発表されている。アルゼンチンでは「対馬海戦」と呼ばれている。
 この春日の士官室に1台のピアノが置かれていた。2隻の巡洋艦には家具調度品などがすべてそろっていて、いわば家具付きの状態であった。ピアノは、誰が弾くのか分からないが、もしかしたら、乗船が決まっていたアルゼンチン海軍の将校が、自分用に注文したのかもしれないとも言われている。このピアノはトリノにあったG.MOLA社製のアップライト型である。

 日本海海戦の一番の焦点は、東郷司令長官の敵前回頭であろう。対馬海峡の東側から北上するロシア艦隊に対して、朝鮮半島の鎮海湾基地から南下する連合艦隊は、ロシヤ艦隊の西側(左側)をすれ違う形になる。それでは、討ち漏らした敵艦がウラジオストックへ逃げ込む恐れがある。そのために東郷長官がとった戦術が世紀の大博打とも言われる敵前回頭である。3列縦隊になって北上する敵艦隊との距離が8千米近くになったところで(海の上で8千米は目と鼻の先)、敵の頭を押さえるかのように、東側(左折)へ直角に曲がり(取り舵)、進路を妨げる形をとった。2列縦隊の連合艦隊の全艦が曲がり終えるまでは敵に横腹を見せて無防備状態になる、そこへロシア艦隊は猛砲撃を加えた。先頭の旗艦三笠や殿の春日が一番敵弾を浴びた。回頭を終え、敵艦隊の旗艦スワロフとの距離が6500米になったところで、右舷の大砲をそろえ一斉砲撃に出た。
 横に並んだ形の連合艦隊第1艦隊は、右から三笠、敷島、富士、朝日の戦艦(15000トン級)と新着の重巡洋艦春日、日清(7628トン)の6隻である。全艦の右側砲塔から一斉に砲撃が開始された。5月27,28日両日にわたった海戦において、連合艦隊は大勝利を博し、最終的にはロシアの艦隊28隻(軍艦のみ、輸送部隊を除く)のうち、ウルジオストックにたどり着けたのは、巡洋艦アルマーズと2隻の駆逐艦だけであり、残りのうち3隻はマニラまで逃れて武装解除され、1隻は漂流しているところを英国貨物船に曳航されて上海にたどり着いた。残りは連合艦隊に撃沈されたり、拿捕されたり自沈した。これに対する連合艦隊の損害は、わずか水雷艇3隻だけであった。春日も他の僚艦同様相当な砲弾を浴び、士官室も被弾したが、なぜかピアノは奇跡的にかすり傷ひとつ負わなかった。ロシア艦隊総司令官ロジェストヴェンスキー提督は負傷して捕虜になった。戦死者は連合艦隊が88名、ロシア側が6000人に上ると言う圧倒的な連合艦隊の勝利であった。

 この海戦には観戦武官としてアルゼンチン海軍のドメック・ガルシア大佐(後の海軍大臣)が日清に同乗し、海戦の模様をつぶさに観察、後に詳細な報告書をまとめた(後日海上自衛隊の教材になった)。ガルシア大佐は日清、春日がイタリアで建造中に、監督官として駐在していた将校であり、さらには英国海軍兵学校で東郷長官と机を並べて勉強したという因縁から、日清への乗艦観戦が認められたものだと思う。

 日露戦争が終わってから5年が経った1910年、アルゼンチンは建国100周年記念に沸き返っていた。日露戦争を契機として日本とアルゼンチンの友好関係は一挙に深まっていった。そうした関係から、日本政府はアルゼンチン建国100周年記念行事に参列すべく、日本ではじめて建造された巡洋戦艦「生駒」を派遣した。生駒はケープタウン周りの航路をとり、4200カイリの長旅を経て5月15日にブエノスアイレスから400キロ南のベルグラーノ軍港に投錨した。この生駒には「春日のピアノ」や、日清の砲弾の穴があいた舷側の鉄板なども積まれていた。これらは友好関係の贈り物としてアルゼンチン海軍に返還され、海軍博物館に保存され、両国の友情を永遠に記念するという爽やかな歴史物語の主役になった。奇跡のピアノはイタリヤからアルゼンチンまで、随分遠回りをし、5年ぶりに本来の落ち着き先に帰ってきたのである。

 私がこのピアノに興味を持つようになったのは、アルゼンチン在住中のある日、家族とドライブがてらラプラタ川上流の水郷地帯にあるリゾート地ティグレを訪れた。そこは博物館や美術館、図書館などがある文化の香り豊かな景勝地である。その一角に海軍博物館があった。入って日本には珍しい海賊船の大砲などを見物しながら、「思い出コーナー」という部屋に入り、驚いた。

 壁一面に昔の日本海軍の軍艦旗と、海戦を描いた油絵が2枚掛かっていて、その下に1台の茶色のピアノが置かれていた。軍艦旗は風にはためいているかのように、壁に止められている。明治、大正、昭和3代にわたって活躍した和田三造画伯が描いた海戦画の1枚の額縁は、砲撃で焼け落ちた三笠のマストを使って作られたといわれ、焼け焦げが何か所も残ったままだ。説明書を読んだり、館員に聞いたりして、なぜ此処にピアノがあるのか、なぜ軍艦やら海戦場面を描いた絵があるのかなど、その理由がようやく分かった。そして改めて感激したものである。
 しかし、私にとっては、過去の一つの記憶として脳裏に残っていただけで、日ごろ特別は意識を持っていたわけではなかった。

 そして、2005年がやってきた。古い人間の間や新聞テレビで、日露戦争100周年に関する報道がなされ、インターネットの記事も増えてきて、私の脳裏にも、あのティグレの海軍博物館にあったピアノが蘇ってきた。以前上映された映画「戦場のピアニスト」というタイトルを思い出し、軍艦とピアノという奇妙な取り合わせに興味を感じ、改めてその故事来歴が知りたくなり、資料を探し始めた。しかし、日露戦争そのものや、海軍の日本海海戦や陸軍の203高地争奪戦などの模様を描いた本は沢山あるし、ネットにもいろいろアップされているものの、ピアノに関する記述があるものは皆無であった。図書館へも行ったがついに見つけることはできなかった。
 やむなく、ピアノがある海軍博物館に直接当たってみようと思い、博物館に近いところに住んでいる親しい友人に依頼して博物館にピアノに関する資料を紹介してもらった。その結果、ティグレ市のサルミエント公衆図書館が発行するPR誌の2005年4.5月合併号に、日本海海戦100周年に因んだ「春日のピアノ」という題名で海戦の模様や、上記に記したピアノの奇跡な運命などが詳しく書かれた、特別記事が発表されたことを知らされた。そして友人の計らいで私に原稿のコピーを送ってくれた。図書館のPRのためとはいえ、日本ではやらないような、日本海海戦の戦闘の模様とともに秘話とも言えるようなエピソードを、特集として発表したのは素晴らしい企画だと感服し尊敬したものである。

 1台のピアノにまつわる物語はこれで終わる。しかし、なぜ春日にだけピアノがあったのか、備え付け家具の一つだったなら、日清にも積んであったんではないかという憶測もできる。それとも日清は、”T字戦法”で敵前反転したときに先頭艦になるなど目標になりやすかったため、損害は三笠についで大きなものだったので、壊れたか燃えたかしてしまったので、全く話題にならなかったのかもしれない。それにしても幸運なピアノである。
 2009年暮れに始まったNHKの長編ドラマ「坂の上の雲」のプロデユーサーにピアノの件について尋ねてみたところ、原作にないのでドラマには取り上げられないとのことだった。結局、「春日のピアノ」は知る人だけが知る小さな小さなエピソードに過ぎないが、その価値は日本とアルゼンチンとの友好が続く限り、ティグレの海軍博物館に愛蔵されている限り、永遠に輝き続ける一粒の宝石のように思える。
 それにして、80歳以上の老人を除いて日露戦争なんてとっくに遥か歴史の彼方に葬り去られた感があるにもかかわらず、軍艦を譲ってくれただけのアルゼンチンが、いまだに毎年5月に海軍博物館で記念式典を行っていることを我々はどう受け止めるべきか、私にはその答えが分からない。今年もまた115年前の歴史が蘇ることであろう。  

終わり

(2020.5.1記)


この小文は、ラテン音楽雑誌ラティーナ2010年6月号(105年紀)に掲載したものを改定したものである。

 

参考文献:

アルゼンチン・ブエノス・アイレス州ティグレ市、サルミエント公衆図書館発行月刊誌
「ペルスペクティーバ」2005年4/5月号 (スペイン語)

「日本アルゼンチン交流史 1998」
アルゼンチン国立海軍博物館公文書「ピアノの受領について(1931.5.19)」(スペイン語)
志賀重昂著 「世界山水図(抜粋)」 (日本アルゼンチン協会提供)
学習研究社発行、岡本好古著「日本海海戦」
PHP研究所発行、柘植久慶著「旅順」
文芸春秋発行:司馬遼太郎著「坂の上の雲(第六巻)」  ***

 

 



 
四 季 雑 感(52)  
 
樫村 慶一
  
残り火が つきる前に・・・

 

 私の生まれた1930年は分かりやすい年号配分である。今年は2020年、生まれてから何年経ったかは小学校1年生でもわかる。 ”よわい”を重ねるということは、神経的(思考、運動両面)、肉体的、本能的(注)に弱ってくることだ。後どのくらいあるのか分からないが、せめて残り日を楽しく笑って過ごしたいと思っているが、いたずらコロナ坊主が邪魔をするのが癪にさわる。それはそれとして、本号では、歳をとったたら後々の為にやっておいた方がいい、と思うことを私の経験から披露しようと思う。

 (注)5大本能とか言われる、名誉欲、出世欲、性欲、物欲、食欲。まだ食欲は快飲快食中。)

1.お墓を作ること

 すでにお持ちの方、田舎の実家の墓に入るつもりの方は無視して頂きたい。練馬区の大江戸線豊島園駅前に11軒のお寺が並んでいる。大正12年の関東大震災で下町で焼け出された浄土宗のお寺が集まって移転してきたお寺団地である。17年前に豊島区へ引っ越してきた私達夫婦は、ある春の午後、散歩の折このお寺団地の前を通りかかった。一軒のお寺の前に石屋が机をだして一生懸命お墓の売り出しをやっていた。すでに結婚して家を出ている娘達に、将来墓を作らせるのは可哀そうだから自分達で作っておこうと、その場で契約した。しかし後で考えたら、もう少し宗派のことを研究すべきだったと後悔した。なぜならば、浄土宗にはジェネリックともいうべき浄土真宗がある。新しい信者を獲得するには、入信条件を元祖より簡素化しなければならないので、それなりに簡略化されている。すなはち、浄土宗は南無阿弥陀仏を10回となえれば極楽へ行けると言うのに対し真宗は1回でよい、戒名は前者が最低4文字から布施額に応じて院号まであるのに対し、後者は全部で3~4文字、(釋と尊の間に本名の字を1~2つ入れるだけ)、前者は塔婆を立てるしきたりがあるが後者にはなし、と経済面で大きな違いがある。更になにより大きな違いは、前者は女人禁制だが後者は色恋自由になっていることである。いずれ要るものだから、まだの方は、精々研究されるといいと思う。

2.古い写真の整理

 K-unetの会員は全員が昭和生まれだと思う。だとすると、アナログ時代の写真がたくさんあると思う。それらはプリントされたものが何冊ものアルバムに貼られて、戸棚やクローゼットのかなりのスペースを占領しているに違いない。子供や孫になると、親や爺さん婆さんの写真にはあまり興味を示さない。そこで、私はアルバムから剥がして1枚ずつスキャンし、パソコンに取り込んで年代順に整理した。70冊のアルバム処理を気の向くままに、気長にやったのでほぼ2年かかった。スキャンなのでピントが甘くなるので、鮮明にするアプリを買った。

 剥がした写真は、燃えるものなら何でも引き受けてくれるお寺が都内だけで数か寺あり、お焚き上げと称して、ダンボール1箱を3000円~5000円のお布施で処分してくれる。私は神楽坂のお寺に頼む。例年6月に祈祷会があり、埼玉県の所領?に運んで焼くのである。あとで証拠に焚き上げ現場の写真と証明書を送ってくる。朝日新聞社の関連会社が、スキャンしてくれるサービスをやっているが、アルバムに張った写真の上の透明フイルムの上からスキャンするので、鮮明度が落ちるのと、1枚1枚のスキャンではなく1ページ全体なので、後の始末がしにくいのでやめた、料金も高い。

3.戒名の授戒

 これは是非とか絶対という話ではなし、常識的でもない。でも「生前戒名の進め」なんていう本もある。お通夜の日に付ける戒名の方がずっと高い布施(15万円~30万円位)が入るのにと思うけど、何故かお寺は推奨する。私は二つの理由により一昨年につけた。一つは、上記に書いたように安く済むこと。娘達に負担させなくても済むようにとの思いである。もう一つは、自分の好きな名前で作れることである。私の生涯の趣味の源泉であり、心身の研鑽の場でもあった「ラテンアメリカ」をもじったものにしたかったからである。浄土宗は4文字(〇〇信士、信女)から院号の付く10文字くらいまである。院号居士となると生前戒名でも100万円はかかる。生まれた時の新しい名前が僅かな手数料だけなのに、使うことなどない死後の名前が何十万円もするのが不思議でならない。さりとて戒名がないと寺が葬儀をしてくれないので、こればっかりは仕方がない。私が作った理想戒名の一字が浄土宗では使えないと住職が苦情を言ってきた。それじゃ止めるといったら、私の裁量で認めましょうと手の平を返した。戒名は住職の専決事項だそうだ。こうしておけば、死んだときにはお寺へのお経料だけですみ、葬儀は随分と経済的に上がるという寸法である。今は”現世と来世”両方の名前を背負って生きている。

4.遺言の作成

 作ろう作ろうと思っていても、なかなか腰が上がらないことの一つに遺言作成がある。自分はまだまだ生きていけるという自信というか、そんなものはまだ早い、縁起が悪いという思いか、いずれにしても思いだけで動かないのは、結局億劫だからだと悟った。娘が公証人役場の予約をしたのでやむなく出かけた。そして、あまりにも簡単でかつ費用が安いのに驚いた。これこそが、まさに「百聞は一見に如かず」の例えそのものである。

 初回は顔合わせである。遺言の内容は大きく分けて、不動産と金融資産に分けられる。不動産については、評価額が証明されるものが必要なので、何が必要かあらかじめ電話で聞けばよい。金融資産については何もいらない。銀行名、証券会社名を口頭で告げるだけで、金額は不要である。それはそうだ、遺言を作った後でも預金の出入りがあるからだ。役場の書記の小母さんに、不動産は誰に、〇〇銀行は誰に、▲▲銀行は誰に、と告げる。配分率は法定遺留分を考慮しなくても決められる(侵していても有効)。公正証書遺言の効力は絶対で裁判の判決同様の効力があるので、配分率に同意できな場合は遺言無効の民事裁判を起こさなくてはならない。差をつけるのはそれなりの理由があるわけで、相続権があるのにゼロのような場合を除き、面倒なので何とか納まるものだと公証人は言っていた。

 以上が主文になり、贈与者に事故や死亡などで変動があった場合のために「予備的遺言」、いわゆる第2案も書ける。そして、なぜそうゆう風に分けたかの理由と言うか心情を述べる「付言事項」という欄があり、言ったことを書記が書いてくれる。、親に孝行した子供とそうではない子供とで、差を付けた親の気持ちが伝わるという塩梅である。以上は全部口頭でしゃべればよい。数日すると下書きをメールで送ってくれるので、細かい字句の修正まで含めても2~3回のメール往復で完成し、次回訪問を予約。

 2回目は実印を持って役場へ行けば、役場で用意した保証人という年寄りが二人待っている。保証人屋ともいうべき人間で、過去に法曹業界にいた隠居老人のアルバイトである。遺言書の読み合わせをしてこれで結構となれば本人、二人の保証人が実印を押して終わり、10分も待つと遺言書本文、謄本の2通が出来上がり、原本は役場で保存してくれる。封もなにもしてないので、公正証書遺言は原則オープンだ。原本が公証人役場にあるので、誰に見せても改ざんされる恐れはないし、秘密にするかどうかは依頼者の自由ということである。

 費用は思ったほどかからない。料金は不動産価値と相続人の数で決まる。マンションの場合は土地面積が小さいので比較的安くすみ、(金融資産の額は関係ない)保証人2人の謝礼14000円(一人7000円)を含めて10万円以内で収まる。今年7月から個人遺言書の扱いが若干簡素化されるというが、裁判所へは2度行かなくてはならないし、面倒くさい。それに引き換え公証人役場はあちこちにあるし、自分ですることはなにもない。私は、公正証書が一番簡単だと思う、億劫がっている方は、是非今年は思い切って腰を上げられてはいかがかと思う。

5.物品の始末

 90年も生きてくると雑多な品物がたまってくるのは仕方がないことである。問題は、それらをどう始末をつけるかだ。本、新聞記事・雑誌のスクラップ、趣味の中南米の民芸品コレクションなど雑多である。民芸品は愛着があってなかなか始末ができない。東京へ出てくる際に、競売とか人に譲るなどして随分処分はしたが、まだまだ残っている。本当は1か所に纏めて引き取ってもらいたくて、適当な場所を探したがうまくいかない。やむなく、まだ居間に飾ったままになっているものがかなりある。いよいよ先行きが見えてきたときに、友人知人を集めて形見分け会でもやろうかなどと考えているが、まだいいかと踏ん切りがつかない。まだはもう、という言葉があるので、先読みを誤らないようにしないと、と気は使っているのだが。結局娘に後始末を頼むことになる恐れも十分ある。

 私なりに考えた終活は上記のようなことである。残った物は娘の手には負えないだろうから、その道のプロに任せることになるだろう。目の黒いうちに出来るだけのことはしておいてやろう、というのは親馬鹿の類かもしれない。

 (2020.3.1 記)

 

 



 
四 季 雑 感(51)  
 
樫村 慶一
  

アバディーン・アンガス牛の話

 皆様 明けましておめでとうございます。

そうは言っても、国内は騒然、世界は混沌、地球環境は生物の終焉に向かって加速度的に悪化している。そんなことを考えると、何がおめでたいのかと言いたくなるのだが。昨年秋にはやっぱり訃報が何通か届いた。卒寿ともなると同輩諸氏も段々いなくなっていく。KDDの友人知人との交際範囲が狭まっていくので、その代わりではないが、近年は会社以外の人との付き合いを広げることを心している。

 今年2020年、2度目のオリンピックがやってくる。56年振りである。今の世界にはおよそ200の国と地域がある。地域とは、台湾、香港、マカオ、パレスチナ、プエルト・リーコ、南極などだけど、この中から何か国・地域が来るのか知らないが、とにかく世界中から来る。初めて来る極東の小さな国では、どんなものが食べられるかは、心配ごとの一つだと思う。でもそれは恐らく来てみて杞憂に過ぎなかったことが分かるであろう。日本は世界でも有数な万国食通国だから、必ずや気に入った食事があるはずである。イスラム教信者を除いて大体は牛肉や豚肉、それに鶏肉を食べる。私は、世界で1,2を争う牛肉王国で暮らしたことがあるせいか、牛肉には目がない。新年早々なので、食べ物の話でもいかがかなと思い、牛肉を話題にしてみた。

 

 今、東京で食べられる牛肉は、国産、オーストラリア、米国、メキシコ、アルゼンチン、それにわずかにウルグアイなどの肉だが、和牛というのは、日本牛の種を輸出して現地で育てたものも和牛というので、日本産ばかりではない。和牛はご存じのように、”さし”がはいっている。これは脂だから火が通ると白くなる。脂が多すぎるので私は和牛は好きではない、和牛を食べるのなら、しゃぶしゃぶが一番脂を少なくする方法である。

 赤身が多く柔らかいのがアバディーン・アンガス種だ。これを略してアンガス牛と言っている。元は英国のアバディーンとアンガス地方で生産された種族だが、今では米国産とオーストラリア産が主流である。ステーキ専門レストランでは、昨今赤身のメキシコ牛が美味しい。昨年からアルゼンチン牛も輸入され始めた。しかし、おいしさとか生産量などの世界的ランキングでは、トップはオーストラリアかアルゼンチンかということになるのであるが(昨年テレビでも味比べがあった)、今、日本に輸入されているアルゼンチン肉は、南緯50度(マゼラン海峡付近)以南の、南極に近く一年中強い風が吹いている地域で育った牛なので、肉が締まっていて固く、世界1,2と言う評判とはまったく違う。それゆえ、今はアルゼンチン肉はお勧めできない。本格的に中部の大パンパ(草原)で育ったアンガス牛が入ってきたら、世界1,2の貫禄を示すと期待し、首を長くして待っている次第である。           

 米国とオーストラリアの違いは餌の違いだ。米国は玉蜀黍が主食だけど、オーストラリは牧草である。アルゼンチンもアルファルファー(日本名ムラサキウマゴヤシ)と言う牧草を食べて育つ。根が地中長く伸び栄養豊富な野草で1米くらいになる。これが地平線まで続く大草原に一面にはえており、牛は朝起きて太陽の動きに合わせ体を回転させて足元の草を食べ、陽が落ちると寝る。足元に無限にあるので餌を求めて歩く必要がないので、体に柔らかい肉がたっぷり付いている。

 近年は、肉を寝かせることで旨みが増すという「熟成肉」(ドライエイジングと言う)が評判になっているが、早く言えば腐らせることで、本当に腐る直前で食べさせるのである。温度1~2度、湿度70~80%の熟成庫内で1か月以上乾燥させると、表面にカビが生え水分が飛んで、うま味が凝縮すると言う。腐っているのは表面の数ミリだけで、そこを削って出荷する。ただ、まだ定義が定まっていないので業者がいろいろなやり方で熟成といっているので、農水省が熟成肉の定義を決めると言っている。

 そんなことしなくても、アルゼンチンの肉は十分美味しい肉だ。味付けは塩だけだが、現地で暮らす日本人は携帯用の小さな醤油瓶を持ち歩いて、食べる時数滴垂らす。これで旨みがさらに増える。彼らは朝から肉を食る。日本人の年間牛肉消費量が近年10グラム増えて平均90グラムになったと最近の新聞で読んだが、彼らは10倍くらい食べる。アンガス種のビフテキをビッフェ・デ・チョリッソと言うが、これが一番おいしい。レストランの一人前は大体400~500グラムである。赤身と脂部分がはっきりしているので、脂が嫌な人は切り分けるのが簡単にできる。牛肉のヒレ部分は流石に柔らかさは特別で、これは病人食とか、幼児の離乳食になる。ヒレ部分を厚み4,5センチに切ってレアーに焼き、それをスプーンで掬うようにして食べさせる。

 ご存じかどうか知らないが肉は消化は抜群である。私は、肉が多いと聞いていたので赴任の時、消化剤を沢山持っていった。ところが、同じ消化剤でも日本人の様に米を主食にする人種用と、肉を主食の人種用とは消化剤の成分が違うそうだ。現地の日系人の医者に、だまされたと思って消化剤なんか飲まないでいてごらんなさいと言われ、300グラム位のを食べて消化剤を飲まないでいた。ところが食後は勿論翌朝も全然胃に違和感がないのだ。それ以来肉の消化の良さをすっかり信用している。

 牛肉人種も勿論豚肉も鶏肉も食べることは食べるけど消費量で比べれば牛肉との差は大違いである。牛の次は羊で、次が豚や鶏とかキルキンチョ(アルマジロ)、ウサギなどである。豚は固くてビフテキにしたのは全く美味しくない。豚は牛の放し飼いの草原で牛の周りを走り回っているので逆に肉は固く、臭くてとても日本人が知っているトンカツの肉とは違う。牛が肉になる様子を順を追って撮影した写真を紹介する。残酷なことだが、私は常に、人間に人間以外の動物を殺す権利を与えたのは誰なのか疑問に思っている。

 お正月にすき焼きなど食べた方もいるだろうが、霜降り肉ではなく、外国産のアンガス種の赤身肉をぜひ食べてみて頂きたい。いかにも牛肉ということがお分かり頂けると思う。

 では、次号をお楽しみに。 

(2020.1.10記)

 


  

 

四 季 雑 感(50)

樫村 慶一

特別号

「携帯電話事業」三木谷のペテン

 昨年、携帯電話の3大既存キャリアに向かって、第4のキャリアとして参入すると華々しく花火を打ち上げた楽天が、窮地に陥っているようだ。会員制の月刊誌「選択」の10月号に、その内実が詳しく掲載されたので披露する。既にお読みなった方は無視して頂ければよい。
 じわじわと締め付けられてきた厚生年金をカバーして、今や、我々の生活の絶対的後ろ盾である、企業年金の親会社KDDIのライバルだと思うと、その動向は気になるものだ。タイトルは、「携帯電話事業・三木谷のペテン」と言うかなりセンセーショナルなものだが、内容は真面目でかなり詳細である。長いし理解しにくい部分もあるので、一部省略してまとめてみた。

 「携帯電話電話事業者としての社会的責任を踏まえ早期に本格的サービスを開始してほしい」と総務省が異例の警告を発したのは9月6日だった。菅が見込んで第四の携帯キャリアーへの道を開いてやった三木谷は、警告の重大さを殆ど認識していなかったようだ。所詮は虚業の口舌の徒か、と総務省担当者は自らの不明を恥じたという。
 同日三木谷が開いた言い訳の記者会見は陋劣(ろうれつ)を極めた。基地局開設が大幅に遅れ、当初計画の10月に本格サービスを開始できないことは分かっていた。案の定、計画は来年3月まで最長半年延期、肝心の通信料金も発表できなかったが、三木谷は、「携帯電話のアポロ計画」と自画自賛し、長広舌を振るって報道陣を煙に巻いた。そのうえで、10月1日から東京、名古屋、大阪で5000人限定の「無料サポータープログラム」の受付けを開始すると表明。これを「革新的ネットワークなので念には念を入れる」試験サービスと弁解した。本格サービスの時期については「1か月後か、3か月後かもしれない」と言を左右にし、通信料金は「政府が思っている以上の下げ効果をだせる」と大言壮語した。

 9月20日現在僅か1052局、楽天の東名阪の開設基地局数である。来年3月までに3432局を開設する計画の30%にとどまっている。10月1日現在でも1500局にも達していない。NTTドコモ、KDDI、ソフトバンクの大手3社が東名阪にそれぞれ10000局を設置していることに比べればたった7分の1だ。大手3社からは「7回掛けて1回繋がるかどうかの接続品質」と嘲笑の声が上がる。 ある通信関係者は苦笑した。「楽天は時間稼ぎに必死だ。試験サービスの開始は早くて10月末、いや、色々理由を付けて11月まで延ばすかもしれない」。試験サービスの加入者を10月1日から7日迄受付抽選のうえ、13日から5000人に携帯端末を発送するという。申し込みはアンケートへの回答が条件になっており、恐らく年齢、住所、勤務先、などを精査し、繋がり易いエリアの申込者を選別するだろう。しかも携帯端末を中々送らない、そうすれば11月まで延ばせる、その間基地局を少しでも余計建設できるわけだ。(注1)
 楽天の携帯電話参入は消費税増税と一体で推進されてきた。小泉内閣の総務大臣だった竹中平蔵の副大臣だったのが菅であり、その菅と気脈を通じた三木谷は、後に官邸の実権を握った菅の三社体制の携帯電話市場に穴をあけるための尖兵となり、消費増税による国民の不満を緩和する目的もあった。菅と三木谷の6年越しの遠謀である。しかしこの目論見は見事に外れた。三木谷は3つの誤算を犯したからである。

 (注1)このサービスは地域限定無料サービスと言ってとりあえず10月から始まったが、10月24日の朝日新聞に次のような記事が載った。「利用できないという苦情が総務省に相次いよせられた。楽天よると「SIMカード」を端末に挿入する初期設定を通信圏外で行ったのが原因と説明している。都市部中心に自前の基地局を建設してきたが、エリア内でも圏外となる場所があるためで、通信環境の良い場所で設定をするようにと利用者に説明している。

 第一の誤算は1億人の楽天会員の購買力を提携材料にNTTと対等の交渉が出来ると錯覚し、ドコモへローミング(通回線の乗り入れ)を申し込んだ。ところが、「EC(電子商取引)モール風情が小賢しい」と一蹴された。楽天はもともとドコモのMVNO(回線を借りて格安携帯事業を営む業者)である。したがってその分をわきまえればよきパートナーだったのである。しかし自前の通信回線を持って移動体事業者(MNO)になるということは、ドコモにとっては天下を狙う相手になるということにもなる。そんな慮外者をドコモが受け入れるわけがない。楽天はやむなくKDDIとローミングしてMNOになる準備を進めてきたが、今後MVNOサービスも継続するという。MNOとMVNOを並行させると、いいとこどりが可能になる。つまり、大都市圏は自社回線で提供し、需要密度の低い市域ではMVNOになって大手の回線に乗るということだ。これなら楽天の6千億円程度の設備投資でも通信品質は確保できる勘定である。ドコモの吉沢社長はMNOとMVNOの平行運用は電波の有効利用に逆行すると猛反発しており、三木谷の思惑は通りそうもない。(KDDIもその辺分かっているだろうと思うが、どうなんだろうか。筆者の懸念)。

 第二の誤算は、菅の肝いりで始まった携帯電話市場の競争政策である。すでに通信料金から端末代金を値引きする一体モデルは違法になった。2年縛り契約の違約金を1000円へ減額、長期加入者の通信料の割引抑制、通信サービスと端末をセットで販売するときの端末価格の値引き上限を2万円までとする、という規制がかかった。特に端末の値引き上限2万円は新規参入の楽天にとっては有利な規制だったはずなのが、KDDIとソフトバンクの巧妙な奇策であえなく崩れ去った。 奇策とは自社の通信回線に利用を限定するSIMロックを解除できる端末を48回の分割払いとし、24回支払った時点で端末を下取りし、残債を免除する販売手法である。つまり半額の値引きだが自社の通信サービスを利用することを条件としないため、値引き上限2万円の規制は適用されないというものである。どっちが考えだしたか知らないが見事な抜け穴を見つけたものだ。(注2)
 加入者の移動は端末をいかに安く使えるかで決まる。端末の値引き競争はこれからも続くことになる。それに楽天はついていけるのだろうか。本格サービスを延期した結果、iPhoneの最新機種の取り扱いすらできていない。しかも大手3社は、来年3月を目途に5Gの商用サービスを開始する。ようやく4Gを始められれかどうかの楽天は周回遅れの状況になった。3社は5Gのインフラ整備を進めており、楽天の敗北はますます鮮明になってきた。

(注2) KDDIは半額割引(48か月分割払いを24か月払って解約すると残り24か月分は不要になり実質半額になる)について総務省から批判されたため、この制度を10月末で中止し、11月から36か月払いとし25か月以降に解約すると残り不用になり実質1/3の割引になる制度に改めた。(10月17日朝日新聞)

 三木谷はいつまで、予定通りと虚勢をはっていられるだろうか。唯一の拠り所は12兆円に上るポイント発行額だ。カード会員が買い物するたびに加盟店から入る手数料を元手にECモールのポイント還元率を高めた結果、楽天経済圏は急速に拡大した。約3%の手数料収入を放棄しても、そのポイントでカード会員がECモールで買い物をしてくれれば、楽天にはモール店がら平均15%の所場代がはいる。十分にペイする。
 携帯参入も同じ発想である。加入者が払う通信料金にポイントを優遇し、端末を使えば使う程ECモールの消費に加入者を誘い込ませることが三木谷の狙いである。つまり、携帯電話はEC事業の販促ツールなのだ。しかし、その本業が減益では楽天の先行きは危ない。当分は続くだろう携帯事業の赤字に耐えられるのか、とある金融関係者は指摘する。主力の国内EC事業は19年12期上期決算は営業利益1129億円(前年同期比18.6%増)を計上したが、これは投資先の米国ライドシェア企業の株式上場益の寄与が大きく、一過性要因を除けば327億円(同48.6%減)の大幅減益だ。国内送料無料のアマゾンとの差は開いており、それを補おうとポイント還元を厚くすれば、引当金負担で利益が伸び悩むジレンマを抱えている。
 9月の台風15号(千葉台風)に際して大手3社は基地局に対してバッテリーを充電する移動電源車を100台規模で動員、さらに車載型、可搬型基地局や、KDDIは東京湾に基地局になる船迄浮かべた。基地局もまともにできない楽天に緊急時設備の用意ができるわけがない。ECモールと言う消費の迷宮をつくり、その上前をはねて成り上がった虚業の経営者なのだ。社会的責任の欠陥、それが三木谷の最大の誤算と言ってもいい。


(敬称略 2019.10.26)

 

 

四 季 雑 感(49)

樫村 慶一

世紀が変わって20年になろうというのに

  梅雨が長いの、外は暑いのなんの、でかい台風が来るぞ来るぞ と言いながら、暦だけは正確に移ろいをもたらす。気が付かないうちに残暑見舞いの時期がきて、アッと言う間に、秋がきて、あれよあれよと思う間に1年が終わってしまう。暑い頃は日射病絶対反対という、女房亡き後の後見人を自負する娘の言うことを聞いて、外出は週2~3日に限定してパソコンに精出していた。お陰で、丸60年の結婚生活を記録したアナログカメラ時代のアルバム70冊余りを、全部スキャンし終わりデジタル化した。マンションのクローゼットに大分隙間が出来た。終活のひとつである。ただ、スキャンで問題は、どうしても元写真よりピントがぼやけることだ。そこでピント矯正用のアプリを買って、大事なシーンのものはピントを補正する。お金を出して買ったものだけに、ピントが、特に人物の顔などはかなりはっきりする。因みにスキャンし終わった元写真のうちで、家族、特に妻の写っているのは、燃えるゴミでは忍びなくお寺で成仏させた。神楽坂にあるS寺に送り、祈祷してお焚き上げをしてもらうのだ。段ボール1個分のお布施は3000円である。家族が写っていない写真も随分あったが、それらは燃えるごみで処分したが、私にとって,この夏最大のイベントであった。
  世紀が変わるなんて、日本も世界もなにもかもが一変することのように凄い事だと思っていた。それも良い方に。世界中がコンピューターの切り替えで天手古舞していたのを、まだしっかり覚えている。でも、20年近く経って振り返ってみると、世界も日本も、確かに随分と変わった。たった20年足らずなのに貿易、経済、外交関係、習慣、治安、生活様式、食べ物から娯楽に至るまで、何もかも悪い方に変わってしまった。差別、格差拡大、民族や国家の分断、孤立だとか、人間社会の悪い面ばかりが強く出てきた。原因は自分本位、我儘勝手、傲慢、強欲、残酷、独占欲などなどが元になる。これを突き詰めていくと、ある一人の人物に行きつく。 その名は、Señor Tramp この男は地球上の表面にできた皮膚がんのようなもので、発病して以来地上のあちこちに転移して平和を乱していく。こうゆう癌が地球上に張り付いている限り、地球はますます住み難くなるのであって、あながち異状気象のせいばかりではないような気がする。
  それでは、人類の歴史として人間が生きてきた史実が明らかになって以来の時代で、何時が住み易い、住みたい時代だったんだろうか。1958年から続けている新聞のスクラップ集をめくってみたら、2013年11月16日の朝日新聞に下記のようなランキングが出ていた。一番住みたい時代から順にならべてある。

① 遠い未来(100年よりもっと先の)(理由:今よりは全てが良くなっていると信じて)
② 高度経済成長期(1955~1973) (このころが日本の頂点だったから)
③ 安定成長期(1974~1985)(貯金が増えたよき時代だった)
④ 江戸時代(17~19世紀)(四海波立たずで太平の世だった)
⑤ 近い未来(2014~100年後)(子供や孫とずーっと暮らしたい)
⑥ バブル経済期(1986~1991)(思い切り稼いで派手な生活をしてみたい)
⑦ 平安時代(8~12世紀)(光源氏のような人と恋をしたい)
⑧ 明治時代(1868~1912)(がんばれば成り上がれる時代だった)
⑨ 大正時代(1921~1926)(あの時代は良かった、モダンで楽しかったと故老が言うから)
⑩ 縄文時代(1万年前~紀元前3世紀)(貧富の差がなかったから)

以下は次のような時代である。
⑪飛鳥時代(6~8世紀)、
⑫奈良時代(8世紀)、⑬戦後の復興期(1945~1954年)、
⑭戦国時代(15~16世紀)、⑮バブル崩壊後の現代(1992~2013)。⑯安土桃山時代(16~17世紀)、⑰旧石器時代(1万年以上前)、⑱弥生時代(紀元前3~3世紀)、⑲室町時代(14~16世紀)、 ⑳戦前(1926~1941)
となっている。

  理由はそれぞれあろうけど、私は、 ⑳位の「戦前」派である。 戦前とは昭和元年(1週間しかなかったけど)から16年までをいうが、昭和5年(1930)生まれの私は戦争が始まった時は11歳、昭和10年頃(5歳)からの記憶はかなり鮮明なものがあるが、昭和16年12月8日の「大本営発表」は、はっきり覚えている。東京中野区に住んでいた私は小学校6年生、前日雨が降って水たまりができた校庭で、校長先生の訓話を聞いたのをしっかり覚えている。結局今80年間の過去を振り返ってみても、色々ありすぎて何がと言う題目によって”あのとき”が違ってくるけど、一口に言うならば世界を含めて世の中の動きに頓着しないで、日支事変なんて他所の国の騒ぎくらいにしか意識しないで、子供らしくただひたすらに遊びまわっていた事だけが記憶に残る、昭和10年から16年までが、もう一度住みたい時代のトップである。遊び疲れて台風で倒れた木に腰掛けながら、日独伊三国同盟はすごいねーなんて、意味なんて全然わからないくせに、友達と話し合った時の、場所を含めた記憶がなぜか頭の隅から消えない。
  年寄りは、先がないから後ろを振り返るしか体の向きがない。上記のランキングのついで、同じ年(2013)の記事を手繰っていたら、これも興味深いランキングがあった。「死語」ランキングである。死語とは日常で通用しなくなった絶滅語のことだ。コメント抜きに羅列すると、「パタンキュー」「お茶の子さいさい」 「ハイカラ」 「ルンルン」「驚き桃の木山椒の木」「アベック」「胸キュン」「グロッキー」「イチコロ」 「小股の切れ上がったいい女」 「ミーハー」「あたぼうよ」「地震雷火事親父」「おきゃん」「おてんば」「オバタリアン」「とっぽい」「シェー」「べっぴん」「ほの字」「お妾」「貞操観念」まだまだ沢山の言葉の死骸が世の口から消え、いずれは辞書からも消されるのだろう。そんなこと言っている間にも自分の名前が死語になる時が、静かに忍び寄っているのだろう。覚悟だけは出来ているつもりだけど、ホスピスに入るのは嫌だなと思う。最近逝ったK君のように寝ている間に心臓が止まるのが、最高の理想形なんだけど。
 定年後には2度の人生峠があると人は言う。一つは72,3歳、それを乗り越えたら次は、87~89歳。そういえば新聞の有名人などの訃報でも87とか88が多い。目下最後の峠89歳を、ふうふう言いながら登っている。うまく登り切れると何が見えるんだろう。期待は大である。

(2019 .8. 25 記)

【写真説明】
①お焚き上げの様子。都内には燃やせる場所がないので、地方へ持って行って焼く。神楽坂S寺の坂戸市の焼却場での様子。
②平和な時代だったが、社会的大きな出来事の一つ、日本橋白木屋(後の東急、現在のコレド日本橋)の火事(1932.12.16 )。和服の裾の乱れを恥て救命綱から手を放し14名が転落死、以後ズロースが普及した。(ただし、実際は裾を気にせず大勢が助かったといい、これを都市伝説と言う人もいる)
③ハイカラ。襟のことだけではなく外国のファッションを取り入れた人をハイカラさんと言った。
④小股の切れ上がった良い女。定義はwebでどうぞ。要するに、当時のすらっとした細身の和服の似合う女性を評した。

 

 

四 季 雑 感(48) 

樫村 慶一  

日本人ペルー移民130周年記念の年にあたり

日本人があまり知らないペルーとのできごと


 太平洋戦争中、戦後における南米諸国の対日感情は現在とかなり違っていた。最も親日国はアルゼンチンで、ついでエクアドル、一番悪い国はペルーであった。理由は、アルゼンチンに移住した移民が、アルゼンチン人 の嫌う百姓、花造り、洗濯屋などに従事し、みな勤勉、誠実、礼儀正しく法律順守が厳しいなどの点が大いに尊重されたためである。エクアドルについては、ご承知のとおり野口英世博士の活躍がある。逆にペルーはアルゼンチンで愛でられた行為がペルー人の仕事を奪う結果となり、反日感情の高まりに繋がった。一般的に白人の比率が高い国ほど有色人種への差別感が高く、インディヘナの多い国は親日度が高いという傾向がある。なぜかはお分かりになろう。 こうした傾向がある中で、アルゼンチンの日本移民はアルゼンチン人が嫌がる仕事を積極的に引き受け、それを真面目に遂行したことが評価につながったのだ。人が嫌がることを引き受ければ喜ばれるのはいずこの国も同じである。今年は年紀的にはなんの祝賀行事もない年であり、ペルー移住130年が唯一国際的記念行事の年である。それに因み、余り知られていない日本とペルーの歴史の中で、特に大きな出来事にだけ触れてみたい。
 
【マリア・ルス号事件】
  この事件は、今から凡そ140年前、日本とペルーが国交を始めるきっかけとなった出来事である。1872年(明治5年)7月14日深夜、横浜港に停泊していた英国軍艦"アイアン・デューク号"が一人 の清国人を海中から救助した。その清国人はすっかり憔悴していて、自分が乗ってきたペルー船"マリア・ルス号(マリアの光)"船内の窮状を訴えた。「船の中の待遇は動物同然で、移民を斡旋した仲介人が言っていた待遇とは全く違っていた。」この頃の清国は、太平天国の乱と呼ばれる進歩政策をとった"洪秀全"の政権が崩壊し、農民の間には虚無感があふれ、農村は疲弊しきっていた。
 一方、当時のペルーは太平洋側を除く3方を5つの国(チリ、ボリビア、ブラジル、コロンビア、エクアドル)に囲まれて、しばしば国境紛争を繰り返していた。このため国力の充実を至上命令とした、ラモン・カスティージャ大統領のもと、金銀の採掘や特産のグアノ(鳥の糞から作る燐酸肥料)、ペルー綿と称する原綿の増産に力を入れていた。しかし、ペルーは奴隷を解放した後だったため、これらに従事する労働者が不足しており、特に砂糖きび農場では極度の労働力不足に悩んでいた。そこで、国外移住を希望してマカオに集まっていた清国人に目をつけ、旨い話や脅迫まがいの手段で勧誘した。ペルー政府は、労働者を斡旋するブローカに、一人集める毎に50ドルを支払ったと言われる。こうして集まった人達は 凡そ3500人にも上った。このうちの235人がマリア・ルス号に乗っていたのである。
 マリア・ルス号船内の待遇は奴隷の如くで、海に飛び込んでは脱走を図る者が続出した。 マカオを出向した船は、太平洋をペルーに向けて航行中、小笠原諸島付近で台風に会い、前マストを折り航行不能になり、緊急措置として、まだ国交の無い日本に避難した。こうして横浜港に入港している間に脱走した者が 英国軍艦に救助されたのである。
  英国軍艦は、当時すでに国際的に禁止されていた奴隷貿易の疑いがあるとして、日本政府に通告、これを受けて政府は、軍艦"東"を横浜港に派遣して、マリア・ルス号の出港を停止させ、船長の リカルド・ヘレイロを裁判にかけることになった。まだ裁判制度も確立されていなかった日本は、神奈川県令(知事にあたる)大江卓が、国交もなんらの条約も無いペルー人を裁くことになったのである。裁判は、当時の横浜に設立されていた外国公館を始めとして驚きの目で見られ 、大江卓の人権擁護思想の下に進められた裁判は、9月13日に結審し清国人は全て開放されて本国へ送還された。
  この事件が契機となって、日本とペルー両国は国交樹立の必要性を認め合い1、翌1873年(明治6年)3月に修好条約締結のため、特使オレリオ・ガルシアが来日、同年6月19日、日秘修好条約が締結され国交が樹立された 。この事件が後の、1899年の日本人移民第一陣が実現する伏線になっている。

【悲劇の元蔵相、高橋是清の足跡】
  岩手県出身の大蔵大臣高橋是清は、1936年(昭和11年)2月26日に起きた、日本陸軍のクーデター (皇道派と統制派の対立、天皇の裁断により皇道派は反乱軍になった)によって、反乱軍に自宅で射殺された。 この悲劇の蔵相高橋是清には、日本人には余り知られていないエピソードがある。
  1889年(明治22年)、当時、特許局長だった高橋是清は、局長を辞めて、ペルー中部のカラワクラ銀山の開発を目指して太平洋を渡った。是清一行は開発のパートナー、ヘレンの歓迎を受けて、高地へ登る前のトレーニングをした後、海抜4500メートルの山中にある銀山に入った 。鉱山の入り口では日本式にお神酒を奉げて成功を祈った。そこは、木も草も殆ど生えていない、鳥さえも住まない荒地であった。
 昼は猛暑が襲い、夜は極端に気温が下がる過酷な気候に慣れていない日本人一行は、散々な苦労をした。是清の従者が馬もろとも雪深いアンデスの谷底へ転落するなどのアクシデントにも見舞われた。しかし、武士道を誇る 是清は、悠揚せまらず、"アンデスも 転びてみれば  低きもの"と人ごとのように一句を吟じたりしたと言う。しかし、肝心の鉱山は、すでに百数十年も掘り尽くされた廃坑同然であった。口の悪い人達は、「カラワクラ」をもじって「開いてみれば蔵は空(クラワカラ)」と比喩した。
  特許局長の地位を捨て、政財界から12万5000円(今なら数十億円)もの借金をして、勇躍乗り込んだ是清の計画は、惨憺たる失敗であった。一行は千々の思いを砕きながら帰国した。日本の政治史に残るような 大人物さえも、まんまとペテンに引っかかったのである。是清は家屋敷を売り払って借金を返したと言う話である。一般的日本人は、ラテンアメリ人は陽気で人が良いなどと言うが、性悪説のラテンアメリカ人の、怖い真実の一面を現した事件の一つである。

【日本人移民の入植と、悲惨なペルー下り】
 1800年代後半の日本は、明治維新後の国内の統合と再建が始まり、変化の激しい時代であった。首都が東京に移り、封建機構から脱却して政治構造が激変した。また、工業の発展や教育改革が急速に進み、外国との 通商関係が緊密になっていった。その一方で、軍国主義による領土拡張政策が推し進められ、軍隊が増強された。工業の発展と軍隊の増強は、必然的に人口の増加をもたらす結果となった。
 1872年の人口3450万人が50年後の1920年には、約2倍近い5460万人に達した。しかし農地面積は殆ど増加しなかったため、農村から 溢れ出した余剰人口は、代替労働を求めて都会に集まってきた。しかし、これらの自由労働者を救済するための措置は十分ではなく、日清戦争により一時的に吸収した軍隊も、戦争が終わると、ただ失業者を増やすだけであった。行き場の無い人々は、食うための手段を自分達で解決するしか方法がなかったのである。特に農村の二、三男達は相続できる土地がないため悲惨であった。これらの解決方法として考え出されたのが外国への移民である。
  一方、19世紀末のペルー海岸地方の砂糖きび農場は、チリとの太平洋戦争(1879~ 1884)の荒廃から徐々に立ち直り始め、工場設備は近代化され、 生産量も増加してきた。さらに国際市場での砂糖の価格上昇により、砂糖業界は活気を帯びてきた。当時の海岸地方の砂糖きび畑の面積は75000ヘクタールで、労働者は約2万人であった。しかし、栽培面積の拡大に伴い労働力 不足が決定的になってきた。
  それまでの労働者の大半は黒人奴隷であったが、19世紀半ばに奴隷制度が廃止され、これに変わる労働力として、マカオや広東周辺からの中国人苦力が 導入されていた。これら中国人労働者の労働環境は、前述のマリア・ルス号事件を契機として中国政府の知るところとなり、中国政府は1887年にペルーへ調査団を送った。その結果、中国人移民を取り決めた「サウリ協定」を破棄 したのである。
   この代替策としてペルー政府は、アンデス地方の原住民を徴収したが、それでも不足を解消できず、日本の余剰人口を利用する事を思いつき、募集手数料1人あたり英貨10ポンドで、森岡移民会社などに募集を委託 した。記録によると、森岡移民会社の移民勧誘員は、3年で300ドル稼げるとか、かなり旨い話で釣ったようにも言われている。
 こうして集められた第一回目の移民790名が佐倉丸に乗り、1899年2月28日に横浜を出航した 。内訳は、新潟県から372名、山口県187名、広島県176名、岡山県50名、東京府4名、茨城県1名となっている。
  移民が開始されるに当たり日本政府は、中国移民の実情を知っていたので、最初から移民の待遇に関心を持っていた。日本人移民もある程度の環境の変化や、労働の厳しさは覚悟していたようであるが、行く前の話とは 大違いで、食事はパンと水だけだとか、寝る所は屋根がない莚の上であるとか、半分奴隷のような待遇の他、風土病やチブス、赤痢等が発生し、多くの仲間達が死んでいくのを見て次第に不安感が増し、監督者に反抗するようになった。
 これに対し農場主達は、武装ガードマンを派遣するなどで対抗した。中にはピストルで殺された移民もいた。しかし、農場主達は中国人との問題を経験していた ので、何とか解決しようとしたが、移民たちの不満は収まらず、家族達からも日本政府に陳情が寄せられので、1900年、日本政府の調査団がペルーを訪れ、全員を送還しよとした。しかし、農場主達が生活条件等の改善を約束した ため、送還は実現しなかった。
  それでも、こうした環境に耐えられなくなった移民の中には、アンデスを越えたアマゾンのゴム園で働けば高い賃金がもらえると言う噂を信じて農場から脱走し、着の身着のまま、裸足で雪のアンデスを超え、ボリビアやアルゼンチンへ逃げた人達がいる。しかし、過酷な山脈を抜けることができず途中で倒れ、未だにアンデスの山中に亡骸を埋もれさせたままになっている人もいると言う。これが、移民哀史で言う 「ペルー下り」 とか「ペルー流れ」である。
  しかしながら、日本へ帰っても農地を得られる保証もない人達は必死で耐えた。移民達の一般的な目標は、ある程度の資本を蓄え日本に帰ることであったが、様々な障害に会って希望を果たせぬまま、大勢の移民が遥かな異国の地で一生を終えた。
  森岡移民会社が行った渡航は、今年120周年になる1899年の第1回から1923年まで前後80回にも及び、運んだ移民は合計16000人余りである。この他にも、明治移民公社が3航海997名、東洋殖民会社が19航海882名を送っている。3社による移民数は合計102航海、男子15655名、女子2302名、子供207名となっている。
 しかし、このような苦難に耐えて住み着いた意志強固な人達は、次第に現地社会に同化していき、その子孫は今では5万人を超えている。そして遂には日系人大統領まで誕生させた。1999年 には最初に佐倉丸がペルーに入港してから100年目を迎えた。

【日系人排斥運動と国交断絶】
  フジモリ大統領の誕生を頂点に、一時期ラテン・アメリカで最も親日国になったペルーとの歴史の中でも、1940年(昭和15年)5月13日に起きた排日暴動は、ペルーと日本との関係の中で、最も忌わしい出来事の一つである。その真相を書いてみようと思う。
  1930年代のペルーは、米国資本と結びついた「40家族」と呼ばれた白人達が支配していた。彼らは日本人の経済的進出を嫌い、例えば、日本人がスパイを組織したとか、秘密軍事基地を作ったとか、武器弾薬を 陸揚げしたとか、まことしやかなデマを流して、日系人に嫌がらせをした。
  ペルーには他にも外国の移民がいたのに、特に日系人が狙われたのは、日米関係の悪化に伴う米国の反日ムード作りが背景にあったのである。また、ペルー社会には、日系人がペルーに移住してから、まだ40年も 経っていない新参者にもかかわらず、急速に成長した妬みもあった。その上、日系人の商売が既存のペルー人の小規模な店との摩擦を生み、ペルー人側が面白く思っていないと言う情勢に、米国が目をつけたとも言われている。 このように1930年代の末期には、国内に多くの不安定要素があり、いつそれが爆発してもおかしくない状況だったのである。1940年(昭和15年)5月13日に起こったリマの排日暴動は、このような社会的背景の下に起きた 事件である。しかし、そのきっかけは、日本人理髪業組合内部の、同胞相食む醜い抗争が原因であった。
  当時リマでは理髪店の数が飽和状況に達し、このままでは共倒れになることを恐れたH組合長が、市役所の役人を抱きこみ、傲慢にも独断で自分の商売敵22軒に閉店命令を出した。ところが、閉店を強制された側は、官憲にコネのあるF氏を立てて、市当局にこの命令を撤回させ、争いは法廷に持ち込まれた。H組合長は領事館を抱きこみ、日系新聞もH組合長側につき、F氏を攻撃した。
  事件が大きくなったのに驚いた領事館は、F氏に日本への帰国を命じた。ペルー国籍をもっているF氏を強制的に送還することは違法であったが、中央日本人会も領事館の決定を支持した。領事館はF氏を強制送還するため逮捕しようとF氏の家に侵入した。この時たまたま同家にいたペルー人のマルタ・アコスタと言う女性が巻き込まれ、死亡してしまった。悪い事に、この女性の親戚に地元新聞の社長がいたため、新聞は連日、日本人ボイコットを 煽動する悪質な排日記事を書きたてた。険悪なムードが市中に流れ、ついに破局がやってきた。
  市内のガダルーペ中学の学生が、排日スローガンを書いたプラカードを手にして市中を行進し、これに野次馬が加わり、日本人商店に投石を始めた。暴動や略奪はやがてリマ市内から隣接の港町カジャオに飛び火し、さらに 地方の都市へも波及した。しかし、不可解にも警察は介入せず、制止さえもしなかった。暴動は5月13日から翌14日の夜まで続いた。この結果、日系人620家族が被害を受け、被害総額は当時の金で600万ドルに達した。このうち の54家族316人が再起不能の被害を受け、1940年7月16日、日本郵船の太平洋丸で帰国を余儀なくされたのである。
  悪夢のような暴動は2日間で終わったが、日本人達は暫くは、このショックから立ち直る事が出来なかった。ここで不思議なのが中国人の動きであった。今までは暴動が起きれば中国人の店も被害を受けて いたのに、今回は店先に青天白日旗(今の台湾の国旗)を掲げ、高見の見物をしていたのである。このようなことから、当時、日本軍が中国大陸への侵略を続けていたために、中国人が煽動に1枚噛んでいたのではないかとの憶測も流れた 。
   ところが、事件から11日目の5月24日、リマ市一帯は大地震に襲われた。 アドベ(日干し煉瓦)アドベ造りの家は大被害を受け、大勢の死傷者がでた。誰言うともなく、「罪の無い日系人をいじめた天罰だ」との噂が流れ、科学的知識に乏しい妄信的カトリック教徒だった 一般大衆は、改悛の情を顕わにした。地面が揺れ戸外に飛び出した人々の中には、「私は日本人に何にも悪いことはしませんでした」と、手を合わせ、膝まづいて天に絶叫する女達が沢山いたと言うことである。
  地震が収まってから略奪した品物を日本人の家に返しに行ったペルー人もいたと言われている。この地震は全くの偶然とは言え、高ぶっていたペルー人の反日感情を抑える上で何よりの役割を 果たした。まさしく神風だったのである。この暴動は一応収まりはしたが、日米関係の悪化と共に、時代は確実に破局に向かって進んで行ったのである。
  ペルーとの国交は、第二次世界大戦でペルーが連合軍に組し、日本との国交断絶を声明した1942年(昭和17年)1月24日に途絶えた。日系人は財産を没収され、米国に強制的に追放されたり 、日本に強制送還されたりした。戦争終結後も再移住を認められない人達も大勢いた。このように一時期、ペルーは反日国であり、”日本人移住者の受難の時代”があったのである。 それから10年後の1952年(昭和27年)6月17日、日本とペルーとの国交は再開された。

【天野芳太郎氏の足跡と博物館】
  天野芳太郎氏は1898年(明治31年)7月2日、秋田県の男鹿半島で生まれた。父は地元で土建業「天野組」を営んでいた。少年時代に押川春浪の冒険小説を愛読していて、海外への雄飛に憧れていた。狭い 日本から飛び出したかったのである。1万円の貯金が出来た1928年(昭和3年)8月、遂に日本を離れウルグアイに着いた。ここでスペイン語を学び、後パナマで「天野商会」を設立してデパートを始め、チリのコンセプシオンでは1千町歩の農地を取得し農場経営を営み、コスタ・リカでは、 「東太平洋漁業会社」を設立して漁業に乗り出した。さらに、エクアドルではキニーネ精製事業を、ボリビアでは森林事業を始め、ペルーでは貿易事業に商才を発揮していたが、第二次世界大戦でペルーが日本と国交を断絶したため強制送還された。
  しかし、ラテン・アメリカへの夢と情熱は絶ちがたく、持ち前の執念で、戦後の1951年(昭和26年)、密出国のような形で 日本を離れた。ところが、乗船したスエーデンの貨物船クリスターサーレン号(4900トン)が太平洋上で暴風雨に遭遇し、船体は真っ二つに割れて沈没、13時間の漂流の末救助され、日本へ送還された。その後1か月足らずの後に 再び日本脱出を果たし、米国、パナマを経て、運良くペルーに着いた。勝手知ったペルーに渡ってからは、魚粉、魚網などの製造事業を行いながら、青春時代からの夢である、古代アンデス考古学研究への挑戦が始まった。
  戦前からのアンデス遍歴で、知識は十分に持っていた。未発掘の遺跡を求めて、リマ北方200キロのチャンカイ渓谷にとどまり、いつ果てるともなき発掘作業が続けられた。それから20数年間の地道な遺跡発掘の労苦が実り、2300余点の貴重な宝物を収集し、その成果は世界に知れ渡った。
  天野氏自身はその過去について多くを語らないが、戦前戦後を通して、人には言えない労苦を重ねてきた財産を、1963年に念願の天野博物館を建設する際、殆ど使い果たしたと言われる。 各国からペルーに来る皇族、政府要人の殆どが、この博物館を見学に訪れると言う。日本で開かれたいくつかのインカ展にも出品した。米国や欧州、中南米諸国などの展覧会にも毎年のように出品を求められている。
 ペルーの古代文明研究者には全ての収蔵品が開放されており、写真撮影や、出版にも無料で便宜が供与されている。チャンカイ文化の"つづれ織り"など7点が、ペルーの切手図案に採用されている。 日本人を始め世界の50余か国から同館を訪れる観光客は、年間約6000人に上る。それも申し込み制による無料である。
  天野氏は、「ペルーの民族的遺産を、外国人の私が有料で公開することに抵抗を感じる。日本へのイメージを少しでも和らげるために無料に徹したい。 研究者が誰でも展示品を手にとって見られるように、私の独創的な配列をしている。ただ、一般公開にすると、館員や警備員の増員などの問題が出てくる」と語っていた。
  しかし博物館の維持のために、日本の文化交流調査団からの「募金箱」を設置したらとの提言を受け、入館者から募金の形で寄付を受けている。人件費を含む運営費は年間凡そ1600万円かかる と言われているが、2000年に入り入館者数も回復し、どうやら運営の目処がついたと伝えられてきた。
  特に目立った記念日もないなかで、日本人移民120周年に視点を当てて、余り知られていないであろう、過去の日本とペルーの関係について書いてみた。フジモリさんが東京で隠遁生活をしていたのは、私が毎月行く目黒のラテンサロンのすぐ横 の広い道に建つホテルの6階を殆ど全階借切りだったそうだ。黙って日本にあのままいれば、日本人なんだからなんの問題もなかったのに、何故帰ったん(行ったん?)だろうと今でも通 30る度に思う。      終わり

写真説明、上から・・・①英国軍艦アイアン・デユーク号 ②神奈川県令:大江卓 ③高橋是清が殺害された家(2階で射殺された)現在小金井の建物博物園に移設されている ④1899年ペルーに着いた最初の日本人移民 ⑤移民船が着いた桟橋の柱だけが僅かに残っている(ペルー南部カニューテ海岸) ⑥当時の桟橋を復元した実用桟橋 ⑦カニューテ、ナスカ辺たりより南部のアンデス砂漠地帯、左端の道路はパンアメリカン・ハイウエー ⑧天野芳太郎博士 ⑨天野博物館

(2019.6.25記)

 

四 季 雑 感 (46)

樫村 慶一
 

- 安いワインが増えているが、最高級ワインの条件とは -

  2019年2月1日、日本とEUとの間でFTPが発効し、ヨローッパ産の色々物品の関税がゼロになったり、安くなったりしました。ワインもその恩恵を受け関税ゼロになりました。ゼロになったといっても、今までだって1リットル当たり40円だったんだから、たいしたことはないかもしれませんけど。
 ところで、ヨーロッパと並んで、アルゼンチンとチリが世界の主要ワイン生産国であることを知らない人は意外に多いものです。これは、それなりの宣伝をしない日本のマスコミだけではなく、チリやアルゼンチンの業者とか政府の責任でもあると思っています。 理由はいろいろ考えらますが。彼らの目が宗主国であるヨーロッパを向いていることも大きな原因です。しかしチリは2007年のFTP協定ができてワインの関税がゼロになり、怒涛の如く日本に流れ込んできました。最高ブランドのコンチャ・イ・トロ(貝と雄牛;創業者の姓、本名はドン・メルチョール・コンチャ・イ・トーロと言う)の700円と言うのを見ました。流石に飲む気にはなりませんでした。4番絞りくらいの動物の餌にしかならない、搾り滓でしょうから。数年前まで、ワインに関する本にも、アルゼンチンやチリを、いわゆる新世界(近年ワイン生産を開始した国)のワイン国(注1)と同等に扱っている、あきれた自称専門家と称する輩がいました。私は、2回ほど出版社へ抗議しましたが、勿論返事などはありません。1772年頃のヨーロッパの広範囲にわたる葡萄の樹の立ち枯れ騒動の時、チリのワインの苗を逆輸出して救ったという話なども勿論知らないだろうと思います。ヨーロッパ移民が持ってきた葡萄の樹を里帰りさせたのです。日本にもワインが普及するにつれて、”エセ通”が増えてきました。

(注1)北米、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、イスラエルなど。ワイン栽培ができるのは元来南北緯40度までと言われていましたが、最近は栽培法の発展や気候変動で変わってきたようです。

 古い話になりますが、山梨県でワイン騒動と言うのが起きました。もう30年近い昔になりますか。覚えている方もいるでしょう。中小ワイナリーが生産量を増やすために外国の原酒を混ぜて増量していたのです。チリの原酒も大分入っていたと思います。ステンレスのコンテナにゴムの袋をいれ、原酒で一杯になるとコンテナと同じ大きさ形になるという寸法です。そのコンテナは輸送船の甲板に積まれ、チリ唯一の貿易港バルパライソから、日光をたっぷり浴びながらピチャピチャ揺れながら赤道を越え太平洋を渡ってきます。ワインは赤道を越えると味が落ちると言われています。そうした原酒を混入したワインに原産地国名を入れる事に山梨県のワイナリーが猛烈に反対し揉めたのです。たとえば、原産地チリと書いたら、世界的有名産地とは知らない人間が多い日本では、売れ行きに大きな影響を与えると危惧したのです。結局入れないことで落ち着いたと思います。
 お正月のテレビ番組で、本物と偽物を当てる番組があり、ワインも1本100万円もするものと、5000円程度のものが提供され、目隠しして当てるのですが、外れる人も結構います。私はアルゼンチンに4年弱いまして、毎晩妻と娘とワインを1本半飲んでいました。当初は飲んで車の運転もしました。あとで、やっぱりブレーキをかけるタイミングが遅れるので止めましたが。飲んだワインのエチケッタ(ラベル)のコレクションをしましたが、そのうちブエノス・アイレス市内で売っているものは約500種類で殆ど飲みつくしてしまい、全国を旅したときなど新しいラベルをみつけコレクションに加えるのが楽しみでした。
 それだけ飲みましたが、単に美味しい美味しくないという程度の判定はできますが、ワインのクラス当てはむずかしいことが良くわかりました。現在ではお酒専門店はもちろんのこと、コンビニでもスーパでも、大手カメラ・電気製品屋まで安売りをやってます。今でも1000円程度のものと5000円クラスのものとは、おそらく80~90%位は判定できると思いますが、5000円と10万円程度のものと比較はとても自信がありません。ロマネ・コンティは飲んだことがないのでどんな味がするのかしりませんが、国内で売っている5000円クラスのワインは、アルゼンチンやチリでも最高クラスです。このクラスになると、原産国でも恐らく最高品種だと思いますので、素人には100万円クラスと見分けがつかないかもしれません。コク(注2)や香りで良し悪しを当てるのはそのくらい難しいものです。

(注2)コク: 味の濃さと、ワインが喉を通るときに、ゴクンと感じる心地よい響きのこと。

 南米のワインにはfino (フィーノ、ファインのこと、最上級品)reserva (レセルバ、リザーブのこと)común(コムーン、コモンで大衆品)の3つのカテゴリーがありますが、フィーノこそが本当の味で、文句なしに美味しいものです。しかし防腐剤を入れてないため輸出入ができないので国内消費用です。日本などでは、最高級品は大使館にでも行かないと飲めないでしょう。
 そんな大国の一つアルゼンチンで、かってワイン専門誌が発刊されました。その中で、「良いワイン」の定義が書かれています。体裁ぶりやで理屈ぽい性格のお国柄を表したもので、29箇条もあります。具体的にどうゆうことなのか、重複している部分もあるし、ちんぷんかんぷんな個所も沢山あります。1本何十万円とか100万円などと言われるワインはこの条件を満たしているのでしょうか。勿論原文はスペイン語なので、稚拙ですが訳してみました。兎に角一度お読みになってみて下さい。

【良いワインの特徴】☟ 【例えばこのような】☝
① 果物である。 畑にふさふさと実る光景の香りを思い出させる・・・
② 幅の広さ。

中身の構成と”こく”が調和よくバランスが
取れている・・・
③ 調和の良さ。 色合い、香り、すばらしい味の・・・
④ 香りのよさ。 ブーケの香りのように、いつまでも長持ちする・・・
⑤ 香りの発散性がある。 植物性の香水がまき散らすような・・・
⑥ ビロードの如き滑らかさ。

美食美飲家の肥えた舌を優しく撫でるような
柔らかい・・・
⑦ 豊満さ。 表現豊かに、その存在を誇示するような脂肪質の・・・
⑧ 気品がある。 個性にあふれた(彩られた)・・・
⑨ 残る記憶。 一度飲んだら忘れられなくなるように・・・
⑩ バイタリティ。 バランスがとれて永遠に変わらぬ・・・
⑪ 刺激のあるコク。

濃度と、良いワインの特徴と、心地良い味が
合体した・・・
⑫ たくましさ。 香りや”コク”とたくましさが良く調和した・・・
⑬ 繊細さ。

優しく軽やかな、粘っこい柔らかさ、蜜に濡れた上品な唇の香りのような・・・
⑭ 著名な産地。 栽培地方と、そこの葡萄畑を彷彿とさせる・・・
⑮ 卓越さ。 独特の個性で差をつけた・・・
⑯ 優雅さ。 特別に栽培され、気品の高い品種だけが持つ・・・
⑰ 包装。

愛好家を完全に満足させるデザインで、最高品種らしい体裁で人目を引く・・・
⑱ 甘美さ。 夢を見ているような心地のする・・・
⑲ 誠実さ。 自分だけが持つ特徴を一途に保ち続ける・・・
⑳ 新鮮さ。

果物の香りと、もぎ立ての瑞々しさがいつまでも
変わらない・・・
㉑ 生命力の長さ。 強烈な個性、持続性、品質がいつまでも変わらない。
㉒ 洗練度の高さ。

デリカシー、エレガンス、卓越性、円やかな香りを
持った・・・
㉓ 粒の質。 エッセンスと脂肪分に富んだ・・・
㉔ 丸み。 口の中で調和の良い(溶けるような)・・・
㉕ たくましさ。 適度なアルコール分と固さを持った・・・
㉖ 舌の感覚。 個性的なアルコールの素晴らしい刺激を受ける・・・
㉗ ワインらしさ。 純粋なアルコール分、優れた香り、味が醸し出す・・・
㉘ 生気があふれる。

ほのかな酸味があり、理想的環境で保存され、
よく冷えた状態で・・・
㉙ 甘酸っぱさ。

ふんわりしたベッドで発散する、成熟した女性の肌
の如き・・・

 いかがでしたか。ロマネ・コンティだって、合格するかどうか怪しいものです。よほどのワイン好き人間が、暇にかまけて作ったんだと思います。ワインを飲むとき、たまにはこんな、不可解な定義とやらを思い出してみてください。 終わり

   (2019. 2.25記)

***

 

四 季 雑 感 (45)

樫村 慶一   
 

- 八十路の頂点に立つ、先行きは霧の中 -

 今年は、年紀的には明治151年、昭和94年、2019年、どれも半端な年である。私も89歳で、米寿と卒寿の間のなにも祝いのない齢である。しかし、80代の最後で、このまま無事で過ぎれば、来年のオリンピックがみられる事になる。でも、オリンピックを特に楽しみしているわけではないし、先行きには一瞬の闇底が待っているかしれないし、どこまでも平坦な大地が続いるかもしれない。いずれにせよ、先行きは霧の中だ。不安な気持ちで先行きを遠望するのはいやなので、もっぱら、過ぎにし来し方だけを眺め、懐かしきこと、つらかったこと、嬉しかったこと、楽しかったことなどを想いだすばかりである。前回44号も、やっぱり回顧物だったけど、今回もそんな風なものになりそうなので、近年の、嫌でも目や耳にする不快な内外の世相(注1)を振り払って、最近印象深いことを書いてみようと思う。しかし、これらはあくまでも、私個人の勝手な思い込みや偏見であることをお断りしておく。

「老人ホームの実態」
 昨年、長年の親友が老人ホームに入った。早速見舞いに行った。高額の入居金を払ったのに、まるで刑務所のような(入ったことがないので本当は比較できないけど)感じである。現金は一切持てない。認知症が4割位いるので、その人たちが、盗まれたとか、無くしたりするとか言いだすので禁止している。友人は頭は正常なので、自分で管理できるんだから、そうゆう人には持たせても良かろう、と事務所に言ったが規則だと言う。正月でも雑煮が出ない。喉に詰まらせる恐れがあるからという。何かあった時の責任逃れである。結局、来客に自動販売機の飲み物はおろか、食事のもてなしもできない。彼が肉が食べたいと言うので、私が車いす押して近くのレストランへ連れて行き、見舞客の私が入居者の分まで払うことになった。
 食事時間に食堂にはいった。4人掛けテーブルに座った入居者は、それぞれの視線は全く相手をみずに、あさっての方角を見て一言も言葉を交わしていない。黙々と食べ、だまって部屋へ帰る。1フロアーに14~ 5人入居者がいるそうだが、3~4割が認知症で、勝手に外へ(徘徊)出ないようにエレベータは暗証番号で開くようになっており、時々変更すると言う。違う階の入居者同士の交友はおろか、同じ階の入居者同士の話し合いも全くないという。部屋も狭いから私物は殆ど持ち込めない。パソコンをやらない彼は、面白くもないテレビを見てCDやDVDを繰り返し見聞きして、マッサージとか入浴とか、幼稚園児のやるようなお遊びなどやって、死ぬまでいるなんて、正常だから言えるのかもしれないが、とてもたまらないと感じた。暮れに再度訪問したが、やはりストレスが溜まってきていると本人も言っていた。自分のことを考えたが、必要になった時の心身状態によるので、今は考えないことにした。

「新しいタクシーの乗り心地」
 最近、ロンドンのタクシーを思い出させるような、トヨタ製の黒塗りの軽自動車に毛の生えたような外観のひょろっとしたタクシーが増えてきた。横腹に「2020 Toko」と書いてある。私は、昔人間なので、従来のクラウンとかセドリックの、横幅の広いオーソドックスな2,000CCのセダン形のものが好きだ。ところが、元日の夜、これに初めて乗った。そして驚いた。中が従来型より広いのだ。理由は、前輪駆動なので床の中央部が盛り上がっていないこと、外人にも向くようにと天井が高いこと、助手席が通常は前に押してあること、さらに、車載カメラが完備なので強盗除けのアクリル板の仕切りがないことなどである。しかも1500CCのハイブリットなので音も静か。乗り心地はとても良い。百聞は一見に如かず、とはよく言ったものだと改めて諺に敬服。

「馬鹿な奴がいるもんだ」
 昨年の暮れの新聞に、名古屋の方の老人女性が1億円を何回かに分けて宅急便で東京へ送り、詐取されたと言う記事があった。きっかけは、なんだか裁判からみの手紙がきて、家族にも絶対話さないようにと書いてあったそうだ。最初は極く少額を送ったら、次第に理由が難解になり、金額も高くなり、何回かにわたって定期預金を解約したり、生命保険を解約したりして、合計1億円になったとか。150%馬鹿としか言いようのない事件で、他人事ながら腹が立った。そういえば、パソコンのメールにも時々変な請求書メールがくる。100人に送って馬鹿の一人か二人がはまってくれれば商売?になるんだろう。これも諺どうり、浜の真砂が尽きるまでは無くならないのだと思う。

「コニカ・ミノルタのCMを見て」
 前からやっていたのに気が付かなかったのかもしれないが、先日(昨年暮れ)「コニカミノルタ」のCMを見た。コニカ、ミノルタと言う名前を聞き、なぜか胸に、えも知れぬ懐かしさが沸き起こり、すっかり頭から消えていた父親を思い出した。親父は、昔、新宿伊勢丹のちょっと手前にオリピックという洋食レストランがあって、その角が路地になっていて、そこを入ったすぐの所に写真屋の店をだしていた。昭和14,5年~18年(1939,40~1943)頃のことである。中野に住んでいた私は、ときどき親父の店へ遊びに行き、カメラを弄り回しては叱られた。当時の日本はまだ戦争中という気分はなく、それなりに平和であった。勿論写真もマニアの間では上品な趣味として楽しまれていたと思う。
 その頃のカメラと言えば圧倒的にドイツ製のもので、今覚えているものでは、コンタックス、ライカ、イコンタ(注2)、バルダックス、ローライ(注3)、ロボット(注4)、エキサクタなど、まだ他にも沢山あったように思う。カメラの先進国、米国は映画用カメラは結構いいものがあったのだろうが、子供の頃の私が覚えているのは、普通のカメラとしてはコダックのベス単(注5)という、玩具に毛の生えたようなものだけだった。
 「コニカ」と言う名前は戦前から一般的に言われていたのかどうか分からない。昔は、創業者の小西六兵衛の名前をつけた、「六桜社」の製品を「コニシロク」と言っていた。社章は桜の花びらを模したものだった。フイルムはサクラフイルムがほぼ独占していたと思う。そして国産カメラはコニシロクの「パール」(注6)シリーズが王者であった。それに追随したのがミノルタである。パールはイコンタの真似ん坊だったけど、イコンタを買えない人には随分と人気があったように微かに覚えている。今でも新宿の中古カメラ屋に並んでいる。当時から日本のカメラ、レンズは優秀なもので、小西六のパールのレンズも最高クラスで、一般向けがオプター、高級品がヘキサーだったように思う。これらと肩をならべていたレンズが、当時の日本光学のニッコール、高千穂光学のズイコーであり軍部に採用され、望遠鏡や照準鏡などに使われていた。ニッコールは今のニコン、ズイコーはオリンパスである。
 戦前のカメラ事情など、インターネットで検索して、ウイキペディアで調べれば、正確に詳しく出てくると思うが、それでは、折角の少年期の”今でも薄ら覚えに頭に残る貴重な記憶”が台無しになってしまいそうで、それはできないし、そっと胸にしまい続けて行きたいと思っている。  おわり

 四季雑感は、まだまだ続けます  (2019.1.9  記)

(注1) 米中貿易戦争の影響、孤立主義、米国の横暴、宗教対立、民主主義の危機、気候変動、大地震の切迫、格差拡大、一強政党の強引な支配、ITの発達により落ち着かない世相。 一方、医学の進歩は大きなメリットだけど、交通手段の発達はすでにあまり恩恵を感じない、むしろ昔のゆっくり走る列車が懐かしい。

(注2) イコンタは蛇腹式カメラで、ベビーイコンタ、セミイコンタ、イコンタ、スーパーセミイコンタ、スーパーイコンタがある。スーパーと付くのには自動焦点装置がついている。ベビーイコンタはセミ版フイルムを使用、それ以外は、ブロニー版フイルムを使用。

(注3) ローライは2眼レフで2種類ある。一般向けはローライコード、高級品はローライフレックス。フイルムはブロニー版。

(注4) ロボットは今のアニメのように、連続シャッターが切れ連続画面が撮れるユニークなカメラだった。カメラの下にゼンマイ巻き上げ用摘みがついている。小型だが意外に重かった。

(注5) ベス単とは蛇腹式カメラで、ベスト単玉の略である。ベスト版フイルムを使用し、レンズは直径5mm位のガラス玉一枚だけの固定焦点、シャッター速度は、B、25分の1、50分の1、100分の1。玩具みたいだがよく写った。

(注6) パールはコニシロクの至宝カメラ。ベビーパール、セミパール、スーパーセミパールの3種類がある。3種ともイコンタにそっくりで、スーパーパセミパールはイコンタ同様自動焦点装置が付いている。

(注7) イコンタ、パール、バルダックスは蛇腹式、ローライは箱型、それ以外はみな鏡胴型で35ミリフイルムを使用する。

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四 季 雑 感 (44)

樫村 慶一   

― 平成も残り僅か、遠い想い出は尽きず ―

 今年も残り僅か、猛暑、酷暑が続いた夏は、記録上初めてと言う現象もいくつかあったが、何十年振りと言うのもいくつかあった。と言うことは過去にも同じような現象があった証拠であり。異常は始めてじゃなかったということである。なんのかんの言っても秋は確実にやってきた。そして、明治150年とか言われたけど、大した国民的行事もなく、またKDD創立65年も全く何にもなく、今年も終わりそうである。さらに、私の米寿も過ぎる。果たして卒寿が期待できるかどうか、気になる季節でもある。
 私は、妻が逝ってから、できるだけ友人を増やし家に籠もらないようにしてきた。お陰で旧KDD以外の友人知人が増え、外出する機会も増えた。男やもめの、ひょっとしたら鬱になるかもしれない境遇と紙一重の生活が、奈落へ落ちないのも、良い友達に恵まれたお陰だと思っている。そう言った付き合いの中に、「古い映画を鑑賞する会」と言うのがある。毎月第2日曜に行われ、邦画と洋画の2本立てだ。主催はラテンアメリカ音楽を通した古い友人だが、それに誘った旧KDDのHさんが高校時代の友人を誘い、またその人が誘うと言う連鎖が続き、今で男女合わせて10人近くになった。終ってビヤホールで遅い昼食を、わいわいがやがや言いながら取る。楽しい時間である。幸い今のところは、生活面も健康面もまあまあなので, 恐らく一瞬に過ぎていくであろう残りの人生を、このまま終わらせたいと願っている。
 古い映画は邦画、洋画ともに1930年代頃から1955年頃までのものが多く、洋画はアメリカ物が大半だが、すでに1940年代のカラー映画の色彩の鮮やかさには驚かされる。邦画は、戦前の盛り場、電車バスなど乗り物、住宅風景、服装、きちんとした言葉使い、畳にちゃぶ台、と言う日常の生活事情など懐かしい場面が映し出され、良き時代を偲ぶことができる。 平成も来年で終わる。「明治は遠くなりにけり」はもう過去の言葉になってしまった、間もなく「昭和は遠くなりにけり」になるのだろう。私は昭和の大半63年間(元年も最終64年も1週間ほどなので省略)のうち58年を生きてきた。その中で、一番平和な時代と言うか、静かな時代、懐かしい時代と感じるのは、昭和10~15年の間位だと思う。しかし、この時代にこそ、その後の日本の悲劇の幕が静かに上がっていたのだ。11年には226事件が起き、12年には盧溝橋事件を契機に日華事変が始まり、14年にはノモンハン事変(と言っているけど間違いなく日ソ戦争だった)で大敗したりした。そして密かに満州国を世界に隠れて強固にしていた。それでも、世の中はまだまだ平穏無事で、服装は女性の多くが普段でも和服だったし(銘仙とか絣で、普段は上等なものは着てなかったけど)。男は服装ですぐ職業が分かるような姿だった。サラリーマンは三つ組の背広にラシャかパナマ帽子をかぶりカバンを下げていた。商店の店員は絣の着物にハンチングをかぶっていた。夜は銀座や新宿の盛り場のダンスホールが賑わい、庶民は屋台でひと時を楽しんでいた。しかしそれは、一般市民には分からない嵐の前の、一時期の静けさと言えたのかも知れない。今じゃちっとも珍しくない強盗や殺人事件が大ニュースになる時代だったんだから。子供心でも覚えているのは、説教強盗とか、阿部お定事件とか、向島おはぐろどぶのバラバラ事件などで、新聞の3面記事の大半を占めていた。
 何よりも私がこの時代を、良き時代と言うのは、私にとっての懐メロがこの時代に一番沢山誕生しているからである。特に古賀メロディーに歌手は藤山一郎、ディック・ミネ(戦争が始まると敵性名前は怪しからんと言われ、ミネ・コウイチと名乗っていた)霧島昇、東海林太郎、灰田勝彦など、女性は佐藤千夜子,二葉あきこ、渡辺はま子、淡谷のり子などなど、今の人達は知らない名前ばっかりだろう。年頃は5歳~10歳の子供が、なんでこの時代を懐かしむのか自分でも分からないことの一つである。子供のくせに、その頃の歌を懐メロというのも辻褄が合わない話なんだが、考えてみると、父親が明大の古賀政男と同期で彼のマンドリン・クラブに入っていて、しょっちゅう古賀メロディを口すさび、母親もそれを歌っていたのを聞いていたから、自然と覚えたんだろうと思う。それに、大人になってから振り返って、ガキ仲間と草野球をやったこと、模型飛行機を飛ばしよその家の屋根に落ち、おそるおそる登ったこと、哲学堂の垣根を壊して侵入(当時は入園料をとられたので)したこととか、ばっけが原(西武新宿線の新井薬師前と中井の間の原っぱ)の下水の土管に入って出られなくなって大泣きしたこと、南京や武漢三鎮など陥落の度に行われた提灯行列に大はしゃぎしたことなどが、はっきりと思い出として蘇ってきたからだろうと思う。まだ少しは「昭和モダン」の気分が残っていた、遠い遠い時代のお話である。

 話は全く変わるが、昨今の国会で現代版四谷怪談のお岩さんみたいな女大臣と共に主役を務めている、桜田五輪担当大臣を見て懐かしい友人を思い出した。k-unetの会員にはどのくらい知っている人がいるか分からないが、私と同年代の昔の東京電報にいた人は知っているはずだ。栃木の片田舎から出てきた斎藤吉雄さんである。顔つきはもとより、体形、動作と言いそっくりだ。だから私には桜田氏が憎めない。大正末生まれなので大先輩だったけど、3番勤務の明け番には、朝から軍艦マーチが鳴り響く神田のガード下のパチンコ屋に、閉店の蛍の光を聞くまで粘っていたことを思い出す。いつも仲間の廿楽軍治さんと3人組で、資金が尽きると順番に近くの根本質店に時計を曲げに行った。KDDビルが大手町にできた1958~60年頃のことだ。お二人共すでに亡い。昔話を書いていたらきりがない。今年はこの辺で、来年もどうぞご愛読下さるようにお願いして、終わりとしたい。
 
 【写真出典:(株)国書刊行会1986年2月10日発行 「流行歌と映画でみる昭和時代」より】
 【写真説明:左上から左右交互に:①愛染かつらの映画ポスター ②ちゃぶ台を囲む一家団欒
  ③226事件の反乱軍 ④南京占領の万歳 ⑤和服姿 ⑥逮捕された阿部お定 ⑦提灯行列 
  ⑧故斎藤吉雄さん(1961.7)。


Feliz Navidad y Pro'spero Año Nuevo  (2018.11.20 記)

 

 

四 季 雑 感 (43)

樫村 慶一   
  

異常気象は太陽に元気がないため

 なんとも早や、言いようのない暑さが続く。猛暑、酷暑と言う表現よりもっと刺激的な言い方はないかと考えてみた。激暑とか、極暑とか、殺暑とか、絶暑とか、狂暑とか、しかしどれをとっても、やっぱり猛暑、酷暑より響きの強い表現にはならない。7月16日(月)の朝日新聞の文化欄に、大変興味のある記事がでていた。以前にも、この欄で書いたたことがあるが、今の太陽は活動が静謐になり、フレアが殆ど無くなり黒点が消えた。この現象をマウンダー極小期と言い、地球寒冷化の傾向である。

 前回の極小期は1645年ころから約70年間続いたとかで、ロンドンのテムズ川が凍結したり、日本では飢饉が続いたと言われる。マウンダー現象ではないが、最近では1991年のフィリッピンのピナトゥボ火山が噴火した後、上空に広がった火山灰による冷夏と長雨で、米が記録的不作となりタイ米を輸入する騒ぎになった。太陽活動が低下すると大規模噴火後のような異常気象が何十年も続くことになる可能性があると言われる。異常気象が異常ではなくなると言うことである。

--- 太陽活動が低下すると地球の地磁気も弱まり、銀河宇宙からの宇宙線を防御する能力が弱まって、紫外線や赤外線やX線や、もろもろの銀河宇宙線が許容量を超えて地球に降り注いでくる。京都大学の余田成男教授は、「このうち紫外線はオゾン層に吸収され、その反応で成層圏が温められ地球の気象に異常を起こす。過去の地球の解析でもオゾン層の紫外線吸収が気象に影響を与えていたことが分かった」と言っている。異常気象が続けば農作物の不作から慢性的食糧不足となり、社会は混乱を深める。特に途上国は栄養不足による伝染病の蔓延などの被害を受けやすいし、世界経済への影響も計り知れない。その他にも気象以外への影響も色々ある。こういった影響を与える太陽活動の低下が近く始まるかもしれない、と言う予測が相次いでいる。国立極地研究所の片岡龍峰准教授は「次の太陽活動の周期がさらに弱まる可能性は高く,大極小期に突入してもおかしくない」と語っている。名古屋大学の宇宙地球環境研究所の草野完也所長の分析でも、「次の太陽活動の活発さを決めるとされる太陽の磁場の強さが近年弱まっている。磁場はいったんなくなると復活には時間がかかる、大極小期がいつ始まるかはまだ分からないが、必ず起きる」と語っている。地球温暖化と太陽活動の低下が同時に起きれば、影響が相殺される可能性はある。ただ、その間に温室効果ガスが十分削減されずに再び太陽活動が活発化すると、気温上昇に歯止めがからなくなり、最悪のシナリオもありうる、人間が自然を乱し続けると予測のつかない事態に陥りかねない」と警告している。 (7月16日の朝日新聞の記事より)---

 最近来た台風12号のように、全く逆方向から侵入してきた台風なんて、専門家でも想定できなかった現象だろうし、テレビを見ていて、九州にやってきた台風の進路予想が上下逆じゃないのか、とさえ思う現象だった。おそらく気象専門家も頭を抱えていたに違いない。恐ろしい世界になってきたものだ。先日生まれた曾孫を抱いて、悪い時代に生まれてきたな?と心の中でつぶやいたが、当たらないこと祈るしかない。

 

寿号を貰うということ

 7月29日、寿号(生前戒名のこと)を授かった。授かる儀式を「授戒会(じゅかいえ)」と言う。自分で作った戒名を、形の上では阿弥陀如来からもらったようにお寺は扱う。爾後、あなたは仏教徒になられました、と宣告された。冥加金も著作権は私にあるのに、100%お寺につけてもらった場合と同じだ。しかもこの種の収入は所得税がかからないから丸儲けである。坊主丸儲けとはよく言ったものだと思う。ただ、生前に付けるのは葬式の時にあわててつけてもらうのと違い大分安く上がるし、何よりも自分で考え一番気に入った名前にできるのが有難い。もらう?前には五箇条の誓約をする。①殺生をするな、②泥棒をするな、③不倫をするな、④嘘をつくな、⑤酒を飲むな。と言う五つである。④まではいいが⑤はいけない。これをやめたら生きてる楽しみが半減してしまうからだ。

 私は、神仏を信じるかどうか、と聞かれれば絶対に信じていない。キリストだって翌日生き返ったというのなら、医学的にあり得るが3日後なんてナンセンスである。仏教界にしても釈迦は確実に生存した証拠があるが、それ以外の仏陀である阿弥陀、薬師、大日など、また衆生の援助者とされる菩薩の観音、弥勒、文殊など、密教固有の不動明王など、もっといろいろいるがこれらが実際にいるとはどうしても信じられない。でもそれぞれを本尊とする寺に行くとちゃんと像がある。おそらく昔の、芸術的才能を持ち、色彩感覚の優れた人物が、想像しながら描き出した架空の偶像がオリジナルなんだろうと思っている。仏教徒になったなんて全く意識はない。そうゆう意味で神仏に関する限り、私は完全は二重人格である。

 残り少ない寿命であり、主治医からは「あなたは、長期療養型の終末ではなく、血管系(心臓、脳梗塞など)で、突然逝くんじゃないか」と言われているので、できるだけ身の回りを片づけ、葬式もできるだけ簡素に経済的にと思ってやったことで、後は葬儀社との葬儀の生前予約でもしておこうか、などと考えている。でも、まだ体は普通に動くし、食慾はあるし、酒はうまいし、まだしばらく、この四季雑感も続けられそうな予感はする。幸いなことに。では 次回まで 
(2018.8.1記)

 

四 季 雑 感 (42)

樫村 慶一

日本列島は毎日ゆれています  

 もう4月も半分が終わった。どんどん妻の元へ行くときが近づいてくるのを感じる。ところで、先日来話題になっていた、年金の過少支給の問題は、私も該当者だった。たしかに、昨年、扶養家族申告書というA3の大きな紙がきた。昨年までは葉書だった。妻に先立たれた男やもめは扶養者がいないので、出しても出さなくても同じだろうと、たかをくくっていたのだが、今年になって2月分と4月分の支給額通知が来てその少なさにびっくり、今まで見たことがない低額だ。怒りをもって年金事務所に照会した。こうしたサービスの常で、次々と番号を押して要件を絞って担当者に行きつくのだが、行きついたのは男の担当で、あまり親切な感じはしないが、とにかく用紙を送りなおすということで話は終った。その後、年金機構のホームページをみたら、各区に年金事務所があるので、私の区の事務所に電話した。一発で出て担当に繋いでくれた。やっぱりマニュアル通信は気持ちがこもる。そして出てきた担当の女の子もそこそこに親切丁寧である。そりゃそうだろう、相手は年金をもらっている人間なんだから、若いものがいるわけはない、自分の父親とかお爺さんとかを想像するだろう。本部は数が多いから、なかなか細かい対応ができないんですよね。と味方を庇いながら受給者にもソフトである。こちらから用紙送りますから、すぐ返送してください。こっちの方がずっと早く処理できます、と言ってくれた。きっと可愛いやさしい性格の女性なんだろうなと、想像して厚く礼をいった。翌日にはもう用紙が届いた。役所(年金機構も役所の一種だ)でも随分気分の違う対応があるもんだ。年金額が少ない理由もやさしく説明してくれた。つまり、この申告書をださないと、基礎控除130万円が控除されないのだと言う。そんなわけで、2月分はガクッと来たが、4月分は2月分より83,056円も多かった。認知症や年金などで生活していない人などの中には、気にしないでいた人もいるんだろうなとも思う。
 世の中、世界も日本も、土台から腐ってきたようで、鉄砲の撃ちあいは相変わらずだし、政治も経済も大揺れである。ところが、実は、表面だけではなく、地球は地中深くでもほとんど毎日揺れている。私のところにツイッターで来る地震情報(おそらく発信者は気象庁の関係者だと思うのだが)によると、新聞、テレビに出ない地震がほぼ毎日起きている。地盤とはこんなに動いているものとは、最近まで知らなかったけど、びっくりである。ツイッターが来るようになったのは半年くらい前からだけど、本当にほとんど毎日どこかで揺れているのだ。つい最近の数日だけの記録をちょっと紹介してみよう。これだけ毎日揺れていればいつ、ドカーンとデカいのが来ても不思議ではない。報道は震度3くらいより大きいのしか報道しないから。皆さんご用心に越したことはありません。他人事ながら。4月9日の島根県西部のものなんか、震度がないが、マグニチュード5.4で深度11キロだったら結構揺れたとおもうのだが。
 米寿と言うのは大体どこへ行っても長老になる。それはそうだ、90歳93,4歳の人も最近は多くなっては来たが、外出しない人が多いのだろう。米寿にもなって図々しく週に2~3日も外出して、仲間は60代、70代では、長老になっても不思議ではない。動けるうちが華である。転ばないよう、風邪をひかないようにして、精々義理を欠いて頑張ろう。
では、また次回まで ごきげんよう。

 (2018.4.13記)

 



 

四 季 雑 感 (41)

樫村 慶一

いろいろ考えさせられたお正月

 今年は元号が明治になって150年になる。私は西郷さんと勝さんが会談して(戦争が会談によって回避された顕著な事例だろと思う)江戸が解放され、大政が奉還されたのが1867年なので、てっきり、昨年が明治150年だとばかり思っていた。かと言って、明治150年にどんな意味があるんだろうと考える。この間の150年は短いと思うか、長いと思うか、人それぞれだろうが、私は、平安時代から徳川時代まで位の凡そ500年分くらい、いやもっとたくさんの中身の詰まった150年だと思うので、極めて短いと感じる。なんたって、空を見上げたってお月様が唯我独尊だったし、白い顔をした外人が、赤いはずの鬼にみえた時代からだから。それから100歳超える長寿者が67,824人(2017年9月厚労省発表)もいる、ほんの150年の間の地球上のあらゆるものの変わりようは言葉に尽くせない。明治150年には政府も何か考えているようだが、はて、何をやろうとするのか、楽しみに見ていようと思う。

 私の正月は3年前から、元日一番に妻の墓参をすることから始まるようになった。7月1日が祥月命日なので、毎月1日と中日の15日には必ず墓参をするので、元旦も例外とはならない、それが終わって、娘の家の近くにある「牛込穴八幡」へお参りし、それから娘家族と食べて飲む。今年は2日に椿山荘でおせっち料理+肉など食べ放題のバイキングと初寄席を組み合わせた催しの切符を買っておいたので、2日も楽しめた。椿山荘には年に2~3回は行っているので、何も珍しいものはないが、たまに来る人や遠くからくる人には”都内で蛍がいる”なんて珍しい場所に思えるのであろう。あっちを向いてもこっちを向いても、きらきら光る液晶の林である。このiPhoneにまつわる常識を娘に教わった。

 私は、癌で家族を失った人達の会に加入している。正月は七福神巡り、春秋には近郊の散策のようなことをやるが、今まで私は、みなカメラを持ってないので、適当に会員のスナップ写真をとり、住所やメールアドレスはプライバシー保護のためとかで公開してないので、直接写真を送ることができないため、主催者に適宜配送してもらうように頼んでいた。そしたら、娘曰く、「それはとんでもないお節介なことだ、みながカメラを持ってないのじゃなくて、多くの人は携帯電話を持っていて、撮りたければ自分で撮り自分を撮りたければ自撮りとか人にたのむのよ。パパがやっていることは、100%お節介なことなんだ」と教えられた。余計な親切が仇になっていたかもしれないと反省。

 3日になって初めて位牌の妻と向き合って一人酒を楽しんだ。我が家の仏壇は、菩提寺の住職が見たら、びっくりするだろうと思うレイアウトである。我が家の墓は、妻が生前に散歩のついてにお寺の前で墓石の宣伝をしていた石屋にのせられ、どうせいずれ必要になるんだから、嫁に行った娘たちに負担をかけないようにと買ってしまった。それが浄土宗の寺だった。浄土宗の仏壇は、必ず中央に阿弥陀如来の像が立っている。本当の位牌達はその横に立つ。しかし私は、神仏の存在を信じない人間なので、仏壇の主は妻の魂だと思っているので妻の位牌がでんと真ん中に立つ。その横に妻の両親の位牌が並び、阿弥陀の像は追い出すわけにもいかないので、一番端っこである。妻が逝ってしまった後、これらの偶像達とどう付き合っていくべきか長い間悩んだ。仏教には多くの想像で作り上げた偶像がある。何とか如来とか菩薩だとか、大王だとか、いつだれが想像したのか、悩みや病気の種類による役割分担があり、快復を願って、藁にもすがりたい弱い人間からお布施という名目で貢がせる。彼らが唱えるご利益が本当にあれば、この世に貧乏人はいなくなり、病院もいらなくなるはずだ。阿弥陀にすがるとはどうゆう意味か、地獄も極楽もないのに、なんで神仏にすがるという言葉があるのか、お経を上げるということはどうゆう意味なのか、塔婆とはなんだ、とか、考えることはたくさんある。長い間の慣習もあるのだろうが、法事や春秋の彼岸会などで、住職が阿弥陀の像に向かって経を読むが、本来は生きている人間の生き方の指針ともいうべきお経を、なんで死者や架空の偶像に向かって唱えるのか、本当は、参列者に向かって唱えるべきじゃないのかと思うこともある。
 浄土宗は法然上人が開祖だが、10年後に弟子の親鸞が浄土真宗を開いた。ジェネリックだから当時の無知文盲の庶民の人気を得るには、先発より簡単な極楽行きを考えた。先発は極楽へ行くには「南無阿弥陀仏」を10回唱えろ,戒名もちゃんとつけろ、塔婆も上げろ、といろいろ条件があるのに対し、後発は、南無阿弥陀仏は1回でOK,戒名も3文字でみな同じ、釈尊の間に俗名の1文字を入れるだけ、塔婆なんて不要、とまことに簡便な制度である。妻の戒名に2か月分の年金以上も出したことを考えると、墓を作る前にもっとしっかりと宗派を研究すべきだったと、しきりに後悔したものだ。一人暮らしをするようになって、ある意味ではくだらないことかもしれないが、こんなことなどを考えているうちに、時々精神安定剤が必要な人間になってしまった。

 初「四季雑感」だと思って、正月雑感になってしまったが、最後にまじめな話を一つ。月間雑誌で「選択」というのがあるが、正月号に面白い記事がいくつかでた。一つは、ソフトバンクの米国の子会社スプリントがお荷物になり、グループ全体の足を引っ張っているという話とか、楽天の携帯参入には役員会で反対者がでて、総務省の後押しがないと前途は暗い、とかの話しがあるが、これらの話しは同業者のよしみで詳細ははばかる。
 メインの話しは、昨年末から不正入札で大きな問題になった、リニア新幹線が実は、「クエンチ」と言う致命的欠陥が潜んでいる、超伝導磁石の磁力が突然低下する現象で、いつ起きるか分からない。そのため、最悪の場合は在来型新幹線にするための準備をしているというお話。本来は在来型新幹線の半分位の高さでよいはずのトンネルを、在来型新幹線と同じ規格で掘っており、こっそり在来型の鉄の車輪方式の準備もしているということである。リニアの事業費は名古屋までの事業費が5兆5千億円に膨らんだのもトンネル・サイズを在来型にしたためだと言う。
 超伝導磁石は魔法瓶のようなものに入っており、電気抵抗をゼロにするため液体窒素や液体ヘリウムでマイナス269度の超低温に冷やしているが、走行時の振動が魔法瓶に伝わり振動エネルギーが熱エネルギーに変わり、窒素やヘリウムが蒸発して超電導磁石の温度上がって、磁力が突如低下する現象で、どうして発生するかなかなか解明されなかった。
 しかし、2013年5月にリニア開発本部長が記者会見で、クエンチ問題は解決したと言っている。それなのになぜ今頃になってこんな記事がでるのだろうか、やっぱり、完全に問題が解決できていないのかもしれない。もしそうなら、いつ起きるかも知れない危険なリニアには誰も乗らないだろう。JR東海はドル箱路線の東海道新幹線が老朽化してきているので、そのバックアップになると強気を示している、ということである。この世の中、自分が住んでいる近所から、国内、海の向こう、どこもかしこも危険危険危険、危険ばっかりな地球になってしまった。祈る相手は誰か知らないけど、明治150年は危険解消を祈願する年にしたいものだ。くわばら くわばら では次回まで

終わり  (2018.1.12 記) 

  

 

四 季 雑 感(40)

樫村 慶一

今までしてこなかった、私の最高の自慢話
ー 開始10年目、40回目の区切りに当たり ー   

  10年前にk-unetの世話人を止めた後、ご厚意で、ホームページにささやかながら専用のスペースを頂き、書きたいことを書いてきた。初回は、2007年8月の 「このごろ思うこと」 と言うタイトルで始まり8号まで続いた、その後「四季雑観」に改題して39号、今年は執筆開始から10年目の記念年になり、今回は背番号も丁度40号と区切りの号になった。よく続いたと自分でも思う。
 
  自然界は秋になった。万葉集の頃まで遡らなくても、150年前(注1)の司馬遼太郎の 「坂の上の雲」 の時代だって、青空を見上げても、お月様まで何も空を飛んでいるものなどはなかった。それなのに、今じゃ一番低いところでは、ゴルフの白球から、ホームランのボール、ジェット機、低軌道や静止衛星、宇宙ステーション、そして恐ろしいICBMまで飛び出し、やたらに、天国の静謐をおびやかしている 。2年前に逝った女房はどうしているだろう、未だにベッドで目を瞑ると想い出す。
(注1) 来年2018年は明治150年になる。

  一方、 地球上には、テロだ、台風だ、豪雨だ、竜巻だ、地震だ、こそこそした殺人、不倫、汚職、政治スキャンダルなどなど、恐ろしいことや自然の脅威やら、昔だったら平気な顔で外を歩けないような恥ずかしいことまで、まともな人間が忌み嫌う現象が溢れかえっている。こんな時にはなにか、良い話題はないかと考えて思いついた。今迄色々書いてきたが、私も来年は米寿だ。周りには訃報がふつふつと舞い込む。自分がいつ、その仲間に入ってもおかしくはないと思っている。東京オリ・パラが卒寿で、差し当たりの目標である。もう、先行きには何も起きないだろうと感じ、とっておきの自慢話を書く気になった。

 

 秋になれば空が青くなり爽やかな風が吹く。とくると、ゴルフ狂はじっとしていられなくなる。私も13年前まではそうだった。1967年(昭和42年)から2004年まで37年間、ちっともうまくならない万年ビギナーのようなゴルフ遊びを続けてきた。ところが、その37年間で、一度だけとてつもない経験をした。国内でのコンペだったら黙っていたって話題になったのだろうが、場所が外国だったので、本人が言わない限りあまり知る人は現れないし、社内でも話題にならなかった。

  ブエノスアイレスの日本人社会には、進出企業と移住者の設立した企業、それに大使館が加わった合同のゴルフ親睦会 「オンブー会(注2)」という会があり会員は5,60人くらいいた。毎月1回首都近郊でコンペをしていたが、1984年12月1日、2日と2日間にわたって、ウルグアイで行った遠征コンペ(何回目かの記念大会だったように思うが覚えていない)で総合優勝したのである。参加人数は、7~8組だったので30人前後だと思う。
(注2)オンブーとは樹高10メートル位、周囲2~3メートルにもなる植物であるが、植物学的には樹ではなく草の一種と言われる。アルゼンチンの代表的植物。広いパンパ(草原)にポツンと立っているのもあり、真夏など日陰で一休みなどのときに役立つ。

  初日はモンテヴィデオの 「ウルグアイ・ゴルフクラブ」の18ホール、翌日は、150キロほど東へ移動、ウルグアイの大西洋岸、と言うよりかって貿易関係ニュースに頻繁に出てきた、ウルグアイ・ラウンドと言う言葉を覚えている方は多いだろうと思うが、そのウルグアイ・ラウンドが行われた、プンタ・デル・エステ(東の端っこ)と言う大西洋に面した高級リゾート地の 「カンテグリル・カントリークラブ」での18ホールマッチである。

  第一日目が52,56 トータル108 ハンディ30 ネット78、パーが73なので5オーバー、順位は6位。ハンディは30と自慢できるものではないが、でもこれも実力だから仕方がない。第二日目は、50,51 トータル101 ネット71で パープレイ(パー71)。2日間合計でグロス209 ハンディ60で、ネットが149、5オーバーで優勝だった。50を一度も切れず、お世辞にも良いとは言い難い。シングル級も2,3人はいたが、全体としては、余りレベルが高いとは言えなかったと思う。

  ゴルフ・コンペの賞品として純銀製のカップは、これだけでも十分な価値はあるのだが、副賞として、なんと当時の為替レート(1ドル約250円前後)で凡そ80万円のものを頂いたのだ。それは、JALの成田~リオ・デ・ジャネイロ線開通記念に日本航空ブエノスアイレス支店が、本社から割り当てられた1枚の日本往復ビジネスクラス航空券である。優勝が決定した瞬間の感激は、それは舞い上がったと思うが、残念ながら33年の歳月は、そのときの高揚感を記憶から半ば消し去ってしまった。 ただ、私が知っている範囲では、KDDの中でこのような名誉ある、かつ高額な賞品をもらった人は、現在も続けている人達も含めていないのじゃないかと、大ぴらに自慢したい。

  肝心の航空券は、一緒に連れて行った娘が、駐在生活3年目に入り、大学の友人に会いたくて仕方がない心境になっていたようだったので、それで一時帰国させた。ただ、航空券が成田~リオ間なので、ブエノスアイレスからリオまでは、自費で買わなくてはならない。それでも、帰した娘は久しぶりの日本の空気を腹いっぱい吸い、溌剌として戻ってきた。父親の権威が一番高まった時かもしれない。私の一生で一番自慢できる話は、これでお終い。

 これからの人生にはもう何も起きないと思うと寂しいけれど、”ヤッター” と思わず叫んだあの時の感激は、改めて、心の底から懐かしさを蘇えらせてくれた。

(2017.9.23 彼岸の日、記す)

 

四 季 雑 感 (39)

樫村 慶一

なぜ元号と西暦と、ごちゃまぜで使うのだろうか

  今年もお盆の季節になった。東京は7月お盆説が多いが、地方はやっぱり8月だ。今年は亡き妻の3回忌になるので、G.W.の前半に30年ぶりに妻側の田舎の墓参りをした。前回行った時は石ころのような墓石がゴロゴロ置いてあったのが、今ではたった一人になった子孫が、各墓の並べ方を綺麗に整理し、石ころの墓石はきちんとした墓石に置き換え立派な墓地になっていた。古い墓はいつ頃からのがあるのか若干興味を持ったので墓石の後ろの墓碑を読んでみた。古い石はよく読み取れないのが多い。文化文政の頃からのものもある。よく知らない元号もある。こうなると、いったいいつ頃、何年くらい前のものかなどという歴史を思い起こすことなど不可能である。
  私は元来、元号を使うのは嫌いである。元号は自分からは絶対に使わない。しかし、元号で書かなければならない場合も結構あるので、その場合はやむをえないけど、場合よっては、その下に わざと20・・と書くこともある。昭和は頭の中に換算表があるので、すぐわかるが、平成は全くだめだ。これももうじき終わるだろうから、ますます換算がむずかしくなる。元号から西暦への換算は、大正は11+、昭和は25+で比較的易しいが、明治は86+で数が多いので厄介だし、33年に1900年になったので、その後はややこしい。さらに平成も2000年までは1988+、2000年以降は12-とこれまた複雑だ。平成の次は2018を足すのか。こうした煩わしさを解決するには、やっぱり時の移ろいを示すいわば”通し番号”とも言える西暦を使う習慣とか規則にした方が便利だと思うのだが。
 お墓に行って、墓碑を見ると100%命日は元号で書かれている。文化文政のころの墓ならいざ知らず、近代の明治、大正、昭和の何年何月何日逝去と書いてあるお墓にはまだ子孫が墓参にくる。だけど、子孫は今からどのくらい前に亡くなったのかピンとこないのじゃないだろうか。お爺さん、お婆さんが亡くなったのはいつ頃だったっけねえ、なんてすぐにはその頃が思い浮かばないだろう。西暦を使っておけば、今から何年前とすぐわかる。私は妻が健在の頃すでに墓地を作っておいたが、建立年月は、2007年8月吉日 と彫ってある。勿論墓石の妻の墓碑も逝去日付は2015・・・・である。ただ塔婆を頼むときに西暦で書くように頼むのを忘れてしまったので、塔婆は平成になっている。大失敗だ。私達夫婦の墓は都内のお寺団地のような処の一つのお寺で、同じ墓地には約200位の墓石があるが、西暦で書いてあるお墓は一つもない。団地の墓地は全部で何千かになるだろうけど、建立月日や塔婆を西暦で書いてあるのは、全部見たわけではないが、今のところ私の家の墓だけだと思う。毎月2回、月命日と中命日にお墓に行って拝む度に、「早いもんだね、もうこれこれ経っちゃたね」、と心の中で話しかけるのが常になっているが、この後何年か経って多少呆けた頭で、いちいち暗算をしなくてはならないなんて、考えただけでもぞっとする。西暦万歳だ。
  そこで、今回は元号(昭和とか平成などのこと)と西暦の関係の話を思いついた。そもそもは、明治5年11月9日の太政官布告により、それまでの太陰暦(旧暦)から太陽暦(グレゴリオ暦、今の西暦)への変更と、時刻の現わし方を現行のような数字表現にすることが決まったことから始まる。この時に今の西暦が採用されて以来、年月日の表記方法が今の書き方が標準となった。元号の表記に関しては、明治改元と共に発布された「一世一元の詔」と、旧皇室典範第12条に基ずく元号表記が標準となり、上記の明治5年の太陽暦施行と同時に元号表記も公的な表現となった。従ってこの時から1812年とか明治5年とか二つの表示ができたのだ。
  ところが敗戦によって皇室典範が改正されて元号条項がなくなり、戦後しばらくは元号使用に対する法的根拠がなくなってしまった。このため元号の使用はあくまでも慣習として使われていただけである。この間に西暦の使用が広まった。このおかしな状態が改正されたのは、昭和54年に公布された現行の「元号法」によるためである。この結果公的な元号使用の法的根拠ができたが、あくまで元号を公的に使用することの根拠であって、元号の使用を強制するものではない。したがって、現在では、それぞれの場面、状況において平成であったり、西暦であったりしている。理由は、便利であるとか、分かり易いとか、都合がいいとかでの理由である。従って、最近西暦表示が多くなったと感じたとすれば、それは西暦が便利だと感じる役所が増えたか、行政やマスコミが意図的に西暦を使うようにしているのかもしれない。いずれにしても、近く平成が終わるのが分かっているが、まだまだ大正生まれの人も健在なので、4つの時代の元号と、それぞれの時代の様子を把握するなんて、とんだまぎらわしいことになる。まだお役所関係の書類には元号を使うことが多いが、平成が終わると、西暦の便利さが改めて分かるだろう。関係ないことだけど、資料によると西暦にはゼロ年がないのだ、始まりは西暦1年からで、その前は西暦前1年となっている。インド人(ゼロを発見したという)のような頭の良い人がいなかったんでだろう。2000年も経った今じゃ、西暦にゼロ年あったかなかったかなんて、なんの問題にもならない。兎に角、内に外に落ち着いた年、時代を期待していものだ、目の黒いうちに。では、また。

(2017.7.15 お盆の中日に記す)

 

 

四 季 雑 感(38)

樫村 慶一

雪国の春を行く

G.W.を先取りして、焼酎がワインに変身するのを味わい、
話題かしましくして波静かな日本海沿岸を走る。

 

 日々の天候の変動は徐々に激しくなってくるように思えるが、やっぱり、春がくれば桜が咲き、散って葉桜になるころは牡丹、つつじ、そして梅雨とともに紫陽花が妍を競うようになる。山形市に住む妻の母方の親戚から、伯父(義理の)の7回忌をやるが、こられたらこないか、ちょうど東北の桜が見ごろになるだろう、と誘われたのでその気になった。でも、すでに10年前に免許証を返納した私は車の運転ができないので、娘夫婦に甘えてGWを若干先取りしてもらい、渋滞が始まる前に、出かけて帰ってきた。それでも4泊5日は結構長旅という感じがする。温泉は堪能できたけど。東北道は面白味がないので、趣向を変えて話題多き日本海沿岸から行くことにし、関越自動車道から新潟県の海岸沿いを走るルートを選んだ。小説「雪国」の物語の通り、長い関越トンネルを抜けたら、越後の国にはまだ雪が残っていた。

 六日町インターを降りて、日本酒の名酒の一つ“八海山”醸造所を見学に訪れた。一面田圃に囲まれた少しばかり小高くなった広い敷地は周囲が桜並木に囲まれ、地面には、今が盛りのかたくり、つくし、名を知らぬ可憐な白い花などが咲き競っている。敷地内には主棟の醸造工場の他に日本調の内装の食事処とか試飲即売所などがあるが、一際目を引くのが建築デザインで賞を受けた、雪室という天然の冷蔵庫ともいうべき建物である。雪室内は冬の間に雪を300トンほどに積み上げ、室内を3度Cほどに下げて、吟醸酒などの熟成をしている他、オーク材の樽で焼酎を熟成している。300トンの雪は次の冬までに約半分に減り、また来冬に減った分を補充すると言う。

 ここの試飲コーナーで、酒には目がない私も初めて味わった、えも言われぬ、馥郁たる芳香を放ち、喉にかすかなリキュールの甘味を思わせる“焼酎”に出会った。その名は「風媒花」と言う。先ほどのオーク材〈樫の木〉樽で熟成された、極上の焼酎である。アルコール度数は40度。たかが焼酎が、なぜこんなにも高級感あふれる、シングルモルトのウイスキーにワインの甘味のような謎めいた味になるのか不思議でならない。やっぱりオーク樽での3年間の醸造が極意なんだろう。
オーク樽独特の香りや木質のためワインやウイスキーもどきになるのだと思う。720mlで1本3300円は、焼酎にしておくには勿体ない名品だ。

 実際はミサイルの話などほとんどしていない、日本海沿岸の砂浜を見下ろしながらひたすら走る。新潟の村上市からは高速道がない。いやおうなしに海岸沿いの道を走るが、心なしか太平洋より黒く感じる日本海の海は、現実社会の騒音などどこ吹く風と言わんばかりに穏やかである。久しぶりの田園地帯の空気を吸い、どこまでも続く花粉症の元凶を眺め、かっては広い田圃の片隅や崖の下にぽつんぽつんと立っていた茅葺屋根の代わりに、都会と同じ家が建っているのが不釣り合いに感じるなど、変わった思いをめぐらせていたとき、まさかあんなところに、という島があった!。日本海には佐渡が島の北には島なんかないものとばっかり思っていたのに、結構大きな島ではないか。充分に人が住んでいる可能性がある。あわてて地図を見たら今日まで全く知らなかった島が出ている。粟島と言い行政区画で言うと、“粟島浦村”となっており、予想通りフェリー航路がある。

 このあたりの海岸は茶色い岩がゴロゴロ波から顔を出し、陸地は岩が断崖のようになっていて、“笹川流れ”という名勝を作り出しているような、風光明媚な海岸である。そして夕方の見事な日没もさらに華を添える。あまつさえ、今年の東北はこの時期、満開の桜が美観に輪をかけていた。道に平行して走る羽越本線の乗客ももちろん景勝を堪能していることであろう。このような景色を楽しめるのは、日本海側には高速道路がない部分が多いためで、なまじっか高速道路ができれば、物流トラックは元よりよほどの閑人じゃない限り、高速を通るだろう。しかし、高速では、やたらに防音壁や目隠しの木があり、せっかくの風景が眺められない。もっとも、こんなことは一生に数えるほどしか来ない人間の言うことで、やっぱり地元も観光事業者なども高速道路は欲しいんだろうと思う。

 山形県の日本海側と内陸を結ぶ山形自動車道というのは、月山湖インターと湯殿山インターの間21キロが繋がっていない。山形市から月山湖(人造湖)を望む月山湖パーキングへ入って驚いた。道路公団の道路地図には立派に「月山湖P.A.」と書いてあるのに、施設はトイレと飲料自動販売機1台だけで無人だ。公園の公衆用より狭いトイレと自販機1台だけと言う、まことに小さなPAである。先客もワンボックスが1台だけだった。これも外へ出て初めて味わえる経験である。
紀行文はだらだら書いていると小学生の綴り方になってしまう。印象に残ったことだけを拾って綴ってみた。折りがあれば、他の部分も書いてみようと思うが、今回はこれでおしまいにします。
 定年になってから出ている諸々の集まりも、27年も経つとどんどん参加者が減ってくる。次は誰が減る籤に当たるのか。いずれは避ようがないことだけど、命運の神がこっちを向かないように、目と目が合わないように、毎日祈るばかりである。

      おわり (2017.5.5 記)

 

四 季 雑 感(37)

樫村 慶一  

不安を抱えながら楽しみと暮らす

 天の法則通り凡そ46億回目の春が来る。今年もまた各地で、新しい出会いと、悲しい別れ、人それぞれの人生模様が繰り広げられるであろう。私もそうして、今日まで生きてきた。4月1日生まれの私は毎年誕生日は家族と桜に囲まれてきた。ここ10数年は神田川の畔に住む娘と椿山荘まで歩き一緒に祝う、でも、2015年の4月は3か月後に亡くなる妻にとっては辛い時だったと思う。それを顔に出さずに付き合ってくれた。その心の内を思い、それ以来観桜は半分悲しみに変わる。私にはもう新しい出会いはないであろう。あるのは、いずれは来る悲しみを伴う別れだけだ。女房が亡くなってからは、それまでと違う人生観を持つようになり、付き合いの範囲も無差別に広がってきた。最近はいろいろな会に出ても、どこでもいつでも大体「最長老」になってしまう。87歳にもなって50代60代と一緒に出歩く人は少ないのかなとも思う。自分では年をとってきて、多少は物忘れが多くなったけど、まだボケには入ってないと思っているが、体の動きは確実に鈍くなった。特に歩行速度が落ちてきた。女の子に軽く抜かれてしまう。まあ、これも仕方がないさ、転ばないように歩くのが一番大事なこと、と自分に言い聞かせてマイペースで外へ出る。

 4月からはまた、私が生涯で最も深い関心を持つラテンアメリカの文化、音楽、信仰、伝統などに関する大学の研究会が始まる。戦前や戦後の超「古い映画を楽しむ会」の例会とか、どこかでラテンやジャズの音楽会があると誘われれば、のこのこついていく。これっと思う展示があれば美術館にも行く。k-unetの研修会も後の飲み会を楽しみに出かける、何もなければ囲碁に出かけ、家にこもればパソコンで退屈はしない。そして一番大事なのは、娘夫婦に支えられていることで、そんなこんやで男やもめを何とか過ごしている。

 ところが、去る2月、風邪で8.5度の熱が2日も続いたのには参った、と同時に、今後も救急車を呼ぶほどではないが、さりとて、かかりつけ医者までは行けない、という状態になった時のことが心配になった。昔はお医者さんに電話かければ往診してくれたけど、今はそうゆうサービスはないらしいので、娘が来てくれるまで、じっとベッドで我慢しかないのか、と不安に思った。風邪程度ならよいが冗談ではすまされない問題である。娘が週に1~2度来てくれるし、安否確認と言って必ず1日1度は電話はくるけど、脳出血とか心臓発作では間に合わない。一人では救急車を呼ぶことができないから、結局、安否確認に応答しないのがおかしいと感じて、娘が来るまで分からない、発見が死後2日や3日なんてことになる可能性がある。今の私の最大の問題である。いっそのこと、元気なうちに老人ホームに入ってしまうおうかというのも選択肢の一つである。やっかいな、でも重要な問題を嫌でも意識せざるを得ない。良い知恵をお持ちの方いたら是非お貸し願いたいと思う。

 家にいるときはパソコンを弄っていると言ったが、道を歩きながら夢中になっているような、場当たり的な使い方や、メール交換やSNSなどの検索だけではパソコンも時間ももったいないと思う。やはり、長期的に継続して作業できるようなテーマが欲しい。そこで、考えたのが丁度35年前(1982)の4月、私にとっては3度目、家族にとっては初めてブエノスアイレスの空港に降り立った、駐在生活の初日からつけている日記手帳を整理して電子化することである。一日分の記載事項ををワード文書の2,3行以内に要約して整理するのである。古いことを思い出しながら、昔を懐かしみながらパソコンに清書する。どうしても思い出せない名前もいくつか出てくる。小さくて読めない文字が沢山ある。そばに拡大鏡が離せない。でも飽きない、だけど、日々新しい材料が積み重なっていくので、果たして元気なうちに追つくかどうか、自分でも興味深々な作業である。

 それともう一つは、妻の一生を写真でまとめようと思っている。小学校に入学したころからのものが残っているので、それに私と知り合った時代をつなげていけばよいのだが、これにも問題がある。私がパソコンを始めたのは古希(70歳)の祝いに娘夫婦が贈ってくれたのがきっかけである。ワープロで十分などと言っていたが、綺麗な色付き画面に虜になり、写真処理やアニメ作りなどに夢中になったりしたお陰で、人並みのスキルに達したとは思っているが、これにも問題がある。結婚した1955年からデジカメを使いだした2000年までの45年間の古い写真を、退色補正しながらスキャンして取り込まなくてはならないので、その数が問題である。何枚になるかわからないので、これも一生仕事になるかもしれない。でもどちらも楽しみながらできるのが、一番のメリットだと思っている。ものを書くのも好きである。この四季雑感も、その前の、「この頃思うこと」という雑文を合わせるとかれこれ50回位にもなる。これも、k-unetの続く限り、私の一生の作業として続けて行きたいと思っている。取り留めないことばかりになったが、今の心境を文字に現わしてみた。どうぞお笑いくださいませんように。 おわり
(2017.3月 桃の季節 記す)

【写真説明】
上から:
①神田川沿いの桜とホテル椿山荘東京(数年前までフォーシーズンホテル)。
②戦前の映画「人妻椿、佐分利信、川崎弘子主演 1936年(昭和11年)」。
③銀座ジャズ雛祭りチケット(2017.3.5)。
④戦後の映画「湯の町エレジー、近江敏郎、山根寿子主演、1949年(昭和24年)」。

 お詫び; 前回「四季雑観(36)の富士山のコロナの写真で肝心な場所を書いてありませんでした。場所は山中湖の東側で山中湖花の都公園からです。申し訳ありませんでした。

 

四 季 雑 感(36)

樫村 慶一

幻の大正道路の話  

 2017年もはや1月の半ばも過ぎてしまった。海岸の砂浜に海水が昇ってくるように、どんどんと刻(とき)が浸食されていくように感じる。その速さは尋常ではない。私は今年で87歳になる。大動脈瘤や胃癌や肺の病気などを乗り越えた。とりあえずの長生きの目標は東京オリンピックである。丁度90歳になるからだ。
 ある説によると、時の経つのを感じるのは、年を取るほど早く感じるようになる。その理由は、「毎日の出来事が殆ど過去に経験したことばかりになり、なんの感動もないし記憶にも残らないから、一日が全く意識しないうちに過ぎてしまう、だから今日のことも昨日のことも意識的に区別しにくい。反対に子供は毎日毎日の出来事がみな、初めて経験することが多いので、新鮮であり、感動的であり、記憶がどんどん蓄積されていく、従って、一日一日が充実して長い、と感じるのだ」、と言うのである。なんとなく分かるようにも思う。

 私は、周期とか年紀とかついてこだわる人間である。今年はてっきり明治150年だとばっかり思っていたら来年だそうだ。何故かというと、西郷さんと勝海舟が会談して江戸城を無血明け渡しをしたのが、1867年だから、今年は150年目になると思っていたが、1868年(慶應4年)になって改元の令が出て、1968年1月1日に遡って明治とする、となったようで、来年2018年が明治150年である。
 もうすぐ平成も終わる、明治維新から近代日本が始まったけど、それから明治、大正、昭和、平成と4つの年代が過ぎたことになるが、それぞれには一言で時代を現す言葉がある。”ごいっしんの明治”、”ロマンの大正”、”モダンな昭和”とくると、次は”なんの平成”になるだろう。興味がある。世界的な移ろいを考えると、あまり良い呼称はつかないだろうとも思うが。これからは、”平成” も場所やら建物や名前やその他色々な所にレガシイとして使われるであろう。

 明治、大正、昭和については数えきれない程のものに使われているが、都内の主要道路に大正がないのに気が付かれた方はいるだろうか。山の手線に沿って内側をほぼ南北に走るのが”明治通り”、関東大震災後に当時の東京市長後藤新平が、だだっ広い道路を作るのを見て、飛行場でも作るのか、税金の無駄使いだ、と反対されながら信念を通した”昭和通り”とあるが、大正通りがない。さて、なぜだろうか。実は以前はあったのである。今の靖国通りの市ケ谷と亀戸の間が大正通りだったのだ。

 できたのは昭和4年(1929年)10月26日である。大正12年(1923年)の関東大震災の復興事業で東京には53本の新道が整備された。政府の復興局の援助を受けた東京日日新聞(現毎日新聞)が主要な22本の道路の名称を懸賞募集し、都心を南北を貫く復興1号線を昭和通り、十字に交わる3号線を大正通りと決めた。ところが、昭和9年に神田の猿楽町町会が出した新町名地図には「靖国通り」になっている。できてから5年で大正通りの名前は揺らいでいた。昭和10年代になるとどの地図にも大正通りの名前はなくなってしまった。 はっきりといつなくなっかは故老でも分からないと言う。当時懸賞で命名された22本の道路で、今も残っているのは半分にも満たない。新聞社が主体の命名なので強制力はない。ただ大正通りが早く消えた背景には、戦前の昭和時代に明治ブームがあり、昭和に明治を重ね大正の沈滞を吹き飛ばそうとしていた政府の意識的な戦略があったのではないかと、その影響を指摘する学者もいる。

  その後東京都は、1962年(昭和37年) 4月25日、2年後のオリンピックの観光客対策として新たに44本の道路に通称をつけることととし、新宿~両国橋間は 靖国道り、両国橋~江戸川大橋間は京葉道路となり、大正通りは完全に消えた。 しかし、1994年(平成6年)になって 大正通りは福岡市に蘇った。最も大阪市には大正区があり大正通りも存在する。

 大正通りは大正生まれの人にはその 名前がないのが悔しかったと言う。大正生まれは戦後の日本を、飢えに耐えながら再建したという自負があったからかもしれない。時の流れの速さに怖ささえ感じる年ごろになり、そんなことを書いているうちに、話が思わぬ方に逸れてしまったが、さて今年は、トランプのジョーカーが何に使われるのか、今年の上りは吉と出るか凶とでるか、期待と恐怖の一喜一憂の年なんだろうなと思う。 しかし、人類は確実に絶滅のトレンドに入っているのも事実である。次回は生物の絶滅について書こうと思う。2017年がk-unetの皆さまに幸せな年でありますように、お祈り申し上げます。
 では、次回まで ごきげんよう  (2017.1.20記)

(写真説明:この富士山のコロナは、年間で数日しか見られない光景で、たまたま行った日がその時に当たり、しかも時間も1分だけの貴重な景色である。この日は12月16日午後3時19分であった。)

 

四 季 雑 感 (35)

樫村 慶一

最近 行った処 見たこと 感じたこと  

 東京よりは多少は寒さが強いと言っても、紅葉にはまだ相当に早い10月始め、真田ブームに魅せられて信州上田のお城と真田家の当主が居を構えていた真田の郷、城下町らしい昔の北国街道の町並み、それに、真田と言えば作家の池波正太郎を思い出さずにはいられない「池波正太郎記念館」などを訪れた。上田城内に作られた展示場には大河ドラマに使われた小道具などが色々展示され、手紙類も昔の本物ではなくドラマに使われた本物らしく書かれたものとか、まあ、そこそこに見ごたえはある。でも私は、1990年頃にNHKのBSで放送された池波正太郎原作の「真田太平記」のほうが好きだ。女性忍者が活躍するなど忍者が沢山でてくるし合戦場面も多かった。北国街道跡の柳町通りには、昔の面影の残る家並みがある。真田の郷は市内からかなり奥深い所で、山深い森閑とした森の中の館の静かな囲炉裏部屋で、正幸が戦術を練った姿が想像できる。今でも実った栗の実が落ちる音だけが聞こえるだけである。
 翌日、沼田の城跡へ登った。沼田城は江戸城が火事で消失した後、関東で唯一五層の天守閣が残った城と言われるが、今は当時を偲ばせる遺跡は、せいぜい掘と石垣の一部くらいである。本丸跡は花壇になっていて再建された鐘楼が聳え、信之夫妻の石像が立っている。展示物は市役所近くのビルの2階を借り切ったスペースに、上田と同じようにドラマの小道具や、手紙類とか、ジオラマなどが展示さえている。またドラマの最初の画面の「真田丸」と彫った銅板の実物が展示されている。所詮沼田は長い歴史の上では、小田原北条氏が滅びる前から関ケ原までの短い期間に注目されただけの場所で、それ以降は歴史的に注目されることはなかった。大河ドラマのお陰で410年ぶりに注目を浴びているというこであろう。判官贔屓の日本人は戦上手で悲劇的な人生であった正幸や幸村にあこがれる。

 四季雑感なので、その時々に応じて感じたこと、見たことを思いつくまま書いているが、誰でもが知っているようなありきたりのことを書くのでは面白くない。つい先日まで、理由はわからないが、ラテンアメリカの映画がたくさん上映されていた。ラテンアメリカの映画は、暗く、貧しい人々が多く、そしてなによりも理解するのがむずかしい。

 その中で、「チリの戦い」という映画を見た。1970年11月に世界でおそらく初めてで最後の、民主的選挙によって社会主義国になったチリのアジェンデ政権の3年間にわたる国内情勢と、クーデターで倒れるまでの物語である。映画は3部作で、始まったのが午前11時、終ったのが午後4時半だった。なぜ比較的先進的な国であったチリで革命ともいうべき社会主義政権ができたのかというと、人口の40%を占めていた貧困層の大衆が蜂起して左派政権を団結させたためである。反対側はもちろん富裕層、大地主、軍部内の右翼、保守の牙城と言われるカトリック教会などである。この二つの階層には服装とか人相、言葉使いなどにいたるまで、はっきりした差異がある。典型的な階級闘争だったと思う。
 困ったのは米国である。ルーズベルト・ドクトリンに示されたように、冷戦で旧ソ連と対峙する米国としては、ラテンアメリカはわが裏庭だと思っていたのだから、そこでのいざこざは絶対に困るのだ。だから喉元にささった棘のようなキューバに対して、反革命勢力を上陸させようとしたりした(これは失敗した)。とにかくカナダからパタゴニアまでに社会主義はとんでもないことなのだ。選挙戦当初からアジェンデが優勢と聞いた米国はいろいろな選挙妨害をやってきた。しかし、これらの活動も功を奏さずアジェンデ政権は誕生した。その直後からただちにCIAを介してアジェンデ打倒の工作を開始した。アジェンデ政権の3年間は、政府側と反政府側とのストライキの応酬に明け暮れしたようなものだった。アジェンデはまずキューバとの国交を回復し、米国資本の銅鉱山、電信電話事業(我々おなじみのITT)を国営化し、大地主の特権をはく奪して農地改革を行った。これらに反対する軍部を内閣改造により一時は閣内に取り込んだこともある。ピノチェットも一時は体制側に立つた時期もあった。
  チリはご存じのように南北に4000キロと細長く物流はほとんどトラックにたよっている。CIAはこのトラック業者を抱き込んで長期にわたるストライキを行わせ、経済活動を麻痺させた。一方、アジェンデ支持者達は自分達が働く工場のトラックを使って物資を輸送し住民間に公平に分配した。食料品などを隠匿している業者を摘発して市場に流した。工場や農場を自主管理して経営する産業コルドン(紐帯)は、他の社会主義国と比較しても自立性において際立ったいた。ますますいらだつCIAはついに武力クーデターを起こさせたのである。1973年9月11日、戦闘機2機よる空襲から始まった。アジェンデ大統領は護衛警察官を帰し、本当の支持者約40人と戦ったが、いかにせん多勢に無勢、凡そ2時間ほどでアジェンデは自殺し、クーデターは終った。チリ最大の港バルパライソの沖には米国の駆逐艦4隻が停泊、完全に米国主導のクーデターだったのである。28年後の同月同日に米国自身がクーデターならぬテロに見舞われるとは誰が想像したろうか。
 先進国の資本主義が飽和状態になり格差が拡大しても、保守主義であるカトリック信者の多い南米に社会主義は馴染まないと思う。実際に生活を体験してみても、下層階級の人々が金持ちを羨らやんだりねたんだりしたことをほとんど見なかった。

 10月31日がハローウインだと若者が大騒ぎしていたが、バレンタインデーのチョコレート贈答習慣が、メリーチョコレートの販売拡張キャンペーンで始められたことを知っている若者は殆どいないと思うが、ハローウインもどこかの会社の宣伝作戦だったのじゃないかと勘繰りたくなる。韓国大統領がスキャンダルで大変だが、日本は、まだまだ社会的にも政治的にも平和である。ただただ、地下や海底深いところで、何かがうごめいているような気がしてならない昨今である。 おわり

【写真説明】
(上から)上田城入り口にできたNHK大河ドラマ館、 上田城門、 上田市の北国街道町並み

 

四 季 雑 感(34)

樫村 慶一  

痛快な話  

 四季雑感も随分ご無沙汰してしまった。最後は今年の2月だから半年ぶりである。そもそもは、2007年8月にk-unetの世話人を辞めてから、「この頃思うこと」と言う題名で、投稿を始め1年後に現在の「四季雑感」に改名した。四季というのだから、せめて1年に3~4回は投稿しようと思っていたけど、いろいろと都合があってなかなか続かない。題材は世の中にあふれているけど、ニュー性の高いものは平凡で面白くないし、なるべくあまり覚えてないとか、そんなことあったっけ、なんていうものを自分の好みで勝手に選んできた。

 そういう意味でも、久しぶりに書くのに、そんなことあったっけ!にぴったりの題材がある。皆さんは、日本の領海へ中国の漁船が侵入してきたとき、自衛艦が退去を申し入れても出て行かないとき、どうすると思うだろうか。まさか撃沈はしないと思うだろう。しかしそれがあったのだ。 ただし日本ではない。地球の裏側のアルゼンチンの、しかも領海外のEEZ内である。それにしても痛快な話だ。だけど、このニュースは大方のマスコミは報道しなかったように思うのだが、何故だろうか。関係ない事件なので、やっぱり中国は怖いのかな、と余計な斟酌をしてしまう。サンケイ新聞辺りはしたかもしれない。

 事件が起きた時は少し遡るが、今年の3月14日のこと、アルゼンチン南部のプエルト・マドリン沖(注)の大西洋で、同国の沿岸警備隊がアルゼンチンの排他的経済水域(EEZ)内で違法操業中の中国の大型漁船を発見(下の写真)、停船を命じたが従わず、衝突させようとするなど抵抗して、公海へ逃亡を図ったため警告の上で発砲、撃沈した。動画で確認すると、アルゼンチン軍艦が撃ったのは大砲ではなく砲身の長い機関砲のようなもので、漁船の船腹部を狙って2,30発撃っている。船長他乗組員全員は保護され身柄を拘束された。沿岸警備隊を管轄するアルゼンチン海軍の発表では、身柄拘束を受けているのは4,5人で、アルゼン当局の取り調べを受けた。(その結果どうなったかは不明)。
 この漁船は、中国山東省の煙台の漁業会社の船で「魯煙遠魚10」と書かれていた。いかを不法に漁獲していたと言う。 中国政府は強い懸念を示し再発防止について交渉を始めると言われている。
 アルゼンチン海軍は、1982年のマルビーナス島(フォークランド)での英国との戦争でも、すぐに降伏した陸軍と異なり、英艦を撃沈するなど勇猛で名をはせた海軍で、外国船を撃沈したのは15年振りといわれる。それにしても、領海ではなくEEZなのに撃沈とは痛快極まりない話で、EEZどころか領海を通られても機関砲1発撃たない、日本の海上自衛隊はどう思っただろうか。
 中国漁船の不法操業は日本でも問題になったが、今月20日にはインドネシアの領海でも不法漁獲を行いインドネシア軍に拿捕された漁船が海上で爆破沈没させられた。

 (注)プエルト・マドリンは、ブエノスアイレスのから南へ約2000キロ行ったところにある大西洋に突き出したバルデル半島への入口の町で、私は急行バスで一晩走り続けて行った思い出がある。半島には季節により、クジラ、シャチ、ペンギン、トドなどが集まるところで、有名な観光地でもある。
 
 そんな事件があって、少し経って熊本地震が起きたのだが、ほぼ同時期に、エクアドルでも大地震が起きた。でも日本のマスコミは熊本の報道に忙しくて、よその国のことまで手がまわらなかったのかも知れない。あの辺はもともと地震帯の上なので特に珍しい出来事ではない。丁度ガラパゴス諸島の対岸の海岸あたりが震源地だが、M7.8は結構大きい。死者は最終的に654人となり負傷者は2000人以上と報道された。
 そしてオリンピックの準備に大童のブラジルでは、大統領の汚職事件が明らかにされ、ついには職務停止においこまれた。オリンピックは大統領不在である。外務省が先日「観戦者向けに安全の手引き」を作ったが、これは観光を兼ねて行く人向けで、現地に住んでいる人たちは恐らくあまり被害に会わないと思う。私の経験から言うと、現地に住むと自然に防御方法が身につくからである。もっともそれまでには、そこそこに月謝を払っているはずではあるが。
 パナマ文書問題が起きたのもこの頃だし、米国とキューバが仲直りしようと言う動きが本格化したのもそうである。時たまたま、キューバへの日本人移民の世一世で最後に残った人、島津三一郎さんと言う方が亡くなった、108歳だったそうだ。そして、私が一番関心を持っていたのはペルーの大統領選挙の行方だった。フジモリさんの娘ケイコが予選では1位だったのに、決戦では50%に僅か0.12% (21000 票)足りなかった。従って両者の差は僅か0.24%(42000票)だった。ちなみにケイコご本人は、ケイコの漢字を知らないと言う。フジモリさんは、せっかく日本へ亡命してゆっくり生活できたのに、自分からまずチリへ渡り、大丈夫と思ってペルーへ帰ったんだろうが、とたんに捕まってしまった。これこそ、飛んで火に入る夏の虫そのものである。私の知る限りでは、フジモリ大統領は、アンデス高地のインディヘナのために道を作り学校を建て、水道や電気を引き、インフレを収め、Sendero Luminoso や人質事件をおこしたMRTA(Movimiento revolucionario de Tup'ac Amaru=ツパックアマル《インカ王の名前》革命運動)などの反政府ゲリラを撲滅したなど大きな功績があると思っていたけど、国内では、独裁とか汚職とか、海外で見るとは大違いの評価がされているのに驚いたものである。

 地球の西の方のテロとはあまり係りのない南米であるが、気候は日本がこれから2010年以来の猛暑になると言われているのとは反対に、この冬はかなり寒いと友人は言っている。それにやっぱり雨が多いとかも。そうは言っても今の中南米は、世界的には北欧と共にきわめて安全な地帯である。中南米で政府軍と革命勢力が戦ったいわゆる内戦は、1996年2月のグアテマラの終戦で終わり、その後は政府軍、警察と麻薬シンジケート、マフィアなどとの争いであったのだが、これも最近のコロンビアを最後に終わった。中東やヨーロッパで起きているようなテロがないのは、宗教対立がないからである。殆どがカトリック信者で、多い国は98%にもなるし、少ない国でも60%以上はカトリックだから、他の宗教が入り込む余地はない。日本が仏教が大多数なのと同じである。それに日本とくらべて自然災害がかなり少ない。太平洋岸は地震と火山噴火の恐れがあるけど、アンデス山脈の東側は、まず安全だ。だから、体力があれば南米の南部へ移住したいと常々思っているのだが、もう両肺の気胸をやってPOPDの初期では、とても飛行機には怖くて乗れないし、子供と離れるのも寂しいなどで実行する気はない。

 人生の終焉がいつ来ても可笑しくな歳になってしまった。せいぜい楽しむかと色々出かけているが、先日、昔はお大尽のお遊びの一つだった芸者遊びの合間をつなぐ、いわば和製ピエロみたいな存在だった、幇間(たいこもち)の芸を見に行った。悠玄亭玉助の名前だけは知っていたが、今では、弟子が数人しか残っていないそうだ。その中の一人、悠玄亭玉八の芸を観た。一人で落語、漫談、都都逸など三味線を巧みに弾き座敷芸は一通りこなす、真打は、屏風の中にあたかも女がいるように見せる一人芝居が圧巻である。これを見るだけでも腹を抱えて笑ったのだか、一緒に行った50代の娘婿はあまり笑わない。我々がポケモンなんて全く興味が湧かないのと同じなんだろう。そういえば客は年配ばかりだった。ああいった伝統芸も我々年寄りと共に消えていくのかもしれない。 (写真は悠玄亭玉八、神楽坂 志満金にて)

 久しぶりの四季雑感だが、読み返してみたら、空き巣に入られた後の部屋のように、脈絡のない雑文が乱雑にまき散らされたようになってしまった。次回はしっかりしますと約束して今回は、これでおしまいにします。  (2016.7月末 記)

 

四 季 雑 感(33)

樫村 慶一

尾張の国で聞いた面白い話と、この頃の携帯電話会社のCMのこと  

 先日、ある団体の一員として愛知県の国宝犬山城や、明治村を訪れる旅をした。新幹線は、久しく乗っていたなかったので、遠足に出かける子供のようにわくわくしていた。行きの「ひかり」大阪行きはほぼ満員だったが、帰路は、「ひかり」や「のぞみ」で、ぴゅうっと行ってしまうのは旅情も何もないので、在来線で窓外の景色を見ながら、ぼちぼち帰ろうと思い普通の電車に乗った。しかし、線路は1本なのに、東京まで乗り換えなしで来る列車はない。豊橋、浜松、静岡などで乗り換えないと繋がらない。でも、浜松あたりで日が暮れるので、浜松からは新幹線の「こだま」にしたら、なんとがらがらである。それこそ3人掛の席はひじ掛けを上げればどこも横になれる席ばかりである。でも東海道線の車窓の景色は、平地に家ばかりが続いていて面白くない。各駅停車でのんびりした旅をするには、やっぱり、山の中を走る列車のほうが遥かに旅情を感じられるものだと思った。
 さて、表題の面白い話であるが、名古屋市長は、以前テレビによく出た民主党出身の河村氏であるが、市民税を半額にしたとき、自分の年俸も1600万円を半分の800万円に下げたという。市議会議員歳費も半分にしたけど、このほど復活案が可決され議員たちは元に戻ったが、市長は依然800万円のままだそうだ。そして、市長公用車は軽自動車にしていると言う。黒の軽に「名古屋市役所」と書いてあるのですぐ分かるそうだ。それでも、後ろ窓にはカーテンをかけ、運転手が運転する。変わり者かもしれないが、税金を安くしてくれた市民は、市長が、”鉄筋コンクリートの城は城じゃない、木造に建て替えるべし”という、現代離れした提案に対し、反対が少数で可決されたとか。改築費はなんと500億円だという。500億円かけて鉄筋を木製にかえる、もしかしたら、九州の地震で熊本城が被害を受けたのを見て、心変わりしているかもしれない。
 そういえば、思い過しかもしれないが、名古屋には綺麗な外車、特にベンツが多いように思える。やっぱりトヨタのひざ元で、税金だけでなく国民健康保険とか後期高齢者健保とか、いわゆる公共負担が少ないから、懐が豊かなのかもしれない。知らなかったが、全国の市町村の面積でトヨタ市が一番広いんだそうだ。トヨタが豊かなので、隣接市町村が合併させてくれと寄ってくるの。人が集まるのはいいことだと、拒ばまないでいたら、巨大都市になってしまったらしい。三河湾という入り江があるが、この湾の東西に丁度蟹の爪のように囲む半島がある。東が、古い名曲「椰子の実」の生まれた伊良湖がある渥美半島、西が知多半島である。渥美半島はほとんど開発されていないのに、知多半島は、東京からでも、半島の先っぽまで高速道路で行ける。なんでこんなにこっち側だけが便利なのかと聞いたら、知多半島には、もともと「みつかん酢」の発祥元の半田市とか、瀬戸物で有名な常滑市があるが、それだけではなく、トヨタの下請け工場が沢山あり、3次下請けまであることから高速道路ができたのだそうだ。トヨタの地元での威力は、関東地方の人間の想像以上のものがあるようだ。
 話はがらっと変わって、最近、総務省の女大臣が携帯電話の料金を下げろ下げろとうるさく言っているのを新聞で読む。4月23日の朝日新聞には、またもこの問題に関連する記事が大きくでた。そのせいかどうか知らないが、ドコモやau、ソフトバンクの宣伝がぐっと減ったように感じるのは私だけではないと思う。かってSMAPが画面から飛び出しそうに跳ね回っていたり、白い犬が七変化よろしく、迷演技を披露していたソフトバンクの派手なCMがなくなったことが特に感じるのである。CMが減ったのはソフトバンクだけではないので、このこととは関係ないのかもしれないが、一般書店には出ていないので、余り読んでいる方は多くないと思う、月間雑誌「選択」4月号に「ソフトバンク米国子会社のXデー、孫正義に迫る最大の挫折」というちょっと目を引く記事がでていたのでそのさわりを紹介する。 
 『孫社長は2月の決算発表の場で、”これからはスプリントが稼ぎ頭の一つになる、私はわくわくしている”と虚勢を張っていた。実際はスプリントの株価は、2年前の10ドルから3ドルまで下落して重大な局面を迎えている。純債務は2015年3月期の296億ドルから12月末で315億ドルに増加している。しかし、もう負債がどうのという話ではない。目の前の金がないのだ。スプリントの現金は、15年3月末40億ドルから12月末には21億ドルまで減った。同時点での流動比率は(150%以上が望ましい)59.3%、当座比率は(100%以上が望ましい)29.3%、現金預金比率に至っては19.6%まで低下している。何もしなければXデーは目前である。今年から来年にかけて金が回るかどうかが焦眉の問題である。債務返済の最初の山場は今年末にもやってくる。12月1日満期の社債が23億ドル、来年3月1日に10億ドル、8月15日には13億ドルという大きな償還が続く。孫正義と高利回りの債券市場との間でチキンレースが始まる、と米史上での関心も高まっている。(話はまだまだ続いているが中略)大事なことは、スプリントの経理部門のトップが自分の会社の株を平均3.72ドルで売り払ったということだ。同社の数字を最も知る地位の人がやったことだけに、ただ事と考える関係者は皆無である。・・・・』

 まあ、ふた昔以上前に現役をやめた人間には、関係のない話でござんす、というところだが、一時は向こう所敵なしの感じで暴れまわっていた、世界有数の金持ちの孫さんも、やっぱり人の子だ、金持ちにはそれ相応に見合った挫折、苦労もあるんだと思ったものである。
 雑感だから書きたいことを書けばいいのだが、去年の暮から私にとって世界で一番関心の高い、中南米に政治的に大きな変化というか、うねりが起きている。これに関しては、またの機会にゆずることにする。ただ、6月5日のペルー大統領決戦投票の行方は、一つのドラマのような思いで注目している。

【写真上:国宝犬山城、下:明治村に移設されている帝国ホテルの旧玄関】

(2016.4.24 記)

 

四 季 雑 感(30)

樫村 慶一

思っている人は沢山いると思うけど・・・・

 四季雑感も随分ご無沙汰してしまった。言い訳するわけではないが、前回29回を7月に書いてから、昨年後半は家内がごたごた続きになった。6月に私が胃癌の宣告をされ、8月には家内が肺がんになり、夫婦そろって癌持ちになってしまった。幸い私は、早期発見・早期処置の鉄則通りに行って、7月の七夕の日に内視鏡手術で簡単に摘出、8月末には普通に酒が飲めるまでになったが、家内は、闘病中で年を越す。今回の癌騒動で、世の中に一般化している、「健康診断は1年に1度は是非」、なんてよく聞くキャンペーン言葉は、信用できないことを、つくづく身を以って知った。

  私は毎年5月、自発的にかかりつけの近所の内科医院で胃カメラを飲んでいる、10年以上も異常なしなので、今年も、”はいOKです”で済むと思っていたら、あにはからんや、潰瘍が出来ていると言った。すぐに生体検査してもらったら、中分化の腺癌だと言う衝撃の宣告であった。前回から丸1年目のことである。幸い早かったので、大きさは約2mm、内視鏡で、えぐるように取って2週間静かにしていて完治である。検査する前に、マイドクターは2年に1ぺんで大丈夫だと言うのを、今年OKなら来年はパスしましょうと言うことにしたばかりなのだ。予感の当たりに運命を感じた。来年になれば確実に胃袋を2/3も切ることになったはずだ。物欲、名誉欲、性欲など人間としての本能的欲望を全て捨て去った84歳の老人が、最後の楽しみである食欲を満たす術を失ったら、人として何を楽しみにして生きるのだ。来年からは半年に1度胃カメラを飲むことにした。胃癌は目で識別できるようになるには5年間隠れているという。もしいるとすれば、来年は今年の4年生が出てくるわけで、毎年監視を怠らずに首を出した途端に潰すのが絶対的対策である。
 家内の肺がんは、昨年7月私と一緒に区の老人健診でCTを受け、綺麗だったのが、まる1年後の今年7月に癌になっていた。1年に1度の検診のうたい文句に見事に乗せられて犠牲になってしまった。本当に可哀そうである。昔、年寄りは癌にはならない、なっても大きくならない、と聞いた覚えがあるが、あれは嘘だった。

 前回の四季雑感でも、太陽活動が静かなため地球地磁気も弱くなり、宇宙線が地球に大量に降り注ぎ、人類の脳の働きがおかしくなって、常識では考えられない行動に出るものが後をたたない、と書いた。日本でも通り魔がやたらに増えたし、海の向こうでは、イスラムの狂徒があちこちで殺戮を繰り返している。大量の宇宙線は、大国の為政者の脳から、貧困国の裏長屋の一人の狂信者の脳まで、等しく犯している。こうした現象は、いま、”間氷期”の間にある地球上にはびこる、70億のホモ・サピエンスの絶滅の章の始まりかもしれない。

 また話は変わるが、ほとんどの日本人は、12月8日を忘れてしまったらしい。11日は日本も米国も奇しくも大災厄の日なので忘れようもないだろうが、74年も前のこととなると仕方がないのだろう。新聞もテレビもうんともすんとも言わなかったように思う。「本8日未明、帝国陸海軍は・・・・・」あのことである。前夜の雨の水溜りがまだ残っている小学校の校庭に並ばされ、やたらにが鳴りたてるラジオの大音響を、さっぱり訳が分からないまま、聞かされていた光景をはっきり思い出す。73年前、11歳の冬であった。

 またまた話は変わる。これからが今回の四季雑感の本題で、戦前戦中戦後と3時代を知る昭和1桁の人間が感じる、極く極く低俗な、ばかっぱなしと思って頂いて結構である。テレビ番組の中で、日本へ来た外人にその目的を聞いて、密着してレポートするのだとか、反対に外国の僻地にいる日本人を尋ねて行く番組がある。かなりの部分までは事前に調べていくんだろうが(そうでなければ言葉もできない訪問するタレントだけで出来るわけがない)、中には、心から頭の下がる仕事をしている人がいる。良くぞやってくれるな、と脱帽である。政府は毎年定期的な叙勲を行っているが、こうした地道な活動をして日本の評価を上げている人たちも対象してもらいたいと、つくづく思うものである。

 最近沖縄問題について、基地の集中について危険じゃないかと言う意見が出ている。当然だろう、万一どっかの相手と戦争にでもなって、集中的攻撃を掛けられ被害がでたら、日本には、後詰めがないんだから、1発でアウトだ。そんなことが起きるはずはないからだと、たかをくくっているんなら、それでもいいのだが。
 今年も大雪のニュースが伝えられる。いつも、あの屋根の雪の重さは何トンくらいあるんだろうと思う。子供や孫は都会に出ている家も沢山あるだろうし。おじいちゃんやおばあちゃんが、曲がった腰で重いシャベルを持って掻くんだけど、いくらも出来るもんじゃない。若い人たちのボランティアが地獄での仏のように有難がられる。また、洪水、土石流の氾濫、噴煙の灰など自然災害の後始末に本来の消防、警察隊員のほかに、自衛隊が出動する。特に自衛隊には感謝であろう。いまでは、自衛隊は誇りを持てる職業になっているそうだ。世も変わったものである。

 そこで私は思うのだが、こいゆうときに服役中の囚人を使うのはどうだろうかと。税金で無駄飯を食わしている奴ら(勿論、選別は必要であるが)を使って、刑期に反映させれば喜んでやるであろう。このことは、以前は、福島の原発事故現場の作業にも使えないものかと思った。とにかく体力のある男衆を有効活用すべき方策をもっと考える必要がありそうだ。
 安倍君はなし崩しに原発を動かしたいようだが、一度くらいは考えたことがあるのだろうか、それは福島原発が東京の北で、太平洋岸だったことをである。太平洋から西に風が吹くわけがないので、幸いだったけど、考えてみれば、青森県と北海道を除けば、ほかの原発は、みな東京より西の方にある。どっかで事故がおきれば、全部関東地方に放射能が飛んでくる。(富士山の噴火だってそうだけど)それがないような安全基準を作ったのかもしれないけど、起きてからじゃ間にあわないことが現実に起きたのだ。その辺のことはどう考えたのかなと思う。

 それとか、ドラッグの話だけど、ヒロポンとかコカインとかは、成分が同一で一種類しかないので、法律の規制が簡単だけど、ハーブ(ハーブに吹き付ける薬)のように化学方程式に基づいて作る薬品となると亀の甲のような図形をちょいと弄るだけで、異質の物質になってしまう。いままでは、この図形をひとつづつ指定して禁制品にしていたのを、なんとか毒性があればまとめるようになったけど、まだまだ頭の良いやり方とは言えない。私が、焦れたく思っているのは、何故、ハーブ全体を禁制品にできないのだろうか、ということである。
 つまり、日本は、嗜好品であろうと、医薬品であろうと、ハーブ(葉っぱを乾燥させ、香料を振りかけたり刻んだりしたものを炙って煙を嗅ぐもの)は一切扱ってはならない、いうならば、一口で麻薬と言う分類に含め、拳銃と同じような扱いにすればよいと思うんだが。多少生活に情緒感が欠けるようになるかもしれないが、ハーブがないと死んじゃう人がでるんだろうか。ハーブの一つ位日本から消えても、われわれの生活には何の影響もないと思うんだが。裏社会のメニューが一つ増えるけど。
 あれもこれも宇宙線の大量被爆とはいわないけど、もう少し頭を働かせてもらえると、随分安心して暮らせるようになり、ストレスの少ない社会になるんじゃないかな、と思っている。


  しかし、悪いことばっかりの2014年も年末にすばらしい朗報を聞くことができた。米国とキューバの国交再開である。キューバへ行くなら社会主義の間に行けとは、ラテン・アメリカに少しでも関心のある人たちの間では常識である。再び欧米の資本が入れば、ハバナの旧市街(世界遺産になっている)のスペイン統治時代のままの建物も、1950年ころの、ガソリンを撒き散らして走る(1リットル3~4キロしか走らない)キャデラック、ダッジ、シボレー、リンカーン、オールドモービルなんて、よくよくの保存政策を取らないと、アット言う間に消えてしまうだろうし、昔、奴隷船が眺めた深い紺青の海と自然豊か海岸線は、高級マンションやホテルが立ち並ぶ、カリブのどこの島にも見られる、至極平凡なリゾート海岸に変身してしまうだろう。

 今のキューバの産業とは、砂糖、世界1の品質を誇る葉巻、ラム酒、ラテン・アメリカ音楽のルーツでもある音楽、そして優秀なスポーツ選手(特に野球選手)などだけど、おそらく観光立国の島になり、古い景観は消えてしまうに違いない。建設ラッシュがはじまり景気がよくなれば、いずこも同じで、今は無縁の麻薬、泥棒、殺人等がはびこりだすだろう。汚職や政治腐敗、悪徳商人などが現れ格差社会が再び出現するに違いない。カストロの革命は無駄になってしまう。
 今、世界で、政治体制と経済体制(物資の配給制度を行っている)の両方が完全な社会主義国はキューバだけである。(北朝鮮は中途半端な国)社会主義を掲げる国は、中国、ベトナム、ラオス、ほかにも一つか二つあるが、それぞれは、人民平等といいながら汚職はあるし格差社会ができている。しかし、キューバだけにはそれがない。理由は簡単、前の首相フィーデル・カストロが、貧しさを国民と等しく分け合って特権階級を作らなかったからで、そのため、国内で反政府活動が起こらなかった。私は10年前に行っていてよかった。せめてヘミングウエイの家や「老人と海」の主役になったモーターボート、あのボートを引き上げた小さな桟橋は残るだろうか。マウンダー現象による大量の宇宙線もオバラとラウル・カストロの脳細胞にはちょっとだけ、好作用をもたらしたようである。

 夏ごろに世界を騒がせたアルゼンチンの国債をめぐるデフォルト騒ぎはどこへ行ったのだろう。今年一杯が最終的交渉期限だと思ったけど、現地の新聞のホームページをみても、記事が見当たらない。日本人に聞いても分からないようだ。問題が消えるわけはないが、ラテン・アメリカがよくやる手で、バホ・デ・ラ・メッサ(under table)でなにかやってるのかもしれない。


 2015年、あの戦争が始まって74年、終わって70年、最近地球誕生46億年、なんて本読んでいると、人類の平均寿命単位で数える時代の、いかに短いことかをしみじみ考えさせれれる。オーストラリアのプレートが1年で3~5センチ北上していて、遠い将来は日本にくっつき、日本はそれに押され、日本海はなくなり列島は朝鮮半島の上の高い山脈になるんだそうだ。世の中、そんな目で見ると目前の悪い出来事もストレスにならないかもしれない。2015年がせめて平凡な年になるようにと祈りたい。  
(2014.12.30記)

【写真説明】上:手前の高台はモロ要塞、向かう側の低い場所がプンタ要塞。ハバナ湾のこの幅500米の狭い入り口が米西戦争の激戦地になった。中:世界遺産になっているハバナ旧市街の町並み。下:ヘミング・ウエイの「老人と海」の題材の基になった釣りボート。

 

四 季 雑 感 (29)

樫村 慶一

またまた 太陽活動極少期現象(マウンダー現象)のこと 

 

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四 季 雑 感 (28)

樫村 慶一

ウィンドウズのOS入替大作戦”顛末記

 

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四 季 雑 感 (27)

樫村 慶一

新春の舞台めぐり

 

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四 季 雑 感 (26)

樫村 慶一

神宮外苑の銀杏(2007~2013) 

 

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四 季 雑 感 (25)

樫村 慶一
 
  四季雑感は5月を最後に暫くご無沙汰していた。「新作」用にと思う手持ちの題材が半端でまとまりがつかないのと、猛暑で気分的に文書を書く気が起きなかったなどが理由である。 ブエノスアイレスの友人が、市内の中心部はIOC総会の前から交通規制がかかり、世界一広い(幅144米)と言われる7月9日大通りも交通止めになるので、今年の冬の寒さは格別なので、いっそのことこの期間は暖かいところへ逃げようか、なんて言ってきていた。場所貸しだけの現地では、もうオリンピックのオの字も出ないようだ。日本でも東京に決まってからの、オリンピック期待の騒ぎもだんだんと収まってきたようで、まずはやれやれと思っている。 それにしても、自分自身は見られるかどうか分からないような年の人が、いろいろ言っているのが滑稽でもある。でも、今の日本にとっては、オリンピックで騒ぐよりも、福島の汚染水処理が何お置いてもやらなくてはならない重大なことだと思うのだが。

  暑さ寒も彼岸まで、と言う古人の言葉の言い伝えに、今年は改めて敬服した。なんたって、あの夏の酷暑が彼岸の前日に、綺麗さっぱりと涼しくなったんだから、これはもう神秘的というしかない現象でもある。その、涼しさを狂気のごとく求めていたときに、秋を先取りして芸術を楽しんだ。9月上旬の東京国際フォーラムの 「Tokyo Jazz Festival 2013」 と、中旬の東京芸術劇場の 「としま能の会」 である。どちらも初めてではないけど、今年はなぜか特に新鮮に感じられた。暑くてうんざりしている毎日に、スキッとした気分にさせてもらったからだろうと思う。

  ジャズ・フェスティバルは9月6、7、8日の3日間で、私が行ったのは、7日である。この日は3つのバンドが出演したのだが、御目当ては、”とり”に出演した、キューバから来た、オルケスタ・ブエナ・ヴィスタ・ソシアル・クルブである。このバンドは11年前の同じこの祭典に来日している。あの頃は、このバンドが急激に人気が出たころで、楽士は全員黒人だったように記憶している。5000人入る国際フォーラムのAステージが満員になり、最後は皆立ち上がって手をふりふり、拍子を合わせていたのを今でも覚えている。その後は映画にでたり、世界ツアーをしたりで、世界の音楽会に大きな影響をあたえたものである。

  その当時のメンバーは殆ど亡くなり、今回のメンバーには白人も少し混ざっていた。とにかく息をつかせない演奏の連続で、もう聞く方は完全にキューバ音楽に、いやラテン音楽に酔いしれてしまった。それも当然で、ラテンアメリカ音楽の原点はキューバ音楽からと言われているためである。そして圧巻は、これこそ、11年前と変わらない女性歌手、オマーラ・ポルトオンドの歌声である。年齢ははっきり知らないが、恐らく80代後半だと思うのだが。歩くことこそ危なっかしいが、喉から出る声は11年前の時と、さらにその後、ハバナの世界最大のラテン音楽殿堂「トロピカーナ」で聞いたときと、ちっとも変わっていないのが驚きである。歌っているときは手を大きく振り上げたり腰をくねらせたり、これがまた奇跡のようである。一時間半、夢のような時があっというまに過ぎてしまった。
  最初に出たのは、大江千里サタデイ・ナイト・オーケストラ、2番目はリー・コニッツ・カルテット、いずれも、世界でも一流バンドであり、ジャズの醍醐味を十分に味あわせてもらった。

  豊島区が主催する 「としま能」 も今年は26回目になる。毎年ではないが、何回か鑑賞してきた。毎回、舞囃子、狂言、能の3つの演目(能組)で構成されている。今年の能組は、舞囃子は「高砂」、狂言は「棒縛(ぼうしばり)」、能は「隅田川」で、この3つの中で、一番面白いのはなんといっても狂言であろう。 外出する主人は、留守中に太郎冠者と次郎冠者が悪さをするので、召使と共に二人を縛ってしまう。しかし、悪賢い二人は奇妙な手を考え出し酒を飲み浮かれだす。シテ、アドと小アドの3人(3役)が喋りまくり、所作を踊りまくる。これは文句なしに面白い。これだけで、満足といえると思う。
  これ以外の囃子は、謡を歌うのは、ほんの2、3人だけで、後ろに袴を穿いた10人近い人が正座していて、殆ど何もしない。能は、シテとかワキ、ワキツレなどが所作をするが、後ろにいる人達は途中で扇子を前に置き腰を半分浮かして、また座りなおす。この所作役割がよく分からない。それに能は意味が取れないセリフばかりだ。能の良さが分からない人間には、まだまだ見る前の修行が足りないと思ったものである。

  埼玉県の日高市の巾着田の彼岸花が満開である。昨年まで毎年見物に行っていたけど、いよいよ足腰が弱って無理になってきた。人生の楽しみも屋外型から、屋内の映画や舞台鑑賞型に変わってきたようだ。寂しいことではあるけど。   終わり   (2013.9.24 記)

 ★写真説明;(上)ハバナ港入口のモロ要塞を背にしたブエナ・ビスタのメンバー、赤い女性がオマーラ・
   ポルトオンド、右の黒人男性は、トロンボーン奏者でリーダーのヘスス・アグアッフェ・ラモス。
 ★写真説明(下) 東京芸術劇場のとしま能、狂言「棒縛」の舞台。

 

四 季 雑 感 (24)

樫村 慶一

映画って本当に面白いものだ

 さて、今年のゴールデン・ウイークもとっくに終わってしまった。毎年この季節を楽しみしていた頃から20年以上が経った. 年毎に疲れ易くなってバスや列車での旅が億劫になり、肺に欠陥が あるため気圧の低い飛行機に乗るのが怖くて、海を越えなくなったため、エンターテインメント はどうしても都内か近郊でということになる。一番手っとり早いのが映画であり、シニアーは常に1000円 と有難い料金で楽しめる。誰が決めたかしらないが、全国の映画館が1000円とは近代で最も有難い制度の 一つであろう。ゴールデンウイーク前から割合面白そうな映画が集中した。私が見たものを自分なりの勝手な評価をさせて頂こうと思う。見損なった方、見ようと思っている方に少しでも参考になれば有難い。

【フライト】
 新聞の宣伝では、旅客機が宙返りして飛んでいる写真が大きく載っていたが、実はメインのストーリーは、旅客機の前代未聞のアクロバット飛行の物語ではない。飛行機のトラブルの場面は開始後すぐ始まり30分くらいで終わる。アクロバットの原因は、垂直尾翼が右に曲がったまま動かなくなり、自動操縦が不能になった機体が水平飛行できなくなったので、やむなく手動で背面飛行をしたことによる。 定期検査の検査官としてかそれとも他の理由か、たまたま機長資格者が2人も搭乗していて援助したのも幸いだったようだ。 なんとか広い草原まで飛び、元の姿勢に戻って、田舎の教会の屋根を少し壊しただけで不時着し、被害を最小限に抑えた手腕に対して世間は拍手喝采を送り、機長は一躍ヒーローになった。被害は乗客1人とスチュワーデス2人が死んだ。しかし、 操縦した機長が飛行中かなり酒くさかったので、酔っぱらってあんな無茶な飛行 をしたのではないかという疑問がかけられ裁判になった。映画はこの裁判の結末を最後までスリリングに描き、観客をはらはらさせる。事故調査により機内のパントリーにはウオッカの空ビンが2本転がっているのが見つかる。死んだスチュワーデスの一人が酒好きで、ウオッカはそのスチュワーデスが飲んだものと関係者は皆そう思っていた。しかし、実際は機長が飲んだものであった。事実を打ち明けられた弁護士は 「飲んでいないと最後まで主張しろ、そうすれば見事なアクロバットで水平飛行を保ち不時着して被害を最小に抑えた英雄になれるんだ」、と説得する。機長は自分が飲んだのを死んだスチュワーデスのせいにするのに良心の呵責に悩んだ。そして、判決の直前で遂に機長は良心に負け、自分が飲んだと打ち明ける。 結果は有罪になり刑務所に入ると言う物語である。前代未聞の飛行の腕前を高く評価され一時は英雄に祭り上げられた機長の、心中の葛藤が見事に描かれている。JAL・OBの友人に聞くと、「旅客機は主翼の 断面からみて宙返りは揚力が逆になるので実際は難しいのじゃないか、飛行機はどんな姿勢でも自然に水平になるものだ。 ただ、この飛行機はボーイングB727で尾翼周りに3基のエンジンがあるので、尾翼故障の場合は主翼エンジンの機体よりは操縦しやすいとは思う」、と言っていた。C・G画面とは言え現実的な背面飛行のスリルを楽しむのも良し、名誉欲と良心の狭間に苦しむ機長の心境を共有するのもよし、 興味満点の映画である。


【リンカーン】
 スピルバーグ流のキレの良い場面が沢山あるが、一口に言って、この映画は、国外向けと言うよりは国内向けのような気がする。理由は色々あるが、当時の米国の国内事情や、黒人奴隷の実態、政治世界の力関係などが殆ど書かれていない。「過去にはあんな立派な大統領がいたんだ、偉大な指導者が求められる今、このような歴史を知って欲しい」 と言う教科書的映画のようにも思える。スピルバーグの熱意の作品ではないかと思う。物語は1865年1月に再選を果たした頃から、4月にフォード劇場で暗殺されるまでの僅かな期間に絞って、リンカーンの行動が細く描かれている。特に1864年1月31日の、議会での憲法改正評決を前にした賛否の票読みのあたりは興味深々である。 ”すべての人間の真の自由”と言う理想を掲げたリンカーンにとって黒人奴隷解放は悲願であり、そのためには憲法改正が絶対に必要だった。議会に対しなりふり構わぬ多数派工作を行う。評決の結果は 賛成119票反対59票、1票差のまさに薄氷の勝利だった。出席議員総数は178人。賛成が3分の2を上回るには119票なくてはならない。反対が60票なら賛成票が3分の2に届かない、憲法改正は否決である。しかし、この辺りの票の動きのスリリングな模様は映画にはうまく表現されていない。たった数ヶ月間の動きなので妻との確執とか息子の出征の悩みなど、リンカーンの行動が詳細に描かれているが若干凝り過ぎの感もある。もっと当時の南部7州に続き最後は11州が連邦から離脱した経緯とか、当時の国内情勢、南部の経済を支えた奴隷制度、南北戦争の悲惨さなどが見たいと思ったものだが。面白い映画ではあるが、先の「フライト」のほうが、映画としては上であろう。友人の 時事通信解説委員長の明石氏も「題材はいいが興行的には成功しないだろう」と言っている。でも、これを契機にアメリカと言う国の歴史を改めてもっと知りたいと思ったものである。

【藁の楯】
 日本映画にしては珍しい、本格的な素晴らしいアクション映画だ、幼児誘拐殺人犯に孫を殺された財界の大物、元経団連会長が、犯人を殺した人には10億円提供するとテレビで大々的に発表する。このため日本中の人が10億円欲しさに犯人の命を狙う。この犯人を九州から東京に護送する5人の警察官と、途中で犯人の命を狙う様々な人間との戦いを描いた映画である。どの車に乗せているか分からないように何十台ものパトカーを囮にして移送する途中で出現するダンプカーとの壊し合い、新幹線の中での暴力団風3人組との銃撃戦、この新幹線内の打ち合い場面の立ち回りはシナリオの発想が見事だ、新幹線の車両は台湾の新幹線を使ったものなので、色が橙と白の日本では見られない車両である。この銃撃戦で警察官一人が死ぬ。周りの人間すべてが敵に見えてしまう緊張感は観客にもひしひしと伝わってくる。誰も信用できなくなった時の恐怖感はいかばかりか、映画とは言え鳥肌が立つ思いがした。護送する警察官が拳銃で撃たれたり想定外の事件で脱落したりして、最後は主役の「大沢たかお」だけになってしまう。”任務だとは言え、殺人犯を守るために 警官が命をかけるなんてどうしても納得できない” と言う台詞が劇中でも出てくるが、見ている人も皆そう思っただろう。護送警察官が手首にGPSの発信機を埋め込み、犯人を殺させるために仲間を呼び寄せようとするストーリーには原作に敬服である。アクション場面が全部実写ではないことは良くわかるが、さりとてどの部分がC.G.なのかも分からない。日本映画も随分と腕が上がったものである。ただ、護送女性警察官が油断して犯人に撃たれるシーンがあるが、筋書きを面白くするためだろうけど、あの緊張感の中での油断はわざとらしい。賞金を出すと言った財界大物は殺人教唆の罪になるそうだ。最後は一人になり血まみれになって任務を果たした大沢たかおの男っぽさが素敵である。テレビではとても味合うことができない迫力が迫る、掛け値なしにl面白い娯楽映画と言える。

【戦争と一人の女】
 パンフレットの評では”官能文芸ロマン”となっているが、全編を通して男女の絡み合いが充満している坂口安吾原作の文芸作品に基づく映画である。ストーリーは関連性のない二つの話が平行して進行する。一方は戦中戦後の市井の片隅に生きる、夢も希望も捨てたような無気力な男、飲んだくれの作家と元女郎上がりの飲み屋のおかみとの、長々とした濡れ場の話。 しかし、戦争末期の東京に中年の五体満足な男がこんな好き勝手なことをしていたと言うのは、にわかには信じがたい話である。好きな女性の写真を抱いて死んで行った多くの兵隊がなんとも哀れである。
 もう一つの筋書きは、昭和20年~21年に世間を騒がせた小平義雄事件をモデルにした話である。映画では小平ではなく大平義雄となっている。中国戦線で右腕を失って帰還してきた兵隊が、女房との正常な夫婦生活ができなくなり、刺激を求めて都内の駅などで7人もの女性に声をかけ、主食の買い出しに農家を紹介してやる と言って地方へ連れ出し、乱暴して殺害するというこわい話である。詳しい紹介はこの欄でははばかれるので、実際の映画を見てもらうしかない。その他の場面では、焼夷弾の説明がよくできていた。あれは、実際に焼夷弾を知っていた人ではないと書けないだろう。この映画を見て、昔は本当に、あんなことをしていた人がいたのかなと思うばかりである。

 昔、淀川長治さんと言う映画評論家がいた。ご存じの方もいるだろう。映画って本当に面白い、というのが口癖だった。彼だけではなく、本当に映画って面白いものである。想像も願望も不可能なこと も実現できないことはない。ましてや今のようにC.G.なんていう技術が進歩したお陰で、映画で表現できない事象はないだろう。恐ろしいことをあたかも現実のように目にすることもあるけど、やっぱり ますます楽しみである。映画とは見ない人は何年も見なくてもなんとも思わないし、見る人はちょこちょこ見ないといられない、一種の麻薬のようなものらしい。 (2013.5記)

 

四 季 雑 感   (23)


樫村 慶一

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今年はKDD創立60周年です。
昔のことを一緒に思い出してみませんか 

 ああ、あの頃のことが、KDDが出来たのが、もう 60年も昔のことになってしまった!。
私は、人一倍古いことへの愛着が強い人間なのかもしれない。すべてのことについて、昔のことが懐かしい。もっとも懐かしいことがない人などはいないとは思うけど。私にとって懐かしい時代を年代で言えば、生まれていなかっただけに憧れに似た憧憬がある大正時代に遡るが、実際に記憶の領域にあるのは、5歳位になった昭和10年頃からのことである。昭和11年の2.26事件はなんとなく覚えている。懐メロは昭和30年頃(1955)までの歌じゃないと、私の懐メロのカテゴリーには入らない。でも今じゃ、昭和40年代(1965~1975年まで)の歌も40年以上も経った立派な懐メロになった。
 KDDが今年創立60周年になるということを、昔を知っている人に会う度に言うが、異口同音に“ふーん、そんなになるかー”で終わりだ。拍子ぬけがしてしまう。私は、k-unetになにか特別なイベントをやってもらいたいと思うのだか、世話人も皆若返りしてしまったためか、乗ってもらえそうもない。50周年の時は自分が世話人だったこともあるが、他の世話人さんも50周年を祝う気分に満ちていた。ホームページの表紙を特別仕様の画像で飾ったり、募集した投稿文も沢山集まった。でも60周年の今回はムードが全く沸かない。時代は変わったのだ。やむなく自分で出来ることを考えた。それは、このウエッブ・サイトの中で、自分で裁量できる「四季雑感」欄を活用し、特別に作った動画アニメを掲載することである。この欄と合わせて一度是非見て頂きたい。

 K-unetの会員名簿を見てみたら、60年前に当時の電電公社から新会社KDDに移ってきた人は40人くらいはいる。私は23歳だった。現場上がりの私には本社の人事構成は知らなかったが、KDDができてから最初に大学を卒業して入社した人は、創立翌年の昭和29年に入った技術屋の横井寛さんとk-unetの初代代表の石川恭久さんであり、業務屋のトップは31年に入った、先日亡くなった小熊忠三郎さんと、佐々木哲夫さんだった。この方達は、“給料が3回も出た”と言う感激は味わっていない。60年前に存在し、かつ今も健全で当時のことをなんとか覚えている”私”というのは、少しは凄いことなんだと自尊している。まだどうにか覚えている60年前の出来事の中から、前号の「四季雑感(22)」の二番煎じにならないように気をつけながら、今では考えられないようなことを拾って見た。思い出すままに書いてみたが、知っている人が読んで間違っていることがあったら、どうぞ指摘して頂きたいと思う。

【退職金の行方】
 会社になったとき、KDD社員は皆電電公社を退職してきたので、退職金と、一部の人を除き電電共済会の脱退金がでた。私は電電公社の在職が5年だったので、退職金は11万円余りだった。昭和28年の11万円はかなりの値打ちがあった。母親達と住んでいた千葉市の戦時中の軍需工場社宅のボロ家がすっかりリフォームできたのだから。当時の電電公社職員は国家公務員であり、厳然たる身分制度による階級社会であった。無線通信士の1級とか国際電話交換手などは、6級とか7級職でかなり上の地位だったし、外信課で国際通信に従事するのに絶対に必要な資格、特殊無線技師国際級だと5級職とか、職級で給料が決まっていた。7級職くらいの人の退職金は30万位だったと記憶している。そして、福利厚生の対策もかなりのスピードで進み、社宅の建設と併行して住宅資金貸付制度も出来、誰でも25万円が簡単に貸してもらえた。地方出身の人が多く、退職金と合わせて大勢の人がマイホームを建てた。今は余り形態が残っていないと思うが、三鷹の下連雀にはKDD村ができた。概して中央線沿線とか西武線、小田急など、なぜか都下の西の方が好まれた。こうした中で、Tさんと言う豪傑は、新宿2丁目(明治通りを挟んだ伊勢丹の東側の一角、昔は新宿2丁目だけでどんな場所か分かった)で、退職金がなくなるまで居続けたと言う逸話もあった。確認した人は誰もいなかったけど。

【輪番の夜の楽しみ】
 昔の輪番は3番勤務と言って、「宿直~明け~日勤または休み」の繰り返しである。宿直は前徹・後徹の交代制で、前徹は午前2時半まで勤務、後徹は午後10時から寝て午前2時半から翌朝9時までの勤務である。しかし私は、すぐには寝付けないたちなので、起床時間をきにしいしい寝返りばっかりを打っていた。昭和30年(1955年)大手町新局舎ができソファーが置かれた立派な休憩室ができた。夜中はこの休憩室が眠らない連中の賭博場と変わり、丸テーブルを囲んで博打もどきの遊びをやっていた。なにをやったのか忘れた部分も多いのだが、ポーカーとか、1円硬貨の裏表を当てる丁半博打だったように覚えている。掛金は硬貨や食券だったと思うが、すでに忘れてしまったことが多い。1円硬貨をピース(たばこ)の缶に入れて持ち歩き、職場でも仕事をしながらやっていた。禁止命令が出たのは大分後のことで、きっかけは、休憩室の丸テーブルの縁に煙草の焦げ跡が沢山ついているのを不審に思った夜間責任者が夜中に見回り、開帳中のところを御用にしたというわけである。今の人には信じられない話だろう。日勤の昼間の休憩室は野球中継を聞くものが多かった。あの頃はプロ野球の西鉄ライオズ(今の西武)の全盛期で、鉄腕稲尾が大活躍するのを興奮して聞いていた頃でもある。ナイターはまだ始まっていなかったのかどうか覚えていない。

【不祥事のかずかす】
 庶民俗人ばかりが集まった国際電報局には、当然ながら世間並みの不祥事もあった。鍵のかかっていないロッカーから現金や金券(食券)を盗んだ人とか、京浜東北線の通勤電車の中で痴漢をやっ人などは警察沙汰になったと記憶しているが、都内の営業局における現金蒸発事件とか、別に犯罪ではないが、競輪に狂い周囲から借りるだけお金を借りまくり、給料差し引きで食券を買い、それを直ぐ売って現金にする人がいたとか、大分後の話ではあるが電話局の交換手のベッドに侵入したが未遂?だったので温情で依願退職扱いになった豪傑の話などは、内緒で始末されたように思う。ただ寡聞にして、或いはまだ道徳心が世の中に健在だったためか、女性がらみの不道徳(背徳)な話は聞いたことがなかった。ましてや、新聞タネになるようなことは皆無で、悪いことで新聞を騒がせたのは、恐らく1979年(昭和54年)のKDD事件が初めてだったのではないかと思うのだか。

【休日出勤を巡る贈収賄騒ぎ】
 休日に出勤すると手当がついた(今でもそうかもしれないけど)。これが馬鹿にならない金額だ(額はすっかり忘却)。昼間の休日出勤だけでも結構な額になったし、宿直に当たろうものなら宿直当日と翌日の明け番とで、1勤務で2日分にもなった。そのため、皆が出勤したがったので、課長が記録簿をつくり公平に当たるように采配していた。そこを裏口から接触して有利に扱ってもらおうとするずるい奴がいた。ちゃちな贈収賄事件である。中でも旧陸軍の将校上がりで要領の良い奴がいて、派手に袖の下を使ったと言う話は、多くの人が知っていることであった。年末年始やゴールデンウイークなどは、うまく当たれば絶好の稼ぎ場で、次の給料が楽しみだったのである。

【宿直明けの自由な人生】
 若いということは本当に素晴らしいことだ、80を超えた今になって、つくずく昔の体力が懐かしい。宿直勤務でも一応眠る時間はあった。前徹は午前2時半までが仕事でそのあとは朝まで眠れる、後徹は、先にも書いたが、午後10時から翌午前2時半まで眠る時間がある。しかし、寝る時間が早すぎるし若い体が十分に睡眠を取るには短すぎるので、とても眠れるものではない。したがって、翌朝になると、殆ど寝ていないも同じ状態なのだが、一向にへこたれないから、若いってよかったな、と懐かしむわけである。
 宿直明けの自由な時間に大学へ行く人、競輪とか競馬とかのギャンブル場へ行く人、がめつく別の仕事を持っていて、そこへ急ぐ人などなど、私の周りの人達で、家に帰って眠るなんてことを言う奴は、役職者のロートルを除いてはいなかったように思う。そして私は仲間と神田駅近くのパチンコ屋へ急いだ。10時の開店時には戦時中の行進曲「軍艦マーチ」が鼓膜を破らんばかりにがなり立ている。終戦から10年も経っていない時代(前年に占領から解放され漸く主権を回復したばかりの1953年頃)では、昨日まで聞きなれていた勇壮な曲である。それから12時間、昼飯抜きで立ったままで玉を弾いていた。顔には脂汗が浮き、煙草をやたらに吸いながら打つので、口はカラカラ、喉はいがらっぽく、さすがに腰もしびれてくる。よくぞ病気にならなかったものである。いつも遊ぶ資金の調達が問題になった。神田駅のすぐ近くに顔馴染みになった質屋があり、仲間と順番に腕時計を質入れして、その金を分配して助け合って?遊んでいた。

 思えば遠い遠い昔のことばかり。空襲で街も学校も焼けてさまよい、食うためにやっと掴んだ通信屋の道が、将来どうなるかなんて全く考えもせず、また先行きに特別な希望も持たず、ただその日その日を好きなように過ごしていた時代である。ただ、それまでの電電公社よりは、”なんとなく良さそうだぜ”とはみんな思っていた。ゴルフでは、”たら、れば”は禁句であるが、今にして思えば、昔のことは、たらればばかりの日々であった。だからこそ、懐かしいのかもしれない。
 今年は4月に桜がないと言う異常な年になりそうだ。桜は入学式の花ではなく卒業式の花になってしまったようだ。地球規模の異常気象の始まりかもしれない。大きな地震や噴火の説を聞けば”霞か雲か 見渡す限り・・・”などと言う、のたりのたりした気分にはとてもなれない。残りが少なくなったのは幸せかもしれない、などと、とり止めもないことを考える。おわり(2013.4 記)

 

四 季 雑 感  (22)

樫村 慶一

KDDが還暦を迎えた

 2012年もあっという間に終わってしまった。今年2013年はKDDの創立60周年、還暦の祝い年である。思えば1958年(昭和28年)に、電電公社から国際部門に関係した人たちの大部分がKDDに転籍してからもう60年たってしまった。一緒に移った仲間も随分いなくなった。いきなり給料が10%以上も上がった。”国際通信”を担うというエリート意識を持たせるために常に電電公社より10%以上差をつけるのだと言われていた。朝鮮戦争のさなか対米電報の山に埋まりそうな頃だった。ほとんどの電報は兵隊が国にお金を無心する内容で、しかも、文字が書けない兵隊がいるとか電文を短縮するためとかで、略称”EFM”と称する略語電報が多かった。そして極め付きは、年度末の3月、給料が2回でた。当時の給料は10日の前半と25日の後半の2回に分けて出ていたので正確には3回目である。会社にきたら主任が給料が出ているから副課長席に行けと言う。つい先日出たばかりなのに一体どうゆうことかと、半信半疑の思いで副課長席へ行った。当時の給料は現金の袋詰めである。話は本当だった。机の上の箱に袋が一杯詰まっている。勤勉手当、後の期末手当である。奥さんに長い間内緒にした人が沢山いたし、ある社宅では夫婦喧嘩の末、奥さんの機嫌とりに臍繰りとして隠していたのを白状したため、奥さんがこれを近所に吹聴したので暴露された家では新たな夫婦喧嘩が起きた。送受信所社宅では周知事項がみな拡声器で一斉通報されるので、何事も公明正大だとぼやき半分に語っていた人もいた。でも、みなアンテナのバッジを誇らしく思っていた。あの頃を知っている人達はみな80歳を過ぎた。かく言う私も83歳になる。

 四季雑感も22回目を数えるが、その中身は始めの頃は社会福祉制度や税金などについて感じることを書 いてきたが、いつのまにかラテンアメリカ絡みになってきてしまった。自分にとって、とっつき易いテーマであるし、材料も色々と集まってくることも理由である。 年が変わったのを機に2012年を振り返ってみた。1982年のマルビーナス(フォークランド)戦争から丁度30年、当時を思い出させるかのように、アルゼンチンと英国が再び火花を散らした。 東アジアでは政権交代があった国が多かったが、ラテンアメリカでもニカラグア、ベネスエラ、メキシコ、パラグアイなどで大統領選挙があった(パラグアイは弾劾裁判で罷免)。ニカラグアでは3選目、ベネズエラでは絶対的独裁者チャベスが4選されたけど、癌持ちのため体力が心配されている。世界各地でも様々な動きがあるものだ。
 私は何回かラテンアメリカが日本と変わらぬ地震多発地域であることを書いてきたが、2012年も結構大きな地震が何回も起きている。もっとも日本の数十倍以上にもなる地域だから、影響を比較するのは間違っているだろうけど、同じ大陸の中ということで考えると、北米やヨーロッパ、アフリカなどと比べてやっぱり多いと思う。南米各地では、「2012年は、ブラジルやコロンビアの洪水、旱魃、チリの火山噴火や大規模な山火事、アルゼンチンや ブラジル東部の旱魃などが続いた異常気象の年だった。海面温度が下がるラ・ニーニャの影響だ」 と言われている。気象と関係あるのかどうかまだ分かっていないが、もともと中南米の太平洋岸には世界有数の地震帯が走っている。2012年もまた大きな被害をもたらした地震があった。3月にはメキシコのM7.4とチリのM7.1の2回も、9月にはコスタ・リカでM7.6、そして締めくくりは10月のグアテマラのM7.4と、相も変わらず揺れ続けている。

 10年前のデフォルトの後遺症に未だに悩むアルゼンチンは、1年を通じて外貨流出を防ぐため輸入規制を強めている。 身近なことでは、私が友人に誕生日のプレセントに贈ったアクリルの額、花の模様などが描いてある和蝋燭、CDケースにいれた卓上カレンダーなどにも課税され、友人が受け取りを拒否 したとして、二月も遅れて日本に送返されてきた。税金が高くても受け取りを拒否するうような友人ではないのだが、課税が不正行為であり税額がものすごく高いらしかった(友人は税額はいわないが、想像以上なんだと思う)。他から聞いた話では税関職員が輸入規制をいいことに、対象外の物品にまで勝手に課税するんだだそうだ。封筒を触ってみて硬い感じのものや、申告用紙の金額欄に金額を書くと、それが安くても開けて税金をかける。柔かいもの、要するに紙か布製品で”贈り物”として金額はゼロにしておけば、まあ安心だと言われている。

 日本では2012年は国内や周辺国との問題が多すぎて、新聞もテレビはとてもじゃないが地球の裏側のことなどを報道するまで、あまり手がまわらなかっただろうし、スペースもなかったのだと思うが 、それにしても観光番組が多い(同じ所が重複している)わりには政治経済、一般社会状況などの報道が少なすぎる感じがする。ほとんど新聞などに出なかったけど、マヤの暦による地球滅亡の日と言われた12月21日は世界のあちこちで、”聖なる山”などに、狂信的な神の信奉者が集まり集団自殺をするなんて噂がたった。アルゼンチンでも、アルゼンチンの臍と言われる中央部のコルドバ市 (最初に大学ができた文化的学園都市)近郊の保養地の近くにある、ウリトルコ山に物凄い数の人々が集まってきたので、州政府が立ち入り禁止措置をとったと伝えられた。

 とりとめないことばかり書いてきたが、年末になって私はテレビでびっくりする写真を見た。ここに掲げる上の写真である。(上は尖閣諸島に侵入してきた中国機.下はアルゼンチン航空のB727) アルゼンチン航空の写真は15年ほど前にボリビアのラ・パス空港で撮ったものだが、このブルーの2本の横線は4年間住んでいる間に目に焼きついているデザインであり、今も変わらない。中国機を見て一瞬、「あ! アエロリネアスだ!」と叫んだ。(Aerolineas= アルゼンチン航空の名称)。とにかく青い横線がそっくりなのはご覧になってお分かり頂けるだろう。猿真似が得意で、偽物作りの天才のような中国人らしいと言えば聞こえがいいが、 本当に知らずに描いてみたら同じような模様になったということなのか。このデザインにした理由は分からないけど、もしそうなら実に不思議な偶然である。
 さあ2013年、蛇年は吉とでるか凶とでるか、スペイン語の世界では、 ”Dios sabe” と言う。”神様が知っている” という意味だが、”さあ、どっちだろうな” というような場合に使う。なにはともあれ、今年もk-unet会員の皆様にとって良いお年になりますように、心より祈念いたしたいと思います。   終わり (2013.1.2)

 

四 季 雑 感 (21)

樫村 慶一

コーノスールの国花を偲ぶ


 「四季雑感」も20回目が終わった。今回は少しばかり肩の力を抜いて、南米大陸のコーノスール(cono sur:南の円錐、つまり南米大陸の南半分の三角形の部分を言う) 諸国の国花を偲んでみた。これらの花はみな春に咲く。(季節は逆なので日本の秋)。地球の裏も表も、秋の花は耽美な深い香りと魅惑的な色合いの、えも言われぬ魅力を振りまく成熟した女を感じさせるのに比べ、春の花は若々しい新鮮味溢れる、健康的な様相を見せてくれる。日本の国花は秋の菊だけど、世界中に通用する日本の花はなんと言っても桜だ。花見の季節を楽しみにするのと同様に、南アメリカの国々でも、春の訪れには狂喜し、各地で花祭りが盛大に行われる。コーノスールの国々の国花とは、アルゼンチンとウルグアイのセイボ(ceibo:マメ科のアメリカディコ。写真:2,3)、ペルー、ボリビアのカントゥータ(cantuta:花しのぶ。4,5)、パラグアイのパシオナリア(pasionaria:時計草。6,7)、チリのコピウエ(copihue:ツバキカズラ。8,9)などの花である。

 南米南部の春は10月から12月末頃までで1月は真夏になる。パタゴニアの氷河見物や、アコンカグアに登るのも、南極へ行くのも 1月か2月である。今でこそパタゴニヤ地方が観光地としてテレビでしばしば放映されるけど、20年位前までは、大陸最南端の海と島嶼が入り混じった複雑な地形の国境線を巡って、アルゼンチンとチリがしょっちゅう争っていた。そのため観光なんてとてもできる状況ではなく、どうしても行かなければならない場合は、軍隊の飛行機や船、トラックなどに余裕のあるときに、便乗を願いでるしか手段がなかったものである。今の竹島、尖閣と同じようなことをやっていたのだ。最後はローマ法王の仲裁に両国とも服して解決した。竹島も尖閣も仏教国同士なんだから、お釈迦様がいたらとっくに解決していたかもしれない。


 ブエノスアイレスに春がきて真っ先に咲き出すのが"ハカランダ"(写真:1)だ。英語読みするとジャカランダだが、言葉の感じからも花の印象からも、濁りのないハカランダの方がふさわしい。桜と同じ位の大きさの木で、長さ5~6センチの薄紫の花が、小枝の隅々まで咲き溢れ、都の空を霞がたなびくが如く紫色に染め上げ、春の陽射しに眩いばかりに輝く。桜と同じように風雨に弱く、一雨ごとに色褪せて、花吹雪のように散り行く様を見ると、日本人は、それぞれの胸中に故国の桜を思い浮かべ郷愁にかられる。
 ハカランダの紫が盛りを過ぎる12月になると、いよいよ アルゼンチンとウルグアイの国花"セイボ"(写真:2,3)の季節である。ハワイなどで虎の爪と呼ばれるこの真っ赤な花は水辺に多い。そのためかブエノスアイレスもモンテビデオもラ・プラタ川の岸部に多く見かける。大きなものになると、高さはゆうに3米を超えるものもある。暑さも本格的になるクリスマスの頃まで強烈な赤色に輝く。そして、赤が色褪めてくると、幹がワインやビールの樽のように膨らんだパーロボラッチョ(酔っぱらいの木)が、ほんのり頬を染めたように薄桃色と白の五弁の花をつけ始める。セイボが散り、酔っ払いの木の花の色が褪せてくると、街路樹の "アカシア"(ミモザ)の梢近くに、黄色い房のようになった花が葉陰から見え始め、4月のセマーナ・サンタ(イースター:聖週間)がやってくる。

 ペルーとボリビアの二つの国が、カントゥータ(写真:4,5)をどっちが先に国花にしたかを巡って争っているという話もある。アンデス山脈の3000米を越す水のない高地に咲く2米足らずの低い常緑樹だが、両国の象徴である神聖な土地の花なのでどちらも譲れないと言う。花はつりがね状の長い花びらを持ち密集して咲く。マチュピチュの石積みの間に咲いているのが、殺風景な遺跡に紅一点の趣を添える。しかし、ボリビアのチチカカ湖に近いチワナク遺跡では見ることはできない。どこかの山地の石の間に、ひっそりと咲いているのであろう。
 コーノスールの国花の中で日本で唯一見られるのが、パラグアイの国花パシオナリア、時計草(写真:6,7)である。針と言い、文字盤と言い本当に時計に良く似ている。紫と白と2色あるが、紫の方が先に咲く。見ているだけでユーモラスな感じをうける花である。丈夫でとても繁殖力が強い。鎌倉の極楽寺の裏の奥に十六夜堂(いざよいどう)という小さな無人の庵があるが、そのそばの垣根に咲いていた蔓状の茎を、10センチ程に切って数本頂き庭に差しておいた。それが、3年くらいで7米にもなる生垣に成長した。満開の時期はそれは見事である。パラグアイに行ったのは冬だったので見ることはできなかったが、南米の花というのを知ったのはずっと後になってからだ。だからこの花だけは何回見ても彼の地を思い出すよすがにはならない。

 チリの国土は南北に約4000kmもあるので、常に四季があると言われる。コピウエ(写真:8,9)は南部の花である。南部ということは南極に近い寒い地方のことで、JICAが成功しなかったのをチリ政府が引き継いで成功した、鮭の養殖が盛んな地方であり、日本への木材の輸出も多い。この地方に咲くのがコピウエである。もう15年ほど前になるが、真夏の2月、妻と一緒にアルゼンチンのバリローチェからアンデス山脈を超え、湖沼地帯をバスとフェリーを乗り継いでチリへ入った、最初に着いたところがプエルト・バラスと言う、それはそれは美しい町だった。通りの中央部はバラの花壇になっていて、建物は皆ロッジ風の洒落た家だ。地の果てのような辺境の町で初めてコピウエを見た。雪柳に似たこんもりした樹形で、細い蔓には10センチ程の真っ赤な靭形の花が下を向いてびっしりと咲いている。丁度 正月の飾りに使う舞玉のようだ。珍しい花なのでしばし佇んでいると警官が通りかかったので、花の名前を聞き初めてチリの国花コピウエと知った。南部に多いと言う通り、その後1000キロ北に位置する首都のサンチアゴへ行ったが、そこではついぞ見かけなかった。私にとっては一種の幻のような花である。  (2012.10 記)

写真出典: ①ハカランダ(パレルモ公園):撮影:ホセ ルイス フネス (ブエノスアイレス)、 ②③セイボ(ウルグアイ・コロニア:撮影・筆者、 ④カントゥータ:ウエッブサイト「プロフィール胡蝶」より、 ⑤カントゥータ(チリ・プエルトバラス、⑥⑦パシオナリア(旧自宅庭):撮影:筆者、⑧⑨コピウエ:ウエッブサイト「プロフィール胡蝶」より。+++
               

 

 

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四 季 雑 感(20)-1

樫村 慶一

マチュピチュが大好きな日本人のために
日本とペルーの過去のできごと

<その1>


  今年はペルーの世界遺産マチュピチュ遺跡が発見されてから101年目になる。米人考古学者ハイラム・ビンガムが、インカ文明の遺跡を求めてアンデスの奥地に入り、 400米上の稜線に石積みを発見し、地元の子供にお金を渡して現場を見に行かせて発見した、その日が1911年7月24日である。発見100年祭なんていうのをやったかどうか知らない。昨年は、ペルーは大統領選挙が6月にあり、フジモリさんの娘が後一歩で当選というきわどい選挙だったので、国民の関心はもっぱらそっちに向かい、マチュピチュのことなど話題に登らなかったこととと思う。
 その反動ではないだろうが、日本人の、”世界遺産の中で行きたい所”のNo.1 ということもあり、今年はテレビ番組もマチュピチュに関する番組が多く放送されている。しかし、ペルーという国と日本とを結びつける事柄でよく知られていることと言うと、移民が多いこと、天野博物館があること、最近ではフジモリさんが大統領だったことくらいだと思う。動物好きな人だったら、らくだに似た顔のリャーマの故郷だということは知っているだろう。(私が勝手にその位だと思っているだけかもしれないが)。
 リャーマで思い出したので、ちょっとだけ話を横道に入らせてもらう。リャーマと言う名前は ”llama”と書くのだが、この”LL”はLを重ねて1字であって、リャとジャと二つの発音を持っている。 従って、”雨が降る”と言う言葉は”llover”と書くのだが、リョベールとジョベールと人によって、地域によって違う(一つの国の中でも違う)。どちらも正しい。私はジョベール派でジョという人をジョイズム   という。だからllamaもリャーマでもジャーマでもよさそうなものだが、どうゆうわけか、リャーマだけはジャーマでは正しい発音ではないとペルー人に教えられた。リャーマはアンデス高地に住むインカの子孫 にとっては、高地における移動には絶対に欠かせぬ道具?であり、大事な動性物蛋白質の元であり、アルパカと共に防寒衣料の原料になる神様のような神聖な存在なので、呼称もただひとつだけなのだろう。日本人のテレビのレポーターがヤマとかラマとか言うときがあるが、これなどは論外で通じないだろうと思う。話を戻そう。
 日本人は、”何々の何周年”と言う年紀を祝うのが好きな国民であるが、100年目ということでは、国内では今年一番大きなイベントに明治天皇崩御(1912年7月30日)、の100周年記念祭があり (別の言い方では大正100年という人もいる)、明治神宮の参道には明治時代の出来事を描いた大きなパネルが沢山立てられている。また、白瀬中尉を隊長とした日本初の南極大陸探検隊が1912年1月16日に初めて南極大陸に上陸したのもちょうど100年前である。国外ではタイタニック号の沈没事故(1912年 4月 14日)があり、清朝の滅亡(1912年2月)も100年前である。

 万年雪を頂くアンデスの山々、日本人好みのフォルクローレ、カラフルな民族衣装、数々の著名な遺跡、現代人に不可欠な多くの食材(じゃが芋、玉葱、トマト、玉蜀黍、にんにく、唐辛子などなど)の原産地であること、アマゾン源流のジャングル地帯などなど、南米のイメージの全てを持つのがペルーである。観光で行くには魅力たっぷりの国だ。1年中ほとんど雨が降らないからリマには傘屋がない。日本に始めてきたペルー電気通信公社(Entel)の研修生に最初に傘を買う事を勧め、折り畳み傘の使い方を教えたことを思い出す。春先(10~11月頃)にはガルーア(霧雨、海霧)が立ち込め、灰色の空気に覆われる。訪れる時期によって印象が全く変わるのがペルーである。初めてリマに着いた時の印象を、かっての著名日本人ジャーナリスト、大宅壮一は "骸骨のすすり泣きが聞こえそうな国だ" と言った(注)。雨が降らないので、ペルーの北部からチリ北部までは砂漠だらけである。この砂漠が昔、日本人移民に苦い記憶を作らせたのだが・・・・・
 前置きが長くなってしまった。では、改めて日本と関わりがあった事柄を2回に分けて紹介しようと思う。
 (注) 灰色の雲が低く垂れ込めた暗い雰囲気に囲まれ、スペイン人侵略者へのインカ族の恨みが聞こえるようだと言う意味を込めたもの。(1957~8年頃に産経新聞に連載されたレポート「世界の裏街道を行く」より)。
 
≪マリア・ルス号事件の話≫
 この事件も年紀で言うと丁度140年前に起きた事件で、日本とペルーが国交を始めるきっかけとなった出来事である。1872年(明治5年)7月14日深夜、横浜港に停泊していた英国軍艦"アイアン・デューク"が一人の清国人を海中から救助した。その清国人はすっかり憔悴していて、自分が乗ってきたペルー船"マリア・ルス号(Maria Luz)"船内の惨状を訴えた。船の中の待遇は家畜同然で、出発前に聞いた待遇とは全く違っていたのである。この頃の清国は、太平天国の乱と呼ばれる進歩政策をとった"洪秀全"の政権が崩壊し、農民は疲弊しきっていた。
 一方、当時のペルーは太平洋側を除く3方を5つの国(チリ、ボリビア、ブラジル、コロンビア、エクアドル)に囲まれて、しばしば国境紛争を繰り返していた。このため国力の充実を図るべくラモン・カスティージャ大統領は、金銀の採掘や特産品のグアノ(鳥の糞から作る燐酸肥料)、ペルー綿と称する良質な原綿の増産に力を入れていた。しかし、ペルーは奴隷を解放した後だったため、これらに従事する労働者が不足しており、特に砂糖きび農場では極度の労働力不足に悩んでいた。そこで、国外移住を希望しマカオに来ていた清国人に目をつけ、旨い話や脅迫まがいの手段で勧誘した。 ペルー政府は、労働者を斡旋するブローカに、一人集める毎に50ドルを支払ったと言われる。こうして集まった人達は凡そ3500人にも上った。このうちの235人がマリア・ルス号に乗っていた。マリア・ルス号船内の待遇は奴隷の如くで、海に飛び込んでは脱走を図る者が続出した。マカオを出向した船は、太平洋をペルーに向けて航行中、小笠原諸島付近で台風に会い、前マストを折り航行不能になり、緊急措置としてまだ国交の無い日本に避難してきたのだ。明治5年6月4日のことである。こうして横浜港に入港している間に脱走した者が、英国軍艦に救助されることになった。清国人の名前は「木慶(もくひん)」と言った。
 英国軍艦は、当時すでに国際的に禁止されていた奴隷貿易の疑いがあるとして、日本政府に通告、これを受けた政府は、軍艦"東"を横浜港に派遣して、マリア・ルス号の出港を停止させ、船長のリカルド・ヘレイロを裁判にかけた。まだ裁判制度も確立されていなかった日本は、神奈川県令(知事にあたる)大江卓が、国交もなんらの条約も無いペルー人を裁くことになったのである。裁判は、当時として驚きの目で見られ、大江卓の人権擁護思想の下に進められた。大江は船内の虐待を裁こうとしたが、横浜に駐在していた外国領事達から、横浜入港までの公海上で起きた出来事には日本の主権が及ばず裁判権はないことを指摘され苦悩する。結局横浜入港後に、虐待に反発した首謀者の頭を剃ったり監禁したりしたことを日本領内における犯罪行為として有罪の判決をだした。しかし、当時続々と横浜に開設された欧米先進国の領事館は、なんだかんだと言って日本の裁判指揮を批判した。しかしこの時代では珍しい人権擁護思想を持った大江卓の裁断と、これを支持した時の外務大臣副島種臣の毅然たる対応によって清国人は全て開放されて本国へ送還された。清国人たちの喜びはいかばかりであったろうか。
 この事件が契機となって、日本とペルー両国は国交樹立の必要性を認め、翌1873年(明治6年)3月に修好条約締結のため、特使オレリオ・ガルシアが来日、同年6月19日、日秘修好条約が締結され国交が樹立された。これが後の日本人移民が実現する伏線になっている。
 (注)資料の中で、このときの清国人の喜びの様子を次の文章が表している。中国人は日本に対してもっともっと礼をつくしてもおかしくないのである。 『貴政府の御仁恩広く、草木昆虫の微にいたるまでも、みなそのところを得せしめ候様遊ばされ候儀と存知奉り候。若し、船長より是非とも私度もを差し押さえ、船中へ連行候儀にも候はば、私ども余儀なく貴国境内に一命を擲ち、決して身を斧砧(ふちん)の上に送り申さず所存に御座候。右事情何卒万国公法の権衡を以って私ども愚民の生命を御保護、郷里へお差返し下され候はば、再生のご恩有難く拝戴、来生は犬馬となり、あるいは異日亡魂草を結び環を含み、御恩に報い奉るべく存じ。哀願奉り候。』 (注:巻末の”異日”、以下の文は当時の中国の報恩のたとへ表現である。死んでも何らかの形で恩を忘れていないことを告げたい、という意味)。
 
≪高橋是清の話≫
 岩手県出身の大蔵大臣高橋是清は、1936年(昭和11年)2月26日に起きた、日本陸軍のクーデター (皇道派と統制派の対立、天皇の裁断により皇道派は反乱軍になった) いわゆる2.26事件によって、反乱軍に自宅で射殺された。この悲劇の蔵相高橋是清には、日本人には余り知られていないエピソードがある。
 1889年(明治22年)、当時、初代の特許局長だった高橋是清は、局長を辞めて、ペルーのジャウリ(Yauli)村にあるカラワクラ銀山の開発を目指して太平洋を渡った。是清一行は開発のパートナー、ホルヘ・ヘレンの歓迎を受けて、高地へ登る前のトレーニングをした後、海抜4500メートルの山中にある銀山に入った(注)。鉱山の入り口では日本式にお神酒を奉げて成功を祈った。しかしそこは、木も草も殆ど生えていない、鳥さえも住まない荒地であった。
 (注)ジャウリ村は地図では2箇所ある。いずれも首都リマから東へ約60kmと 130kmのアンデス山脈の高峰に近い場所で、どちらかは分からないが、60kmの場所には鉱山のマークがあるのでここの可能性が高い。
 昼は猛暑が襲い、夜は極端に気温が下がる過酷な気候に慣れていない日本人一行は散々な苦労をした。一行の中には馬もろとも雪深いアンデスの谷底へ転落する者が出るなどのアクシデントにも見舞われた。しかし、武士道を誇る是清は、悠揚せまらず、"アンデスも転びてみれば低きもの" と人ごとのように一句を吟じたと言われる。しかし、肝心の鉱山は、すでに百数十年もの間掘り尽くされた廃坑であった。
 特許局長の地位を捨て、政財界から12万5000円(現在に換算すると数十億円)もの借金をして、勇躍乗り込んだ是清の計画は惨憺たる失敗であった。日本の政治史に残るような大人物さえも、まんまとペテンに引っかかったのである。 是清は家屋敷を売り払って借金を返したと言う話である。ときの人達は、このことを、”カラワクラ はるばる来たら クラワカラ(蔵は空)”と揶揄した。陽気で人が良いなどと言われるラテンアメリカ人が、狡猾で恐ろしい一面を現した事件の一つである。

≪リマの天野博物館の話≫
 1532年にピサロがやってきて、インカ帝国を滅ぼし、リマに首都を定めてから五百年以上の歴史を持つこの街には、多くの教会がある他、博物館もたくさんある。日本人観光客がよく行く博物館は、①アンデスへの夢とロマンに生きた天野芳太郎氏が、チャンカイ渓谷で発掘収集した土器、織物を収蔵・展示した「天野博物館」、 ②インカおよびプレインカ時代に栄えたアンデス文明の黄金製品を集めた 「国立黄金博物館」、③インカ族の性行為を通して、おおらかな人間性を率直に現した陶器の人形を多数集めた「ラファエル・ラルコ・エレーラ博物館」などである。本編では、これらの博物館のうち、日本人の天野芳太郎さんが開いた「天野博物館」を紹介する。 (右の写真は、ラファエル・ラルコ博物館収蔵品の複製、筆者所蔵品)

 天野芳太郎氏は1898年(明治31年)7月2日、秋田県の男鹿半島で生まれた(1982年:昭和57年10月14日逝去)。父は地元で土建業「天野組」を営んでいた。少年時代に押川春浪の冒険小説を愛読していて、海外への雄飛に憧れていた。狭い日本から飛び出したかったのである。1万円の貯金が出来た1928年(昭和3年)8月、遂に日本を離れウルグアイに着いた。ここでスペイン語を学び、後パナマで「天野商会」を設立してデパートを始め、チリのコンセプシオンでは1千町歩の農地を取得し農場経営を営み、コスタ・リカでは、「東太平洋漁業会社」を設立して漁業に乗り出した。さらに、 エクアドルではキニーネ精製事業を、ボリビアでは森林事業を始め、ペルーでは貿易事業に商才を発揮していたが、第二次世界大戦でペルーが日本と国交を断絶したため全てを放棄させられ強制送還された。
  しかし、ラテン・アメリカへの夢と情熱は絶ちがたく、持ち前の執念で、戦後の1951年(昭和26年)、密出国のような形で日本を離れた。ところが、乗船したスエーデンの貨物船クリスターサーレン号(4900トン)が太平洋上で暴風雨に遭遇し、船体は真っ二つに割れて沈没、13時間の漂流の末救助され、日本へ送還された。その後1か月足らずの後に再び日本脱出を果たし、米国、パナマを経て、運良くペルーに着いた。勝手知ったペルーに渡ってからは、魚粉、魚網などの製造事業を行いながら、青春時代からの夢であった、古代アンデス考古学研究への挑戦が始まった。
 戦前からのアンデス遍歴で、知識は十分に持っていた。未発掘の遺跡を求めて、リマ北方200キロのチャンカイ渓谷に入り、いつ果てるともなき発掘作業が続けられた。それから20数年間の地道な遺跡発掘の労苦が実り、2300余点の貴重な宝物を収集し、その成果は世界に知れ渡った。
 天野氏自身はその過去について多くを語らないが、戦前戦後を通して、人には言えない労苦を重ねてきた財産を、1963年に念願の天野博物館を建設する際、殆ど使い果たしてしまった。各国からペルーに来る皇族、政府要人等のVIPの多くがこの博物館を見学に訪れる。日本で開かれたいくつかのインカ展にも出品した。米国や欧州、中南米諸国などの展覧会にも毎回のように出品を求められている。 ペルーの古代文明研究者には全ての収蔵品が開放され、写真撮影や、出版にも無料で便宜が供与されている。チャンカイ文化の"つづれ織り"など7点が、ペルーの切手図案に採用されている。日本人を始め世界の50余か国から同館を訪れる観光客は、年間約6000人に上る。見学は無料であるが事前予約の申し込み制になっている。
 天野氏は、 「ペルーの宝である民族的遺産を、外国人の私が有料で公開することには抵抗を感じるので無料に徹したい。研究者が誰でも展示品を手にとって見られるように、展示品は私の独創的な配列をしている。予約制ではなく一般公開にすると、見学者が増えて館員や警備員の増員などの問題が出てくる」と語っていた。しかし日本の文化交流調査団から、”博物館の維持のために募金箱を設置したらどうか”との提言を受け、入館者から募金の形で寄付を受けている。人件費を含む運営費は年間凡そ1600万円かかると言われているが、2000年以降は入館者数も増え、ようやく運営のめどがついてきたと伝えられている。

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参考文献: Luis Diez Canseco Nunez著 Migracio'n japonesa al Peru'(1979.6), 武田八州満著マリア・ルス号事件(1956.1:有隣堂発行)、天野博物館発行資料。

参考文献の本文内容への転載転用引用をお断りいたします。

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四 季 雑 感(20)-2

樫村 慶一

マチュピチュが大好きな日本人のために
日本とペルーの過去のできごと

<その2>
 
≪日本人移民の入植と、悲惨なペルー下りの話≫
 1800年代後半の日本は、首都が東京に移って政治構造が激変し、工業の発展や教育改革が急速に進み、外国との通商関係が緊密になってきた。また一方では、軍国主義政策が推し進められ軍隊が増強された。工業の発展と軍隊の増強は、必然的に人口の増加をもたらす結果になった。
 1872年(明治5年)の人口3450万人が50年後の1920年には、約2倍近い5460万人に達した。しかし農地面積は殆ど増加しなかったため、農村から溢れ出した余剰人口は、新しい労働の場を求めて都会に集まってきた。一方、これらの労働者を救済するための対策は十分ではなく、日清戦争により一時的に吸収した軍隊も、戦争が終わると、ただ失業者を増やすだけであった。行き場の無い人々は食うための手段を自分達で解決するしか方法がなかった。特に農村の二、三男達は相続できる土地がないため悲惨であった。これらの解決方法として考え出されたのが外国への移住である。

 一方、19世紀末のペルー海岸地方の砂糖きび農場は、チリとの太平洋戦争(1879~1884)の荒廃から徐々に立ち直り、工場設備は近代化され生産量も増加してきた。さらに国際市場での砂糖価格の上昇により、砂糖業界は活気を帯びてきた。当時の海岸地方の砂糖きび畑の面積は75000ヘクタールで、労働者は約2万人であった。しかし、栽培面積の拡大に伴い労働力不足が決定的になってきた。それまでの労働者の大半は黒人奴隷であったが、19世紀半ばに奴隷制度が廃止され、これに変わる労働力として、マカオや広東周辺からの中国人苦力が導入されていた。これら中国人労働者の労働環境は、前述のマリア・ルス号事件を契機として中国政府の知るところとなり、中国政府は1887年にペルーへ調査団を送った。その結果、中国人移民を取り決めた「サウリ協定」を破棄し、ペルーへの労働力提供を止めた。
 この代替策としてペルー政府は、アンデス地方の原住民を徴集したが、それでも不足を解消できず、日本の余剰人口を利用する事を思いつき、募集手数料として1人あたり英貨10ポンドで、森岡移民会社などに募集を委託した。記録によると、森岡移民会社の移民勧誘員は、3年で300ドル稼げるなどの、かなり旨い話で釣ったようにも言われている。 こうして集められた第一回目の移民790名が佐倉丸に乗り、1899年2月28日に横浜を出航した。内訳は、新潟県から372名、山口県187名、広島県176名、岡山県50名、東京府4名、茨城県1名となっている。
 移民が開始されるに当たり日本政府は、中国移民の実情を知っていたので、最初から移民の待遇に関心を持っていた。日本人移民自身もある程度の環境の変化や、労働の厳しさは覚悟していたようであるが、行く前の話とは大違いで、食事はパンと水だけだとか、寝る所は(雨が降らないので)屋根がない莚の上であるとか、半分奴隷のような待遇の他、風土病やチブス、赤痢等が発生し、多くの仲間達が死んでいくのを見て次第に不安感が増し、監督者に反抗するようになった。これに対し農場主達は、武装ガードマンを派遣するなどで対抗した。中にはピストルで殺された移民もいた。しかし、農場主達は中国人との問題を経験していたので、何とか解決しようとしたが、移民たちの不満は収まらず、家族達からも日本政府に陳情が寄せられたので、1900年、日本政府の調査団がペルーを訪れ全員を送還しようとした。しかし、農場主達が生活条件等の改善を約束したため、送還は実現しなかった。
 それでも、こうした環境に耐えられなくなった移民の中には、アンデス山脈を越えたアマゾンのゴム園で働けば高い賃金がもらえると言う噂を信じて農場から脱走し、着の身着のまま、裸足で雪のアンデスの峻険を越え、ボリビアやパラグアイ、さらにはアルゼンチンへまで逃げた人達がいる。しかし、厳しい山脈を越えることができず途中で倒れ、未だにアンデスの山中に亡骸を埋もれさせたままになっている人もいると言う。これが移民の歴史で言われる「ペルー下り」、或いは「ペルー流れ」という移民哀史である。
  しかしながら、日本へ帰っても農地を得られる保証もない人達は必死で耐えた。移民達の一般的な目標は、ある程度の資本を蓄え日本に帰ることであったが、様々な障害に会って希望を果たせぬまま、大勢の移民が遥かな異国の地で一生を終えた。森岡移民会社が行った渡航は、1899年から1923年まで前後80回にも及び、運んだ移民は合計16000人余りである。この他にも、明治移民公社が3航海997名、東洋殖民会社が19航海882名を送っている。3社による移民数は合計102航海、男子15655名、女子2302名、子供207名となっている。このような苦難に耐えて住み着いた意志強固な人達は、次第に現地社会に同化していき、その子孫は今では5万人を超えている。そして遂には日系人大統領まで誕生させた。1999年には最初に佐倉丸がペルーに入港してから100年目を迎え、ペルーと日本で盛大に式典が行われた。
 写真説明:(上)日本人移民が上陸したカニェテの海岸。下の方、水際に点々と黒く残るものは当時の桟橋の杭跡と言われるが真偽のほどは不明。(下)パンアメリカンハイウエーから眺めた内陸の砂漠と荒涼とした山々。この山地を日本人移民達は裸足で逃げた(撮影・樫村慶一)。

≪日系人排斥運動と国交断絶の話≫
 フジモリ大統領の誕生を頂点に、ラテン・アメリカで最も親日国になったペルーと日本との歴史の中でも、1940年(昭和15年)5月13日に起きた排日暴動は、ペルーと日本との関係の中で、最も忌わしい出来事の一つである。1930年代のペルーは、米国資本と結びついた「40家族」と呼ばれたヨーロッパ移民の白人達が支配していた。彼らは日本人の経済的進出を嫌い、例えば、日本人がスパイを組織したとか、秘密軍事基地を作ったとか、武器弾薬を陸揚げしたとか、まことしやかなデマを流して、日系人に嫌がらせをした。
 ペルーには他にも外国の移民がいたのに、特に日系人が狙われたのは、日米関係の悪化に伴う米国の反日ムード作りが背景にあったのである。また、ペルー社会には、日系人がペルーに移住してから、まだ40年足らずの新参者にもかかわらず、急速に成長した妬みもあった。その上、日系人の商売が既存のペルー人の小規模な店との摩擦を生み、ペルー人側が面白く思っていないと言う情勢に、米国が目をつけたとも言われている。このように1930年代の末期には、国内に多くの不安定要素があり、いつそれが爆発してもおかしくない状況だったのである。 1940年(昭和15年)5月13日に起こったリマの排日暴動は、このような社会的背景の下に起きた事件である。しかし、そのきっかけは、日本人理髪業組合内部の、同胞相食む醜い抗争が原因であった。
 当時リマでは理髪店の数が飽和状況に達し、このままでは共倒れになることを恐れたH組合長が、市役所の役人を抱きこみ、傲慢にも独断で自分の商売敵22軒に閉店命令を出させた。ところが、閉店を強制された側は、官憲にコネのあるF氏を立てて、市当局にこの命令を撤回させ、争いは法廷に持ち込まれた。H組合長は領事館を抱きこみ、日系新聞もH組合長側につき、F氏を攻撃した。
 事件が大きくなったのに驚いた領事館は、F氏に日本への帰国を命じた。ペルー国籍をもっているF氏を強制的に送還することは違法であったが、中央日本人会も領事館の決定を支持した。領事館はF氏を強制送還するため逮捕しようとF氏の家に侵入した。この時たまたま同家にいたペルー人のマルタ・アコスタと言う女性が巻き込まれ、死亡してしまった。悪い事に、この女性の親戚に地元新聞の社長がいたため、新聞は連日、日本人ボイコットを煽動する悪質な排日記事を書きたてた。険悪なムードが市中に流れ、ついに破局がやってきた。
 市内のガダルーペ中学の学生が、排日スローガンを書いたプラカードを手にして市中を行進し、これに野次馬が加わり、日本人商店に投石を始めた。暴動はやがてリマ市内から隣接の港町カジャオに飛び火し、さらに地方の都市へも波及した。しかし、不可解にも警察は介入せず、制止さえもしなかった。暴動は5月13日から翌14日の夜まで続いた。この結果、日系人620家族が被害を受け、被害総額は当時の金で600万ドルに達した。このうちの54家族316人が再起不能の被害を受け、1940年7月16日、日本郵船の太平洋丸で帰国を余儀なくされたのである。
 悪夢のような暴動は2日間で終わったが、日本人達は暫くは、このショックから立ち直る事が出来なかった。ここで不思議なのが中国人の動きであった。今までは暴動が起きれば中国人の店も被害を受けていたのに、今回は店先に青天白日旗(今の台湾の国旗)を掲げ、高見の見物をしていたのである。このようなことから、当時、日本軍が中国大陸への侵略を続けていたために、中国人が煽動に1枚噛んでいたのではないかとの憶測も流れた。
 ところが、事件から11日目の5月24日、リマ市一帯は大地震に襲われた。アドベ(日干し煉瓦)造りの家は大被害を受け大勢の死傷者がでた。誰言うともなく、「罪の無い日系人をいじめた天罰だ」との噂が流れ、科学的知識に乏しい妄信的カトリック教徒だった一般大衆は、改悛の情を顕わにした。地面が揺れ戸外に飛び出した人々の中には、「私は日本人に何にも悪いことはしませんでした」と、手を合わせ、膝まづいて天に絶叫する女達が沢山いたと言うことである。地震が収まってから略奪した品物を日本人の家に返しに行ったペルー人もいたと言われている。この地震は全くの偶然とは言え、高ぶっていたペルー人の反日感情を抑える上で何よりの役割を果たした。まさしく神風だったのである。暴動は一応収まりはしたが、日米関係の悪化と共に、時代は確実に破局に向かって進んで行った。
 ペルーとの国交は、第二次世界大戦でペルーが連合軍に組し、日本との国交断絶を声明した1942年(昭和17年)1月24日に途絶えた。日系人は財産を没収され、米国に強制的に追放されたり、日本に強制送還されたりした。戦争終結後も再移住を認められない人達も大勢いた。このように一時期、ペルーは反日国であり、”日本人移住者の受難の時代”があったのである。それから10年後の1952年(昭和27年)6月17日、日本とペルーとの国交は再開された。

≪鈴木善幸元首相のペルー訪問時の裏話≫
 今から丁度30年前、1982年6月、時の首相鈴木善幸自民党総裁がペルーへやってきた。途中他の国を回ってきたのだが、何しにペルーくんだりまできたのか理由・目的は今では思い出せない。当時ペルーとは外交上にも特別な懸案もなかったと思うし、結局何もなかったので、結果的には総理の引退慰安旅行だったようだ。それでも、KDDは首相官邸と外務省を直接繋ぐホットラインを引かなくてはならなかった。
 旧KDDには特別通信対策担当という正規の会社機構からちょっとはみ出した担当部署が運用部にあった。この担当は、名前の通り皇室や政府のVIPなどが外国に出張するときや、外国や国内で国際的な大きなイベントが行われるときなどに、テレビ・ラジオ伝送やホットラインなどのために臨時に特別な回線を開く作業を行う部門である。私は前記の首相ペルー訪問の特別対策を援助するため、赴任して2ヶ月しかたっていないブエノスアイレスからリマへやてきた。
 4月に赴任するとき当時の日高会長から「戦地へ行くんだな、十分気つけるように」と励まされた。着任と同時にマルビーナス(フォークランド)戦争が始まり、日本から大勢のマスコミがやってきた。当時アルゼンチンは超々インフレの時代で、日本の通信社、新聞社は全社が支局を閉鎖してブラジルなどへ引き上げてしまっていたため、日本の通信関係事業者はKDDだけであった。このため来アした記者達がKDDの事務所へ殺到した。どこかに仲間意識があるのか気安く、なれなれしく出入りしてきた。目的は、テレックスを借りるのと、事務所にはOCSで日本の新聞が2日遅れくらいで送られてくるので、それを見て自分が送った記事が本社でどの程度に扱われているかを確認したり、同時期にロンドンから日本へ送られた記事と比較したり、さらには日本国内の様子を知るためであった。6月になり、実質的にアルゼンチンの敗戦が決まると、潮が引くよううにいなくなってしまった。テレックス使用料は後で払うと言っていたが遂に1社も払いに来なかった。これもKDDの存在理由の一つと思い請求はしなかった。
 ペルーでの特別対策の作業は、リマの五つ星ホテル、クリジョン・ホテルの最上階の首相用スイートルームと手前の秘書官用部屋に首相官邸と外務省を結ぶホットラインを設定することである。本社から来た特別対策班とペルー電電公社の技術者と数回にわたり打ち合わせをした。最初に顔を会わせたときはびっくりであった。なんと、先方の5,6人の技術者全員が全部KDDに研修に来た人間で、皆私が千葉の家へ招待した人達だったことである。打ち合わせの途中で、重要な設備部品 (首相と秘書官の受話器を切り替えるスイッチだったように思う)がないことが判明した。この件は事前に分っていたことで、ペルー側には品物がないのでKDDが持参してくることになっていたのを忘れてきてしまったのだ。KDD本社から来た者は真っ青になった。そこで、私がこれも知己であった電電公社のP副総裁に助けを求め、結局ペルー側で急遽作ることになり、急場を凌いだ。しかし一難去ってまた一難である。時あたかもフットボール・ワールドカップ・スペイン大会の真っ最中であった。(南米ではサッカーとは余り言わない)。
 今度は首相が泊まる肝心のスイートルームが空かないのである。首相は午後2時頃着く予定である。リマでは前日まで、ミスユニバースの南米大陸予選が行われており、首相が泊まる予定の部屋はベネスエラ代表が泊まっていたのだ。大会は昨日で終わり、今日の午前中にチェックアウトすることになっていたので首相用に予約してあったのに、午前11時になっても美女が帰ってこない。我々は大いに慌てた。電話局から直接引き込んだケーブルは、保安上の理由からホテル内を通さずに外壁を這わせて直接最上階の首相の部屋へ引き込む予定なのだが、部屋が空かないのではどうしようもない。やむなくホテルマネージャー立会いで部屋に入り、外のケーブルを隙間から引きこみ、ベネスエラの美女にはケーブルが見えないように先端を隠して出てきた。私はこの間の工事と例のスイッチを何処に設置したのかは知らない。どうやら部屋が空き、電話器を繋いだのは首相到着の1時間ほど前であった。鈴木総裁は次期総裁選挙は無競争で当選が確実視されていた。それなのに、どうした心境か次期総裁選挙には全く関心を見せず、日本のことなどさっぱり忘れたかのようにリマの休日を楽しみ、夜はぐっすりお休みなったらしく、ついに1度も電話器を手にすることはなかった。もちろん我々の苦労など知る由もない。日本とペルーの話のついでとはいえ手前味噌の話を持ち出して大変恐縮である。  おわり  (2012. 8月 記)

 参考文献: Luis diez canseco nunez著 Migracio'n japonesa al Peru'(1979.6), 武田八州満著マリア・ルス号事件(1956.1有隣堂発行)。参考文献の本文内容への転載転用引用をお断りいたします。

 


四 季 雑 感(番外)

樫村 慶一

久家さんが逝った

 東報出身で、重役にまで登った久家勝美さんが亡くなった。我々電報局出身者の希望の星だった(私だけがそう思ったのかもしれないが)。旧KDDの重役は大抵全国紙に訃報が載るし、会社の広報からも何かしら発表があるだろうと思っていたけど、なんにもない。定年になってしまえば、平も重役もないし、ましてや死んじゃったらただの元KDD社員だった、でも構わないけど、久家さんは昔流行った源氏鶏太の「三等重役」を地に行ったような重役だった。ざっくばらんで、史跡探勝会の昼食の席でも一杯ビールが入れば、「おい、久家」で通っていた。どうゆうわけか、いつも集合場所の駅などで会うと「昔の社会党がどうの、誰々がどうだったの(旧組合委員長や役員の名前など)」と、いきなり喋りだす。三鷹の白木屋の昭和会でも同様だった。いい加減に返事していても別に怒ることもない。まことに穏やかな、そして昔話の好きな懐かしがりやの紳士だった。
 個人的な思い出を一つ。「30年前、福地東京支社長から海外事務所長の内示を受けるとき、久家さんは運用部長で同席していた。私が内示を受けると、私以上に久家さんがびっくりした。私などとなんで同席するのか支社長から事前に知らされていなかったのだ。支社長室をでて、「お前も人が悪い、何故一言言わなかったのだ」と言われた、私だって知りませんでした、というと、頭をふりふりのっしのっしと行ってしまったのが今でも脳裏に残っている。
 はっきり覚えていないが、旧KDDの年金制度を作ったという人は自薦他薦で10指にあまるが、久家さんもその一人だったような気がする。また良き時代を知る大物が消えた。時の移ろいは知らぬ間に周りの環境を変え、御恩になった方々を消し、いつかは自分も。永遠の冥福を祈ります。 Q. E. P. D.!

 

《写真は、2010年 5月 9日の史跡探勝会で両国界隈からスカイツリー建設現場を歩いた時、東関部屋(元大関高見山)の前にて》

 

 四 季 雑 感(19)

樫村 慶一

- とんでもない仮説 -

 最近の、特にここ1年以内くらいの間における社会不安の増大、つまり、事件、事故、異常事象などの多さは目を覆いたくなるほどだ。新聞やテレビだけしか知る手段がないが、それでも死者が大勢でる交通事故、殺人事件、船舶事故、鉄道事故、自殺、さらには地震、水害、竜巻、雹、雷などの異状気象、動物の異常生態、外国での飛行機事故、幸い日本では起きていないが爆弾テロなどなどの発生件数は、過去の同じ期間の記録と比較しても多過ぎるのではないだろうか。特に人間の意識が正常ではないために起きた人為的原因の事件、事故、そして異常気象が原因の天災、いずれにしても昨年あたりから随分増えたと感じるのは私だけではないと思うが、これも悪いときには悪いことが重なるもんだ、と言う諺に照らして割り切ることができないでもない。しかし私は、人間の視覚や感覚では図りきれない何か大きな力が働いて、人類の運命を悪い方へ悪い方へと押しやっているのじゃないかと神経質な推測をしていた。

 そこで私は一つの仮説を考えた。笑われるのを承知でk-unetのページを汚して見ようと思う。

 つい先日、オーロラに関するNHKのテレビ番組を見た。(5月半ばころ、番組名は控えなかった)。オーロラ研究に関する異常気象の話が主であった。覚えていることを並べて見ると以下のようなことである。
 『今年に入り宇宙には特別な現象がいろいろと起きている。すなはち、部分日食が各地で起きる、太陽表面を金星が横断する(2004年以来、次回は105年後)、日本に続きオーストラリアで金冠日食が起きる、そして昨年辺りからは太陽の表面のフレアーが減り、黒点が減るなど太陽活動が鈍くなってきた。太陽活動が極小期と呼ばれる時期に入ったためではないかと言われる。太陽活動の鈍化と共に地球の極地の地磁気も弱まり、地球を宇宙線から守る役目のオーロラが低くなり減ってきた。このため銀河系から地球に降り注ぐ宇宙線が増えてきので上空の雲が増え、地表の温度が下がってきて異常気象が起きるようになる。前回の極少期はマウンダー極小期と言って1645年から1715年まで70年間続き、ロンドンのテームス川が凍りついた・・・・・』 と言うことである。

 (注) マウンダー極小期:英国人エドワード・マウンダーが発見した現象で、太陽活動が極少になり黒点が大幅に減少する時期のこと。1970年に認められた現象。寒冷期の遠因になるとされヨーロッパや米国では夏至になっても夏らしくならなかった。

 私はマウンダー極小期という言葉に興味を引かれインターネットで探して見た。そして一つのブログに出合った。「スピリチュアル大学」というタイトルのブログには、『マウンダー極小期は実際には1630年頃から始まった。この頃から太陽の黒点が減り始めた。日本では通常の時代ではありえないようなことが起きた。それは、徳川綱吉の時代で、鎖国令、生類哀れみの令、富士山の噴火、何回もの飢饉などである。・・・・』 と書いてある。また、さらに次のようにも言っている 『地球と人間が平常より多くの宇宙線を浴びることになる。宇宙線はどこでも通過するので人間のあらゆる細胞やDNAにも入り込み、人間の心にも影響を与えるようになる。』
 ここで私の仮説である。『前述のような太陽活動の衰退が地球上に大量の宇宙線を降らせ、その影響で動物の肉体的活動を鈍くし、思考力を減退させ、平常心を失わせ、その結果として事件、事故の増大に間接的に影響しているのではないか。』 というものである。気象の異常も同じようなことが遠因ではないかとも思う。

 例えば、車を運転していた者がなぜこの時期にあちこちで事故を起こしたのか。偶然が重なったと言ってしまえばそれも納得できることではあるが、やっぱり多すぎると思う。其の上、人為的原因ではない地震、豪雨、雷、竜巻などの異常気象が今の時期になぜ多いのか、これも、宇宙の異状がもたらす不可抗力な原因が、地表のみならず海底深い地殻にまで影響を及ぼしているのではないかと。話を少し飛ばせば、北アフリカの政変やシリヤやイスラエルの狂気もこんなことが遠因なのかもしれないと、すでに残り少ない寿命を支えるだけのやせ細った脳細胞で考えた結果である。

 そしてさらに別のブログでは新しい宇宙の脅威を報じている。 『べテルギウス超新星の爆発予測、と題したこの文章では、2012年にべテルギウス超新星が爆発するかもしれない、そうなると、地球からはまさに太陽が二つ存在するような現象が見られる。べテルギウス超新星は地球から見える全天空の星の中で9番目に大きい星で地球から640光年離れているが、大きさは太陽より物凄く大きいので同じような大きさに見える。超新星が爆発すると周囲数百光年の範囲の惑星に生物がいれば強烈なX線やガンマー線で絶滅する。640年光年離れた地球は地磁気で守られるだろうが、地磁気が弱まっている時期では危ない。』 と書いてある。
≪写真:ベテルギウスが爆発した後で地球から見える二つの太陽の光景≫
 (注)ベテルギウスは地球から640光年離れているので、もし今日見えるとすると、それは640年前の出来事の光であり、今日爆発したならば640年後でなければ見えないはずである。なぜ2012年に爆発すると予測できるのだろうか、その辺ことは、このブログには何も書いてない。

 太陽活動の極小現象もべテルギウス爆発も、もし本当なら、小さな小さな日本の国内で起きている政局や、世界各地の紛争などは宇宙、地球規模の危機の中のゴマ粒にもならない。こんな突拍子もない仮説がもし立証されたら、今生きている人類は、今後70年間は快適な生活を送ることはできない、明日への希望はないということである。もっともっと自殺者が増えるだろうし、世の中に絶望した暴走人間がもっともっと増えるだろう。残り少ない人生が明るい希望、楽しみの持てない時代に入ってしまうのが本当に悲しい。太陽活動極小期に遭遇した今の人間は運が悪いと、地球全体が甘受しなければならない運命と諦めるしかないのだろう。そういえば、今年の12月には地球が滅亡するなんてマヤの暦に書いてあると言う話が世界的に流布しているが、こっちはただの神話だと思っている。 どなたか明るい気分にさせてくれる話題を提供してくれる会員の方はいないだろうか。  おわり  (2012.6 記)

 

 

 

四 季 雑 感(18)

樫村 慶一 

-- 嫌な予感がする年 --

  私達は、「小」は自分自身の周りから、「中」は定年後の生活を保障してくれる有難い会社の周り、さらには「大」は国を取り巻く地勢的環境と、色々は環境のなかで生活している。それらの環境が大は何千年周期かで、小は10年くらいの周期で一定の波が巡ってくるように思える。今年は私個人にとっても、KDDIにとっても、さらには日本自身にとっても重大な年になりそうである。
 私が今の豊島区のマンション生活を始めたのは丁度10年前(2002年)である。従って今年は生活を取り巻くあらゆるものが10年目になる。これが問題なのであって、特に家の中の諸々の生活道具の最初の寿命更新の時期がやってきた。電気、ガス、水周り、といってみれば一般家庭の中にあるいわゆる”なになに設備”という類に、がたが来はじめたのである。其の一つ、寝室の天井の蛍光灯がつかなくなった。てっきり切れたと思い新品を買ってきて取り替えた。今の蛍光灯には、従来のものと今流行のLEDのものと2種ある。LEDの寿命は3倍以上で値段は50%高くらいなのでLEDを買った、しかし点かない、結局手に余って管理会社経由で電気設備会社に来てもらった。点検の結果蛍光灯を取り付ける器具が壊れたのだ。今は修理なんてことはやらない。新品と取り替えるだけである。。工事の人に聞いたら、確かにLEDは長持ちするが、今回のように取り付け金具が壊れたリ、スイッチが壊れたり、リモコンの音波発射部分が壊れたりで、周りが一部の長寿についていけないので、延びた寿命をすんなり享受するのは難しいという。それはそうだろう、全部が何十年も持つようになったら、それぞれの商売は上がったりになってしまう。先日は、これも10年になるアナログ時代のVHSデッキが壊れた、これは過去に撮りためたビデオの再生用にしかならないのであっさり廃棄できたけど、今後次々と起こるであろう設備類の障害を考えるとうんざりする。のんびり生きていくのにも結構な維持費がかかるるものだ。
 最近のテレビ番組には、次の地震の予測と津波の高さや被害の予測に関するものが多いが、この狭くて小さな国土や周辺の海にまたまた大きな地震が発生して、原子力発電所に事故が起きたら逃げる場所があるのだろうか。真面目に考えると恐ろしい。世界の国々に、何百万人とか何千万人とかまとめて難民として引き取ってもらわなくてはならないだろう。2000年前にローマに滅亡させられ、世界の流民となったユダヤ民族の悲劇の再来である。過去、日本は難民引き受けには余り積極的ではなかったので逆の立場になったときは心配だ。残り寿命が少ないことを忘れて、真剣になって国外脱出を家内と話合ったこともある。行き先はアルゼンチンである。30年間に、誕生日、友達の日(毎年7月)、クリスマスと年に3回もプレゼントを交換して家族ぐるみ付き合っている友人が、逃げてくるなら別荘を貸してくれるとまで言ってくれる。しかし、最近5年間で3回も心臓周辺や胸部の手術を受けた体は、気持ちだけではどうにもならない。今更実現できないもどかしさは切実である。
 アルゼンチンほど、良い国はないと思っている。2007年に「アルゼンチン・ばばあ」と言う映画があったが、自分では「アルゼンチン・じじい」と言いたい思いである。地震、台風、火山爆発、竜巻と言った大きな人的被害をもたらす天災はなく、水害は一部の川で数年に一度、旱魃は広い国なので地方単位で起きるが、どこの国でも起きるのと同じような規模であり、異常気象もしかりである。食料は牛が国民の2倍(6000頭)もいるし、小麦・大豆は世界有数の輸出国だし、フォークランド島近海の南大西洋は魚介類の宝庫だし。石油は出るしウラン鉱石だって出る。政治も民主主義がすっかり板につき、反政府活動の芽もないしやる理由も旨みもないことを国民は知っている。さらには日本人移住者がが3万人以上もいる。私から見れば地球上のパラダイスとも言える国である。しかし、何事もすべてがうまくいくとはかぎらないのが世の常で、アルゼンチンも2001年のデフォルトの後遺症に未だに悩まされ、今年2月1日からは外貨節約のため強烈な輸入制限を始めた。ブラジル製品をのぞき、ほとんどのものが輸入禁止になった。外資の投資が極端に減ったので外貨をかせげるのは大豆だけになってしまった。しかし、ラテンアメリカの国はなんのかんのといっても生き抜くのだから偉い。最後はやっぱり資源のあるなしの問題なんだろうと思う。金がなくても物さえあれば強いものだ。
 話はやっぱり会社のことに戻ってくる。今年は地上アナログ放送が終わって空いた900メガ帯と700メガ帯の2種類の周波数の割り当てが予定され、すでに2月末に900メガ帯のいわゆるプラチナ・バンドがソフトバンクに割り当てられた。ドコモとauはすでに持っているので、今回はソフトバンクが取ると言うのは大方の予想でもあったし、そうでなくても、郵政省肝いりで始めたPHSのウイルコムの経営が怪しくなったのを、ソフトlバンクが救ったということで一本借りができていた総務省が、当然のことをしたと見る人もいる。
 ここまではいいんだが、これからの展開が、はらはらどきどきしなくてはならないことになりそうなのだ。もう一つの700メガ帯の割り当てが7月に行われることを巡って、ソフトバンクがこれもよこせと総務省に猛烈にアタックをかけている。ソフトバンクはKDDIに対して敵意を持っていると言う。理由はただ一つ、iPhoneの独占をKDDIに破られた恨みである。この700メガ帯は帯域の幅から2社しか参入できない。今年になってしばしば発生した、スマートフォンの急増による回線のパンク状況を解消させるには、加入者の多い会社の順に割り当てるのが筋だろうが、一方で公正に選ぶとなると、2008年の高速無線サービスの事業者選定(KDDIとウイルコムが免許を受けた)の例ににて、今度はドコモとイーモバイルという答えもある。特にイーモバイルは経営不振から新周波数をもらわないと存亡にもかかわるという理由がある。そこでソフトバンクはイーモバイルへの割り当てをバックアックして、割り当てられたらイーモバイルをそっくり買収してしまおうという戦略を描いていると見る人もいる。
 KDDIにとっては、ソフトバンクにいいように翻弄されてはたまらない。このままでは新参者に、「かって国内はNTT、国際は KDDと棲み分け、NHKと共に郵政御三家と言われて、宇宙空間に君臨した名門の血を引くKDDI」が、将来の存続を脅かされ、その基盤を揺すられようとしている。今年の大河ドラマではないが、栄枯盛衰は世の習いとは言え、2012年は周波数の割り当てを巡り携帯電話会社を激動させる地震が来る、怖い年になりそうな、いや-な予感がする。
  (注:下線の部分は月刊誌「選択2011.12月号2012.2月号の記事から引用した。2012.4 記)